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お疲れ様ですuni'que若宮です。

本日のCOMEMOは、部屋とワイシャツと私的な、ないしはセックスと嘘とビデオテープ的なタイトルになっちゃっておりますが、「経験」と「体験」について書きたいと思います。


出るべきか出ないべきか、それが問題だ

先日、こんなツイートが話題になりました。


一方、時を同じくして、三木さんがこんな記事を書いてらっしゃいました。

座っていないで、オフィスから抜け出しー、外に出ろ

色々なところに出て刺激を受けることはとても大事です。僕も起業したての頃、人脈作りも兼ねて年間150本以上ものイベントに参加し、「イベントおじさん」と言われるくらいでしたが、一方で、そういう場所にいってなんとなくなにか学べたつもりになったり、なにか頑張っているつもりになっちゃう、というのは確かに危険です。

この一見背反するように思える2つのアドバイスをどのように考えたらいいのでしょうか?


「事柄」と「経験」

僕は「事柄」と「経験」と「体験」を区別し、3層のモデルで考えています。

こんな言葉があります。

経験とは起きた事柄ではなく、それに対してあなたがしたことを指す(アルドス・ハックスレー)

なにか事柄が起きても、それだけで経験になるわけではないのです。


人間は実は色々なものを捨象し、スルーしながら生きています。

たとえば外出した後、鍵をちゃんとかけたかどうしても思い出せない。毎日使っているはずの箱ティッシュのブランドがわからない。

これは脳の効率化のための機能ではあるのですが、人間は事柄が起こっても常にそれを十全に「経験」しているわけではないのです。

このようにただ「事柄」を通り過ぎてしまうと、いくら数を重ねようとほとんど何も残らず、無意味かもしれません。


ではどうすれば「経験」になるのか。

僕は、事柄を通りすぎず反省することだと考えています。事柄を振り返って考える時、その事柄に意味が生まれます。反省によって抽象化を経て、学びを得ることができるのです。

反省することなく、「事柄」をいくら増やしてもあまり意味はありません。それであればカントのように一つ所にいて思考を深めたほうがいいでしょう。

しかし実は、カントもあまり外に出なかったからといって、なにも「経験」していないわけではないのです。カントは知的な友人と書簡を交わすことで思考を深めていっています。これが反省のきっかけとなって、カントは思考を深めることができたはずで、それは「経験」を増やすことには繋がっていると思うのです。たとえ毎日毎日同じ道を通っていても、道端の花や石ころからさえ、「経験」を増やすことはできるのですから。


「経験」と「体験」

では、経験と体験はどう違うでしょうか。

僕は、経験が抽象化に向かうとすれば、体験は個別化に向かう、と考えています。


「経験豊富」とはいいますが、「体験豊富」とはあまり言いません。

あるいは「経験を活かす」とはいいますが、「体験を活かす」とはあまり言いません。


経験は集めて抽象化することで学びにつながり次に活かすことができるものですが、体験は沢山の数するものでもなく、なにかに活用するようなものではないようです。体験はもっと一回的で、独特の重みがあります


経験と体験は英語では同じくexperienceですが、ドイツ語では経験はerfahren、体験はerlebenといいます。

「er」という接頭辞はざっくりいうと、「し尽くす、完遂する」というような意味合いです。

fahrenは「乗っていく」という感じでしょうか。erfahrenは「乗って最後まで行く」というようなニュアンスです。「行き切る」という感じ。行き切った後、振り返る感じが「経験」といえるかもしれません。


一方のerlebenのlebenは「生きる」という意味です。erlebenは「最後まで生きる」という感じになるので、言葉遊び的ですがこちらは「生き切る」ということができるかもしれません。

「体験」は、経験のように反省によって抽象化された学びを得るのではなく、一回切りの「生」として咀嚼され、その人の血肉として体の一部になります。この生は誰かに共有したりできる抽象的意味を超えていて、その人だけのオリジナルなものであり、ユニークさの源泉となります。

だから「原経験」とはいわず、「原体験」というわけですね。僕が「アート思考」で伝えたいことというのも、深く「体験」することの大事さといってもいいかもしれません。


「事柄」の数を求めず、「経験」し、「体験」しよう

さて、このように考えてみると、冒頭の2つの立場は決して背反するものではないことがわかります。

ただ無為に事柄との出会いを求めてもそれは学びにも血肉にもなりません。

それをちゃんと反省することで「経験」として学びにつなげ、さらにはしっかり自分で咀嚼して「体験」にし、血肉としていく、大事なのは単なる数ではなく、この深さを意識することではないでしょうか。

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