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掌編 トルタ・カプレーゼ 高北謙一郎

こんにちは。週に一度の掌編投稿です。実は昨日、初めてトルタ・カプレーゼを焼いてみました(写真のケーキ)。マフィアに愛されたというエピソードを持つケーキ。ふと、ああそういえば以前に書いた作品って、このケーキの雰囲気に合っているよな、と…。

そんなわけで、タイトル変更して投稿。今日も読み切り投げ銭設定にて100円で販売します。よろしくお願いしたします。



 【トルタ・カプレーゼ】         高北謙一郎


今から五時間すきなことをしていいと言われたら、あなたなら何をしたいですか?

祭壇で、おもむろに司祭が告げた。質問ではなく説教の語り出しとして口にしたのだろうが、今の俺にとってはずいぶんと皮肉な言葉だった。先ほど始まったばかりの挙式、そのあとに続く披露宴……どう考えたって、この五時間に自由はない。それどころか、これまで俺は、自由な時間など一度たりとも手にしたことはなかった。

隣に立つ女をチラリと窺う。見ず知らずのオンナ。純白のドレスを纏い、しずかに佇んでいる。ヴェールの下に隠れてその表情はよく分からなかったが、傍から見れたこれから先の未来に思いを馳せる花嫁らしくもある。

まぁ、たしかにこの茶番じみた時間さえ無事に乗り切ってしまえば、このオンナもまた、これまでよりはマシな人生を歩むことができるだろう。少なくとも、マフィアの愛人なんて厄介な境遇からは解放されるに違いない。

「海でね、思い切り泳ぎたいな」

不意に、オンナが口を開いた。片言、というには流暢な言葉だったが、あまりに唐突で意味が分からなかった。海で泳ぎたい? たしかにこの教会は海に囲まれた小さな島にある。今は夏ではないが、水もさほど冷たくはない。だが、やはり俺にはオンナの発言の意味が理解できなかった。背後に並んだ参列者たちからは、失笑ともいえる笑い声。戸惑った表情の司祭。そして遅れること数秒、ようやく俺はオンナの発言が先ほどの司祭の言葉に対する応えであったと理解する。今から五時間すきなことをしてもいいと言われたら……別に応える必要などなかっただろうに。

「新郎、あなたは何をしたいですか?」

ひとつ咳払いの後、司祭が訊いた。花嫁が応えてしまった以上、流れとしては仕方がないだろう。しかし、いきなり自由をくれてやると言われても困る。自由なんて言葉は、もうずっと俺には縁のない言葉だ。夢見ることはあっても、具体的に考えたことはない。いや、もはや夢見ることさえもなかった。それは、この結婚式を終えれば晴れて自由の身になれると言われても、その先の展望がまるで見えていないのと同じだ。

これまでの日々を思う。俺は子どもの頃、父親の借金のカタに売られた。よくある話だ。闇社会に生きる男に買い取られ、ずっとコキ使われてきた。盗みや恐喝は当たり前、殺しの手引きさえ珍しくはなかった。車の運転、荷物の運搬、男の護衛……あらゆることを命じられた。拒むことは許されなかった。生き残るためには、それ以外の選択肢はなかった。

まるでどぶ鼠のような暮らしだった。闇を這いずり回り、引き換えに手に入れたのは、何もない小さな部屋。歩くたびに軋んだ音を立てる床、黒いシミが浮き出た壁、硬いベッドに、布団はなかった。夏はまだしも、冬の寒さは耐え難いものがあった。

「温かい布団で、眠りたいな」

知らぬ間に自分の口から飛び出した言葉に驚いた。会場中が爆笑に包まれる。布団のない生活を余儀なくされている人間が実在することなど、考えられないのだろう。とはいえ自分の境遇を恥じ入るほどの繊細さは、すでに失っていた。俺は小さく肩を竦める。

と、左手に温もりを感じた。隣に立つ女が、黙って俺の手を握りしめていた。驚いてヴェールの向こう側にある女の顔を見ると、前を向いたままに、ひとつ小さく頷いた。何をどう思ったのかは知らないが、どうやら俺の言葉が冗談ではないことだけは伝わったらしい。急に気恥ずかしくなって顔を背ける。

それでも俺は、女の手をふり払うことはできなかった。俺の左手は、すでにそのぬくもりを知ってしまった。もう何年も忘れていた、ひとの手のあたたかさだった。

「今、あなたたちが発した言葉は、それぞれ個としての願望です」と、司祭が再び口を開いた。「しかし、これからあなたたちおふたりは、夫婦として結ばれるのです。今日からあなたたちそれぞれの願いは、おふたりの願いです。新郎、どうかこれからは新婦と海で思い切り泳いでください。そして新婦もまた、新郎と共に温かい布団で眠ってください」

