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ある青春の終焉

ハノーバーが解散した

松竹芸能のハノーバーという芸人が解散した。人づてにちょっと前から聞いていたけれど、公式にアナウンスされると「ああ、なるほどな、本当なんだな」という気持ちになった。ボケの井口は芸人をやめるらしい。

Yahoo!ニュースにもなっていたけれど、世間的には「誰!?」という声も多いようだった。仕方のないことではあるし、それはとても惜しいことでもあった。

彼らは見つかりかけのところにいた。関西の賞レースでは決勝にも残っていたし、テレビ出演も何度かあった。着実にキャリアを積むところにいた。傍から見たとき、明らかに事務所内で手塩にかけて育てられていた。「ポストなすなかにし」的な、看板芸人への道を歩いているように見えた。同業者からしたら「え?今やめるの?」というところだった。

ただ俺にとっては、そういう意味以上に大きな出来事だった。昔一緒にやってたからな。ある種の青春の終焉を感じた。

いやまあ正直、2020年に俺が上京して以降は、あまり関わりがない奴らではある。連絡もそんなに取っていない。今の俺のファンや、今のハノーバーのファンからしたら「そこ絡みあんの?」となる話かもしれん。でもそれ以前の、大阪時代の活動においては同じ釜の飯を食った戦友だった。

井口もカルビも、俺と同学年だった。今あいつらが芸歴をどこでカウントしているか分からないけれど、大阪時代は同期ということになっていた。(芸歴の数え方は事務所加入とか諸々のタイミング次第なところがあって、ちょっとややこしい。)

大阪のショーパブで過ごした日々

俺たちは同じショーパブに出ていた。梅田にあるお笑いショーバー「グラッチェ」だった。多くの人の目には映らない、日の光を浴びることもない、俺たちの日々の舞台はそこだった。

そこは結構とんでもなくヤバい環境のショーパブだった。俺たちは夜8時から朝5時までの9時間、ネタをしたりお酒をついだり客引きしたりした。毎日6ステージあった。お客さんにテキーラをショットで飲まされ、酔い潰れたところでネタをやらされたりもした。二日酔いの頭で翌日昼寄席に出る。月間でのステージ数は100前後になった。

そんなのが日々続くから、酒にも強くなった。だんだんちょっとやそっとじゃ酔わなくなる。それでも「酔っているのが見たいんだろうな」と忖度して、泥酔している振りをしながらネタをすることもあった。泥酔しているふりをするのは、ショーパブ内で俺が一番上手かったと思う。

おしぼりを投げられたこともある。アゴで使われたこともある。将棋がギリできないくらいの広さの楽屋に閉じ込められたりもした。「本当にお酒で酔ってるのか分からないお客さん」とかもいた。会計でゴネる酔っぱらいから電話番号を聞き出したりもした。やたらキレてくるお客さんに唐突に殴られたりもした。

閉店後はみんなでタバコを吸った。よく店内のカラオケをしたりもした。ボニーボニー・花崎さんがよく米津玄師のlemonを歌った。僕はそれがめちゃくちゃ好きだった。あのツッコミ用万振りのダミ声で歌う米津玄師、さすがに合わなさすぎた。銀杏とかTHE BACK HORNとか歌えよ。たまに歌ってたか。

その頃の俺は、夜ショーパブに出つつ昼間大学院に行っていた。二重生活だった。睡眠時間は電車移動の時のみだった。とても楽しかったし、望んでやっていたことだったけれど、マジでめちゃくちゃ大変だった。記憶がない日が普通にあった。今あの暮らしをする体力があるかと言われたら確実にない。若返ったとしても二度とやらない。

俺は今、定期的に「48時間軟禁ライブ」とか「72時間軟禁ライブ」みたいな、長時間コントをぶっ続けるライブを開催している。でも、そのどれよりもあの頃の日々の方が大変だった。

当時、彼らはハノーバーではなくハネウマというコンビ名だった。俺からしたらそっちの名前の方が馴染みがある。当時は俺もコンビで活動していたし、本名で活動していた。あいつらからしたら俺のことを「九月」と呼ぶ気にはなれないんじゃないかと思う。今会っても本名を縮めて「おぼちゃん」だろう。

