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「許し」とは何か?

初回のトピックは「許し」についてです。

許しとは何でしょうか?
あなたは他人を許せる人ですか?
どうしても許せないことはありますか?
日常で「許し」について考えたことはありますか?

この記事を書くにあたっての経緯はありません。お風呂に使っていたらいつの間にか考えがまとまっていました。最近特に何か許せないことがあるわけでもなく、ネタ出しをしようとしたわけでもなく、、、自分の思考はつくづく不思議です。

さて、「許し」についてです。この言葉は日常会話の中で様々な文脈で使われますね。

「今回だけは許してあげよう。」
「あいつのやったことは絶対に許せん。」
「悪かった。許せ。」...etc

また、宗教の観点からしても、キーとなるワードです。キリスト教の中心の教えは「罪の赦し」であると説明する人もいます。


さて、ここで疑問です。

人は、他人のことを許すことは可能なのでしょうか?

この答えに対する私の答えは、、
わからない、です。


ですが、このような角度から答えることもできます。

私は、他人のことを決して許さない、と。

ちょっと聞こえが怖くなってしまいましたが、どういうことなのか詳しく説明します。

まず、このトピックを語るにあたって外せない問題が

「許し」とは何か?

ということです。

先ほどもいいましたが、「許し」とは実に、様々な文脈で使われる言葉です。考えやすくするために、今回はシチュエーションを限定したいと思います。

設定は
あとで食べようと冷蔵庫にとっておいた高級なプリンを、妹に勝手に食べられた。週に一回の楽しみを台無しにした妹を、私は許すか、許さないか。

・・・実話ではありません笑
むしろ私は食べてしまう側です。
このようなコミカルな例では考えにくいという人は、親を強盗に殺された例で考えていただいてもかまいません。妹→強盗、プリン→親、食べられた→殺されたに読みかえてください。そのほうがより核心に近いと思いますが、記事として生々しくなってしまうのでこうしました。結論は同じだと思っています。

そして、この問いの答えとしては、「私は妹を許さない」になります。
えらく心の狭い兄ですね。

さて、なぜ許さないのかを説明する前に、このシチュエーションで妹を許すこととはどういう意味かを考えます。

考えられることは
「許す」=
・内心腹が立っているが、表面上は出さないようにする。
・妹が勝手にプリンを食べたのを、無条件で無かったことにする。
・弁償する、などの条件付きで罪を無かったことにする。
などでしょうか。

1つめの「許す」は本質的なものはなく、今回議論したい内容とは外れるため、除外します。

ここで、2つめ3つめにある「無かったことにする」とはなんでしょうか。
時間を遡行して過去を改変することができないとすれば、妹がプリンを食べた事実を無かったことにすることはできません。
とすれば、無かったことにするのは次のうちのどちらかです。
A. 妹がプリンを食べたという記憶(を無かったことにする)
B. 妹への怒りの感情や、プリンを失ったという悲しみの感情(を消す)

Aの記憶を消すというのは、自己暗示で消すか、時間の経過とともに自然消滅するか、どちらかだと思います。後者は「許す」というより「許してしまった」というニュアンスになるので、除外します。もちろん、気の持ちようで記憶の消滅を早める(もしくは遅くする)ことはできますが、そこには自分の意思が介在しているため、前者に含めます。つまり、Aは自己暗示

Bの感情を消すというのは、気持ちを落ち着かせるか、はたまた自己暗示による消化になります。前者は一見、本当の許しに近いように思えます。しかし、「プリンを食べられたという事実→腹立たしい、悲しい」という式は変わりません。実際そうだったわけですから。この場合、一度気持ちが落ち着いたとしても、もしそのことを思い出してしまえばまた感情が再燃するはずです。これでは許せたとは到底いえません。もちろん、過剰に怒りを感じている場合は落ち着くべきです。「プリンを食べられた。奴をぶちのめしてやらないと気が済まない。」とか。しかし過剰な怒りのコントロールも「許し」とは少し違う気がします。私の言葉で表現すれば、「許し」というより「自らの過ちを認めた」となります。プリンを食べられただけで妹をぶちのめそうと思ってしまうのはバカバカしい、と後で思ったということですから。ここでも結局、後者の自己暗示に頼ることになります。

ここまでの議論が正しければ、次のことがいえます。

許す=自己暗示をかける

自己暗示というといかにも怪しいイメージがあるかもしれませんが、これは多かれ少なかれ私たちが日常的に行っていることも含めます。
夜遅くまでテスト勉強をして「俺はまだ眠くない、まだやれる!」と頑張ってみたり、本当はあまり気が合わないクラスメイトや同僚と仲良くしてみたり。(そういうことをしない人ももちろんいます)

ここからは私個人の意見になります。

自己暗示は、一時的な過剰な感情を抑制したり、偏見や先入観を消して正しい感覚を取り戻すことにも有効です。しかし、多くの場合はむしろ本来の感情を歪めてしまうことがほとんどだと思います。そのときに感じた感情が自然なものである場合、それは歪めるべきではない、と私は考えています。ここでの「自然」の定義は難しいですが、例えばプリンを食べられるという出来事の前にストレスや疲労が蓄積していて、過剰に怒りを感じたのだとしたら、それは自然とはいえないと思います。過去の出来事によって感情に手が加えられてしまっているのですから。

・・・感情に手を加えるべきではない、という意見は議論を呼ぶ点でもあり、一つの題材として書けるのでここでは省きます。今回はあくまでも個人の意見です。

自己暗示とは自分への嘘。つまり、ざっくり言えば相手を許すということは自分に対して嘘をつくことになるから、私はしないという結論になります。

ただここで強調しておきたいのは、相手を結果的に許してしまうケースまでは否定しない、ということです。このケースの例としては、先ほど述べた時間の経過とともに記憶が消滅したパターンのほかに、怒りの打ち消しがあります。怒りという感情が打ち消せるかどうかはかなり難しいですが、皆さんの経験上、思い当たるのではないでしょうか。

例えば、プリンを食べられたとしても、「まあこの人ならいいか」っていう場合がありますよね。これは、相手に対して感謝や好意など正の感情の蓄積があるということです。蓄積された正の感情によって怒りを打ち消すことは可能だと私は考えています。

また、プリンを食べられたその時は怒りを感じていても、そのあとの出来事によって打ち消されてしまう、というパターン。謝る態度に誠実さを感じたり、詫びの品が嬉しかったり、全く関係ない出来事で好感をもったり。

これらの変化のことを、多くの人は「許す」と表現します。しかし、細かいことをいえば、意図的に自分の感情に手を加えたわけではありませんよね。私はあえて「許してしまった」と区別して表現します。

まとめです。

私は、他人を「許してしまう」ことはあれど、「許す」ことはしません。

現実には、どれほどの好意でも打ち消せないほどの怒り、悲しみもあると思います。しかし、その「許せない」感情とともに相手と向き合うのが、相手への誠実さだと考えています。

書いてから思いましたが、宗教方面からの批判が寄せられそうな気がします。が、そんな批判も興味あります。

ここまで長文を読んで下さりありがとうございました。
コメント等、お待ちしています。

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