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結局、束縛とはなんなのか

唐突ですが、つまらない前置きはさておいて、束縛について考えるときに2つの方向から考える必要があると思いました。

①束縛しなければ安心できない相手
②相手を問わず恋愛モードになると束縛してしまう自分

原因が相手にある場合と自分にある場合、もしくはその両方の場合、どう考えれば良いのか、述べます。

まず①の場合、束縛をしなければ安心できない相手は、別れた方が賢明です。なぜか、束縛には限界があります。自分以外の全ての異性とコミュニケーションを取らずに生きていくことは不可能であり、社会生活がままならなくなります。

どこまでOKでどこからNGか、細かいルールを設けている方々もいるのかもしれません。しかし束縛をしなければ安心できない相手が引き起こす可能性がある最悪のケースとは何でしょうか。もしそれが浮気なのだとしたら、浮気は0、100です。つまり、異性がいる飲み会への参加をOKにしている時点で、すでに0ではないということです。

0か100かを案じている身分でありながら、0以外を許容してしまっている時点でそのルールは意味がありません。意味のないルールということは、意味がないルールということです。そんなルールはある方が不健全だということです。

で、どうするべきかといえば、ルールなど設けないことです。ルールを設けないことによって相手が自分の傷付くようなこと、嫌な気持ちになるようなことをするようなら別れて差し上げるべきです。

人は誰しも明日も生きているか分かりません。死は平等に訪れるものですから、自分を大切にしない他人に、限りある自分の時間を奪われている状態は避けた方が無難です。

浮気をするという場合、相手にとって自分の代わりはいくらでもいるということです。一方で、親を考えたときに、親にとって自分の代わりとなる子供がいるだろうか、いやいないだろう、と思い至ります。であれば、自分の代わりがいない、自分を大切にするしかない人と一緒にいる方がよほど精神的に健康でいられるはずです。

ということで、浮気をしなければ安心できないような相手であれば、束縛をせずにルールも設けず、一線を超えた時点で別れるという作業を行うことが望ましいという結論です。

続いて②の場合について考えてみました。②の場合、別れた方が賢明です。なぜか、相手に迷惑がかかるからです。人を愛するということは、人をコントロールすることではありません。むしろその逆で、思い通りにならない部分まで受容する作業です。

エーリッヒフロムの「愛するということ」を読んでいただければと思いますが、基本的に、恋愛モードになる度に人を束縛するような人材は、そもそも恋愛ではないことをしている可能性が高いです。言うなれば、恋愛ごっこをしているか、性欲を美しく語りたい症候群を発症しているか、どちらかです。それ以外には可能性はありません。

子供のうちは仕方ない部分もあるかと思いますが、お互い忙しい社会人である場合に、相手の迷惑になるので、身をひいたが相手のためです。もし愛していると言うのならば尚のことです。愛しているのであれば、愛している人の幸せのために消えてあげた方が良いです。

出来ないのであればそれはただの執着であり、ただ寂しくなりたくない自分のエゴであり、暇つぶしであり、無垢な顔をして他人の寿命を奪っているという自覚を持っていただきつつ、懺悔しながら日々を過ごしていただいた方が良いのかもしれません。

どちらのパターンもまとめると、別れた方が良いという結論になります。つまり束縛とは、束縛が発生した時点でその相手とは、双方が幸せになる関係性を作ることは不可能ということです。











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