忘れないうちに、思い出せることを思い出してみる。

二人との思い出

初対面

初めて会ったのはグラッチェの楽屋だった。ショーパブに入ったのは、俺のコンビの方が後だった。同学年の漫才師がいるらしいとだけ聞いていた。確か井口が背中だか腰だかを怪我していて、少し休んでいた時期に俺らが入っていた。俺たちは存在するという同学年の漫才師に会いたいと思っていた。

そしてある日、二人と初対面した。おお、なんとなくいかついなと思った。まあ、そのとき二人も俺たちのコンビを見てそう思った可能性がある。俺たち4人は全員身体がデカかった。

それから俺たちは毎週顔を合わせるようになった。人前でネタを披露する活動を始めたはいいものの、誰とも接点がなかった俺にとっては、いっちばん最初の仲間だった。

井口との思い出

井口はラップをやっていた。何度か、楽屋でラップバトルをしたこともあった。当時、大阪のインディーズ芸人の間では、楽屋で急にラップバトルをする文化が微妙に流行り始めていた。きっと今はもっと流行っているのだろう。フリースタイルダンジョンとかバズったからな。

俺は韻を踏むラップが出来ない。だから器用に韻を踏みまくる井口に対して、MOROHAスタイルで熱く語り掛けた気がする。MOROHAじゃないからボロ負けした。熱さが足りなかった。

そういえば、井口の芸名はコロコロ変わっていた。俺が覚えているのは「井口」「井宝パーツ」「鬼こんぼう丸」あたりだ。俺は「鬼こんぼう丸」が好きだ。

カルビとの思い出

カルビはずっといい奴だった。情に厚いというか、優しいというか、兄貴分的なところがあった。ゲラだった。楽屋でもボケたらツッコんでくれた。俺はあんまり人付き合いが良い方ではないけれど、喋れば明るい。なるべくボケたい。めちゃくちゃボケたい。全部ツッコんでくれるカルビの存在は最高だった。ゲラなツッコミがいる楽屋が一番明るい。

ちょっとネタ見てくれや、と言われることもあった。そのショーパブには、芸人同士で「ここのボケはこうしたらいいんじゃないの」と頻繁にアドバイスしあう文化があった。俺は根本的にお笑いが好きなので、ネタの話が出来るのは嬉しかった。

ユニットで漫才をしたこともあった。俺がボケてカルビがツッコむネタだった。俺が考えた。軽く合わせてやった。めっちゃ下ネタだった。深夜特化の内容だった。品性がヤバいので内容は書きたくない。そんなネタをやるな。俺たちは梅田の深夜のショーパブに染まり過ぎていた。

カルビは芸人を続けるというから、きっとまたどこかで会えるだろう。楽しみにしておこうと思う。

初めての楽屋ノリ

そういや、俺がハノーバーにするお決まりのノリもあった。俺にとっては、初めての楽屋ノリだったといえる。

ショーパブでは、お客さんが酔っぱらっている可能性があった。状況によっては、ネタの選び方に制約があった。楽しく盛り上がるネタに特化した方がよさそうなとき、彼らはだいたいオリジナルソングのネタをやった。

そのネタは盛り上がるネタだし、自己紹介にも適した寄席っぽいいいネタだったのだけど、なんだろう、「やり過ぎるとやってる側に鮮度がなくなりやすい」みたいな、そういうネタだった。本人らがやり過ぎて飽きてくるみたいな。たぶんどの芸人にもそういうネタがある。俺にもある。あいつらにとって、それがオリジナルソングのネタだった。

彼らは同じネタをやり過ぎて、一番最後のオチのくだりが「やたら滑舌の良い棒読み」になることがあった。俺はそれが大好きだった。「また棒読みやったな、俺ああいうの許されへんわ」と楽屋でなんとなく過剰にカルビを詰めるノリを、たぶん15回くらいした。さすがに毎回やっていたわけではないので、ということは、俺はあのネタを100回くらい見たのだと思う。

俺は俺で、当時は路上で酒を飲んでいる人のコントをやりまくっていた。ダレ尽くしてどんどんネタが変になっていた。最初は「路上で酒飲んでるけど本当はインドアの人」みたいなベタな設定だったが、途中から「ぎゃー」とか「ぐこー」とか「きゅるきゅるきゅる」とか奇声を上げ、大きいコウモリをたくさん見つけるネタになった。当然、今はやっていない。

