見出し画像

掌編 月夜の蓮  高北謙一郎

こんばんは。遅くなりました。週に一度の掌編投稿です。何故に遅くなったのかというと、たったいま、書き下ろしたから。はい、久々に掌編を書いてみました。そろそろ朗読イベントで使っていた原稿のストックも底を尽きかけているので。

先日、たまたま蓮の花を撮影しに行きました。どうしてだか、私の頭のなかには月夜に咲く蓮の花が思い浮かべられました。この物語は、そんな月夜に花ひらく蓮をイメージしてつくられました。

いつものように投げ銭設定です。お楽しみいただければ幸いです。


【月夜の蓮】        高北謙一郎

どうしてだろう? ずっとむかしから、月夜に花開く蓮を、頭のなかに想い描いていた。

夏。うつくしい満月の夜だ。空は明るく、地上もまた、その光に照らされて視界は確保されている。大きな池の畔に、わたしはひとり佇んでいた。目の前には、月光を浴びて花開く白い蓮が咲き誇っている。一輪や二輪ではない。あたり一面、膨大な数の蓮が埋め尽くしていた。遠くには、黒いシルエットとなった木々と背の高い建造物。その黒さは蓮の白さを際立たせている。自ら仄ひかるような蓮の花々は、群生する蛍を想起させた。


あの日、蓮は朝に咲く花だとわたしの言葉を遮ったのは、二年前に亡くなった祖父だった。まだ子どもだったわたしが月夜に咲く蓮の話をしていると、祖父は楽しそうに笑いながら言った。

「ヒロは夢でも見たんだろうな」と。

蓮は早朝より徐々に花を開き、昼前には花を閉ざしてしまう。夜明けの早い夏の時期ともなれば、三時、四時には空は白み始める。どう考えても、蓮が花開くころには、月は朝の光にかき消されてしまうだろう。もちろん蓮にだって個体差はある。朝の訪れを待たずに花を咲かせるものも、あるかもしれない。しかし、それでもわたしが見たような、あたり一面を埋め尽くすように、すべての蓮が花を開くことはない。そんなことを、祖父はわたしに話して聞かせた。

誰でもそうなのかもしれないが、子どものころのわたしは、夢や空想の出来事と、現実の区別がうまくつけられないことがあった。わたしは月夜に咲く蓮を見たのだと言い張った。言い張れば言い張るほど、自分でもそれがあり得ない事だと分かり、ますます意固地になって言い張った。蓮の開花時間がどうこうというよりも、まだ子どもだった自分が夜、何処とも知れぬ池の畔にひとりで佇んでいることなどあるはずがない。しかしそれを完全に否定してしまうには、あまりにも自分の頭のなかに残ったその景色は鮮明だった。
 

あれからもう、十数年もの時が経っていた。わたしはすでに二十代の半ばに差し掛かった大人になっていた。週末でもないのに職場の仲間たちと呑み明かし、気づけば終電もなくして街をさまよい歩いている。一緒に呑んでいた同僚たちの姿もない。酔いを醒ますために店を出たところまでは覚えていたが、そこから先のことは、記憶が曖昧だった。心地よいと呼ぶにはいささか度を越えたアルコールが、胸のあたりでわだかまっている。喉の渇きと睡魔が、ずっとわたしを苛んでいる。もつれた足で斜めに道を横断すると、そのまま倒れ掛かるように、すぐそこにあった手摺に身を預けた。

ふうと大きく息を吐いた。それからひとつ、しゃっくりをした。当然のことながら、月夜に咲く蓮のことなど疾うのむかしに忘れていた。それどころかまだたったの二年しか経っていないというのに、亡くなった祖父の顔すらも、よく思い出せなくなっていた。だからいま、こうしてふとむかしのことを思い出したのは、ある意味では奇跡的とさえ思えた。いや、そんなことは奇跡でもなんでもない。いま目の前に広がる光景に比べれば、わたしの記憶なんて取るに足らない。そう、わたしの目の前には――

「蓮……」

夏。うつくしい満月の夜だ。空は明るく、地上もまた、その光に照らされて視界は確保されている。大きな池の畔に、わたしはひとり佇んでいた。目の前には、月光を浴びて花開く膨大な白い蓮が、仄ひかる蛍のように咲き誇っていた。

「なんで……いま、ここに……」

呆然と立ち尽くす。ずっと頭の隅に捨て置かれたままになっていた記憶の景色……いったい何がどうなっているのか、まるで理解できなかった。それでも紛れもなく蓮はそこにあった。月夜に向かって大きく花を開いていた。

「おじいしゃん……ほら、やっぱり月夜に咲く蓮、あるんだよ」

あの日、笑いながらわたしの言葉を遮った祖父の顔を思い浮かべながら、ひとりつぶやく。早朝から昼にかけてしか花開くことのない蓮……わたしの言ったことを夢と決めつけた祖父……ムキになって言い張った子どものころのわたし……不意に、記憶が鮮明によみがえった。

仄かに光る蓮の一輪が、ふと、夜の闇に浮かびあがった。ふわりと空に解き放たれるように、舞いあがった。風にでも飛ばされたのだろうか、それは月の光に照らされながら、ゆっくりと上昇を続け、やがて消えた。