軽口を叩く司祭。呆れる俺を他所に、会場は冷やかしの歓声に包まれる。

まったく。どいつもこいつも面白がっているとしか思えない。だいたいこの連中はどこから湧いてきたのだろう? 全員が全員、堅気の者とは思えない。最前列のベンチでは、女の後見人たるマフィアのボスが、盛大に両手を打ち鳴らしている。俺の斜め後方では、俺を支配し続けた男が陽気な声をあげている。

突然、女が俺の耳もとに顔を寄せてきた。囁くように、素早く告げた。

「これから一緒に海に飛び込もう」

まじまじと、ヴェール越しの顔を探る。今日、初めて出逢った女は、その口もとにうっすらと笑みを浮かべていた。本気なのか? それとも、せめてこの式の間だけは夫婦としてふるまおうという、暗黙の了解じみた演技なのか? 真意のほどは分からないが、その言葉に、多少なりと気分をよくしている自分がいた。

偽りだとは分かっている。この女とは披露宴が終わるまでのつき合いだ。すべてが終われば、女はどこかに消えてしまうだろう。俺にしても、大して変わり映えのない生活に戻るだけだ。そう、穏やかな新婚生活が始まるわけじゃない。けっきょく俺は、使い走りの雑魚用の最後に、マフィアのボスに飽きられた女を押しつけられただけだ。

それでも俺の左手は今、女の右手を握りしめている。ただでさえ華やかな会場の雰囲気が、冷静な判断を難しくしている。その手のぬくもりに、ありえない未来を夢みている。

そうこうしているうちに、指輪の交換となった。司祭に促され、女の方を向く。女もまた、ドレスの裾を気にしながらゆっくりと俺の方に身体を向けた。お決まりの儀式。あらかじめ用意されていた指輪が司祭から手渡される。互いの指にリングを嵌める。誓いの口づけを。女が、ゆっくりと膝を折って屈んだ。俺はそのヴェールに、そっと手を掛けた。

まるでこの儀式自体が、夢の中の出来事のようだった。くちびるの記憶は、鮮明にして朧気だ。野次馬たちの拍手も聞こえない。囃し立てる声も届かない。だからなのか、女が再び囁いた言葉も、最初は上手く聞き取れなかった。「これから、海に飛び込もう」

その瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。「この式が終わったら、わたしたちは殺されるよ。わたしたちふたりにはね、多額の保険金が掛けられているんだ。このまま連中が解放してくれるはずなんてないじゃないか」

急に現実が戻ってきた。この結婚式が終わったら自由が待っている……そうだ、そんな言葉、まやかしに決まっている。長いこと自分に仕えてくれた礼として自由と花嫁を……そんなの、嘘に決まってる。分かっていたじゃないか。連中がタダで解放してくれるはずがない。すべてが終われば、俺たちは殺される。

騒ぎ続ける参列者の声に混じり、建物の外で吹く風の音が聞こえてくる。寄せては返す波の音も。俺たちは今朝、船に揺られてこの教会に連れてこられた。真っ白な灯台となだらかな丘、蛇行を繰り返しながら続く小路、泣きたくなるぐらいの青い空……最後の一日を迎えるならこんな空の下がいいと、その時は考えたものだ。

この場所から逃げ出すことなど、できるのだろうか? チャペルを埋め尽くす参列者、マフィアのボス、そして俺を支配し続けた男……披露宴が始まってしまえば、もう俺たちが外に出る機会はない。となれば、チャンスは次の瞬間、ただ一度きりだ。参列者たちのフラワーシャワーを浴びながら退場する、その瞬間だけだ。

おそらく、逃げ切ることは不可能だろう。いずれにせよ俺たちは連中に捕らえられ、殺されるだろう。ならば少しでも抗ってみるのも悪くない。そう、せめてこれから五時間でいい、何とか逃げ延びてやる。残された時間、好きなことをしてもいいだろう。

「それでは、新郎新婦の退場です」

アナウンスが聞こえる。ゆっくりと、俺たちは身体の向きを変える。真っ直ぐに伸びるバージンロード。その先には、両開きの扉。唯一の脱出口であり、未来へと続く扉……隣に目を向ける。これから始まる束の間の逃避行。そのパートナーに、俺は囁いた。

「オーケー、一緒に海に飛び込もう。だけど、やっぱり最後は温かい布団で眠りたい」

女が、その口もとに笑みを浮かべた。

                                                    

                            《了》

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