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掌編 ある歌姫に捧ぐ 高北謙一郎

  

こんばんは。週に一度の掌編投稿です。昨日、たまたま都内にあるライブハウスで女性ヴォーカルの歌を聴きました。(https://www.takakitablog.work/entry/2019/03/10/175929)

そんなわけで、今日は歌姫に捧げた掌編を。

いつものように投げ銭感覚、100円にて販売しております。お楽しみいただければ幸いです。



 【ある歌姫に捧ぐ】             高北謙一郎

残り香のようなものだと、彼は言った。

例えばふと訪れた酒場の扉を開いたとき、ふわりと鼻さきを掠めた香水に想いを巡らすように、彼は手にした楽器から、うすれゆく音の記憶を聴き取ることができた。

彼のもとには様々な楽器が持ち込まれた。彼はそれに触れることで、かつてその持ち主が奏でた音を聴いた。それはその楽器だけが持つ記憶であり、物語だ。彼はその音の連なりを紙に書き記す。ひとつひとつ、音符に変換する。

記譜技能士――それが彼の職業だった。

依頼として多かったのは、やはりその楽器の所有者と死に別れた遺族からのものが圧倒的だった。彼らは故人が手にしていた楽器を持ち込む。ギターやバイオリン、トランペット……ありとあらゆるものだ。たとえばくたびれたアコーディオン。つい先日に亡くなったばかりの夫のものだと、依頼主である婦人は告げた。彼はそれを膝の上に乗せ、両手で抱きかかえる。依頼主の見守る中、しばし眠りに就いたかのように身動きひとつしない。誰にも聴こえない音を、彼だけが聴き取っている。

いつしか彼は楽器を床に置き、今度は机に向かう。窓際に置かれた、よく使い込まれた机だ。そこに五線譜を並べると、おもむろに音符を書き記す。ものも言わず、黙々と。時には数時間にも及ぶ作業だ。やがて出来上がった譜面。それはいわば故人の物語だ。残された遺族はそれを手に家路に就く。様々な想いを抱きながら。

しかし技能士のもとに舞い込む依頼は、そればかりではなかった。

ある日のことだ、一本の電話がかかってきた。とある中古楽器を扱う店の主だった。

とても古いピアノを買い取るのだと、依頼人は告げた。しかしそれがこれまでにどんな音を奏でてきたのか、それを知った上で交渉に入りたいのだと。

当然のことながら、持ち運ぶことのできない楽器というものもある。ピアノ等は最たる例だが、そういったものに対しても、彼はそこに赴くというかたちで依頼を受けていた。技能士は、楽器屋の言葉に耳を傾ける。

買い取りの話があったのは十日ほど前のことだ。地元の小さなバルに置いてあったピアノだ。コンディションは悪くなかった。調律も定期的に行われていたようだ。それでもバルそのものが閉鎖されるとなると、やはり手放すよりないだろう。老朽化の進んだ建物は近く解体されるらしい。

技能士にとってはバルの存続どうこうは興味のないことだ。それよりも、対象となるピアノがそういった場所に置かれていたということの方が気がかりだった。場合によっては、この仕事は一日で終わらない可能性もあると、彼は依頼人に告げた。

そもそもピアノという楽器は、大勢のひとびとが触れている可能性が高い。個人宅に置かれているものならともかく、学校やスタジオ、あるいは式場やコンサートホール等にあるものは、演奏者を特定できないことの方がほとんどだ。その楽器は様々なひとびとの想いが絡み合い、複雑な物語を奏でている。彼はそんな大きなうねりの中から一本の糸を手繰るかのように、ひとつの旋律を書き記す。しかしその作業には膨大な時間が必要だった。スケジュールを調整し、とにかく一度そのピアノに触れてみるということで話がまとまった。