「ああ……」

何故だかわたしの目には、涙が浮かんでいた。夜空に舞いあがり消えていった蓮の花は、あの日、意固地になって拒絶した祖父の言葉を、その先に続けられた言葉を、思い出させた。

「ヒロ、たとえそれが夢のなかの記憶だったとしても、正夢ということもある。もしかするとお前が大人になってから、その光景を目にすることがあるのかもしれん。大事なのは、その時お前がそれを見逃さないことだ。そして思い出すんだ。今日のことを。ここでワシと話したことを。そこにはきっと、何か大切な意味が隠されているはずだ」

そんな予言者めいた言葉を子どもだったわたしに理解できるはずもなく、わたしはただ、祖父が自分の言葉を信じていないと腹を立てていた。いまにして思えば、祖父はあの日、わたしが怖がらないようにと、敢えて最初に夢だと言ったのだろう。怖い夢を見ただけだ、心配する必要はないと、そう伝えたかったのかもしれない。ただ、あまりにも自分が見たものが鮮烈だったがために、わたしは自分の言葉を信じてもらえなかったことに失望してしまったのだ。祖父が本当に伝えたかった言葉は、そのあとにこそ続けられていたというのに。

また、別の蓮が闇に舞った。先ほどの花が切っ掛けとなったのか、仄かに光る蓮の花は、次々と夜の中にふわりと浮かんだ。うつくしい景色だった。白い蓮は、まるで闇夜を埋め尽くすかのようにどんどんと舞いあがり、あたり一面を優しく照らした。

「おじいちゃん……ちゃんと見逃さなかったし、ちゃんと思い出したよ」

祖父の存在を、身近に感じていた。どうしてだか、すぐそばに祖父がいるように思えた。いつも優しかった祖父、わたしのことを心配してくれていた祖父……紛れもなく、わたしは祖父に懐いていた。だからこそ、二年前の祖父の死を受け入れることができなかった。祖父の存在そのものを消し去るかのように、わたしは祖父のことを考えないようにした。わたしは記憶の底に、祖父との思い出を沈めた。

だけど記憶がよみがえったいま、ひとつだけ気がかりなことがあった。どうしても、祖父が亡くなった理由が思い出せないのだ。祖父の葬儀の記憶はある。梅雨も明けたはずなのに、よく雨の降る暑い夜だった。わたしはぼんやりとそれを見つめていた。泣き崩れる父や母の背中も、思い出せる。でも……

そこにはきっと、何か大切な意味が隠されているはずだと、あの日の祖父は言った。いったい、この場所でこの光景を目の当たりにすることに、何の意味が……

「お嬢さん、成仏できずにいるのかね?」

不意に、背後から声が聞こえた。ふり返ると、奇妙な男が離れた場所に立っていた。虚無僧というのだろうか、頭から編み笠を被り、片手には杖。むかしはよく駅の片隅などで目にすることがあったけど、最近ではほとんど見ることもなかった。

「何を……おっしゃっているのですか?」

わたしの声は微かに震えていた。こんな真夜中に、得体の知れない風貌の男に声を掛けられたのだ、それだけでも充分すぎるほどに警戒するのは当たり前だ。だけどそれ以上に、男の口から発せられた言葉に、ぞくりとするほどの恐怖を感じてもいた。

「おじいさまが、お嬢さんを迎えにこられています」

男はわたしの言葉など気にすることもなく、言葉を続けた。

背筋に悪寒が走った。あの日に見た夢のように、二年前の夜がまざまざと目の前に広がった。週末でもないのに職場の仲間たちと呑み明かし、気づけば終電もなくして街をさまよい歩いていた。一緒に呑んでいた同僚たちの姿もない。酔いを醒ますためと店を出たわたしは、ふらふらと外を歩いていた。どうしようか? どうやって家に帰ろうか? そんなことを考えながら、わたしは祖父に電話をした。迎えに来て欲しいと、酔った勢いで電話をした。祖父が迷惑するとは考えなかった。こんな遅い時間ひとりで困っている孫が助けを求めているのだ、祖父ならすぐに迎えに来てくれるに違いない。そして……

一時間もしないで、祖父はわたしを迎えに来た。泥酔して前後不覚のわたしを支えながら、夜の道を歩いた。向こうにタクシーを待たせてあるからと、そんなことを言いながら。

と、大きな通りに差し掛かった時、一台の車が近づいてきた。甲高いタイヤの軋みが聞こえた。まぶしいヘッドライトがわたしたちを照らした。祖父が何か叫んだ。祖父の腕が、わたしを突き飛ばした。だけど……

「思い出されましたかな、お嬢さん?」

編み笠を深く被った男が、手にしていた杖で、激しく一度、地面を衝いた。その衝撃に弾かれたように、わたしは自分の身体がふわりと宙に浮くのを感じた。まるで、つい先ほど夜空に舞いあがった白い蓮たちのように。

目には、新たな涙が溢れていた。

ごめんね、おじいちゃん。

あの日、わたしがおじいちゃんを呼び出したりしなかったら……

すぐそばに、祖父のぬくもりを感じた。白い蓮たちが、次々と夜空に舞いあがった。わたしは仄かに光る白い蓮に包まれて、緩やかに夜の空に揺れた。
やがて朝が、わたしたちをこの世界から静かにそっと、吹き消した。


                                            

                              【了】

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?