俺にとっては、ああいう芸人同士のノリだとか、関わりあいというのは初めてのことだったし、本当に嬉しいものだった。もともと友達が多い方ではないのも相まって、ああ、やっと自分にも青春が来たんだなと恥ずかしげもなく思っていた。

あの頃のショーパブは忙しくて、大変で、苦しくて、しんどくて、楽しかった。

ライブのゲスト

ライブのゲストに出てもらったこともあった。俺のコンビの単独ライブのゲストだった。会場はどこだったかな、紅鶴かUpsか、そのあたりな気がする。お客さんは20人か30人くらいだろうか。確か、4人で8分尺くらいのユニットコントをやった。

まあまあな長尺で、内容はひどくくだらなかった。コントのタイトルは「ゴディバと言われたらゴディバと返す男」だった。その手のユニットコントにありがちなことだけど、途中からコントというより企画コーナーっぽい雰囲気になるネタだった。

別々の道へ

ショーパブが潰れた

ショーパブは2019年の暮れに潰れた。時期から分かる通り、諸々の流行り病云々は無関係である。単純に売り上げが足りなかったらしい。しんどい日々の終わりとしてはあまりにもあっけなかった。事実として考えるとき、あの日々は終わったのはその時だった。

その後すぐ、2020年の春に俺は上京した。たぶん、それと同時期にあいつらは松竹芸能に所属した。そのタイミングでコンビ名がハノーバーになった。泥臭い日々を終えて、お互い、別々の道に進むタイミングがあった。

東京に出てからの俺

俺は東京に出てからというもの、ショーパブ出身の気配を消し切り、良い感じにひとりコント師に変貌を遂げようとしていた。たぶん、今の俺のネタから飲み屋臭はしないんじゃないかな。パッと見て分かるショーパブっぽさとかはないはずだ。

ただ、当時の名残はある。前を向く(ショーパブでは前を見ないとネタを見てもらえない)、デカい声を出す(ショーパブではデカい声を出さないとネタを見てもらえない)、しつこく何回もボケる(ショーパブだとしつこく何回もボケないと笑ってもらえない)など、ショーパブ時代に身についたフォームそのものは抜けきっていない。お客さんとの距離の近さも、出自ゆえだろうか。

上京以降、青春はない

上京以降、俺に仲間との青春はない。たった一人でがむしゃらにネタをやり続けている。やや寂しい。他のやり方がなくてそうしているのだが、もう少しでいいから、あの頃のように人と関わりたくはある。

先輩に飲みにつれて行ってもらえることは増えた。けれど、それは自分にとって物凄く有意義な勉強、あるいは「このステージまで上がって来い」的なモチベーション獲得チャンスな感じがしている。

あるいは、トゥインクル・コーポレーション所属のジャパネーズさんやたなしゅうさんにはよくしてもらっているけれど、青春というよりは「一緒に何かしようよ」感が強い、もう少し仕事っぽい関わり方である。

ああ、マセキの徳原旅行さんだけは、ライブで一緒になるといっぱい喋りかけてくれる。それはちょっとノリとして近いかもしれない。でもそれはある種の必然である。何を隠そう、彼はショーパブ出身なのだ。

正直なところ、最近のあいつらのことはよく知らない。俺とは全く違う文脈で頑張っているな、としか思わなかった。向こうから見たら俺のこともそう見えていたことだろう。Twitterはフォローしていたから動向はある程度追っていた。1回か2回ライブが被ったこともあった。けれど、それくらいだった。

あー、そうか、解散か。引退か。なんだろうな、俺はもうとっくに九月という芸名でピン芸人をやっていて、東京にいる。

あの頃とは違って漫才はしていなくて、ひとりコントをやる芸人になっているのだけど、そうね、あー、なんかな、楽しかったな。俺の人生にはあの頃があってよかったな。二度とやりたくないし、生まれ変わったら選ばない道だろうけどな。さらば戦友。また会おう。また会えますように。

この記事の一人称は珍しく「俺」にした。MOROHAをイメージした。やっぱなんか違う。俺はMOROHAじゃないわ。

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