約束の日、彼は列車に乗って駅に辿り着く。四十代の半ばぐらいだろうか、恰幅のいい楽器屋の主が出迎えた。ありきたりな挨拶の後、さっそくふたりは目的の場所に向かう。初めはバルに赴くのかと思われたが、主が告げるには、すでに楽器は自らの店に運び込んだとのことだ。解体の日が差し迫っているのかもしれない。

十分ほどの道すがら、主は今日の技能士の仕事に際し、ピアノの持ち主も同席する旨を伝えた。別に問題はなかった。自分の楽器にどのような値段がつけられるのか気になるのは当然のことだ。彼はひとつ頷くと、了解の意味を込めて軽く肩を竦めた。

店に辿り着いた。そこもまた、いつ取り壊されても不思議ではないほどに古びた建物だった。くすんだガラス扉を開ける。飴色の弦楽器や燻したような管楽器、どこのものとも知れぬ民族楽器が、所狭しと陳列されていた。

そしてそんな店の奥に、そのピアノは置かれていた。褐色に近いブラウンのグランドピアノ。日ごろ見慣れているものより幾分サイズが小さいのは、それが作られた時代と何らかの関係があるのだろうか。技能士は店の主に促されるがままに近づいていく。その指さきが、そっと鍵盤に触れた。

まるでサイレントの映画でも観るかのように、彼の脳裏に幾多の映像が浮かんでは消えた。バルの景色だ。狭い空間には幾つものテーブル席、にぎやかな談笑、注文した料理がこないと文句をいう女、酔っ払ってテーブルに突っ伏している男、その間を縫うように歩くウエイター……ピアニストは、そんな喧騒の中で演奏を続けている。

技能士の目には今、ひとりの女の姿があった。物憂げな表情でピアノにもたれかかり、たばこの煙に包まれた天井に視線を向けている。その周りだけ空気の層が違っているかのように静かだ。やがて女はゆらりとピアノから離れる。離れ際、微かな笑みを口もとに浮かべ、ちょうどピアニストが座っているあたりに一瞥をくれる。優雅なステップでも踏むかのように、ゆったりと歩く。そしてマイクスタンドの前に辿り着く。いつの間にか、店内が静まり返っている。女が、すっと息を吸った。

女を見るピアニストの視線はひとつではなかった。つまりはそれを弾いたピアニストは複数いたということだ。にもかかわらず、それは常に同じものでもあった。すべてのピアニストが、ステージで歌う女を見守っていた。すべてのピアニストが、その女に特別な感情を抱いていた。技能士はそれを追体験する。ピアニストの視線と同化し、彼らが奏でた音を聴き取る。どうやら長くかかることはなさそうだ。誰もが同じ感情を抱きピアノを弾いているのだから。その女に魅了されているのだから。

やがて出来上がった一篇の物語。店の主はそれを受け取ると、しばし五線譜の上に描き出された音の連なりに見入った。それから小さく息を吐くと、静かにピアノの前に座る。そして美しい旋律が流れ出した。

ひとつの物語の完成によって、別の物語が浮かびあがる。技能士は、目の前でピアノを弾いている男の物語を思う。それはこの楽器に残されていた、ごく微かな淡い記憶だ。かつて子どもだったころ、この店の主はバルのピアニストたちに可愛がられていた。昼間のポーカー、余興のダンス、楽器の手ほどきを受けたこともある。そして彼らが愛した女に、憧れの眼差しを注いでもいた。

言葉をしゃべることができるからといって、想いのすべてを言葉にできるわけではない。ピアノが弾けるからといって、想いを音に変換できるとは限らない。それは欠けた音符だ。誰かの手によって補完されることを夢みた、未完の物語だ。

依頼人は今、ピアニストたちに代わりその想いを奏でている。彼らが伝えきれず、それでもひとつひとつの音に込めていた言葉を。

技能士は黙ってその場を離れた。そして店の片隅でひとり涙を流す老いた女に目を向けると、小さくひとつ頷いた。彼はひっそりと、その店を出た。

                                  
                                            

                            《了》

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