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西野カナ批判に考える 〜「アート幻想」と「Hackの弊害」

お疲れ様です、uni'que若宮です。

先日、西野カナさんが某番組にて作詞の方法を披瀝したところ、twitterなどで批判が相次いだ、という事件がありました。

僕個人のfacebookでもこちらの記事をシェアしたところ、沢山のコメントがつき、色々と興味深かったので、思うところを書いてみたいと思います。


批判の論拠は「近代的アート」の枠組み

僕はモバイルITの業界に来る前、「美学藝術学」という「アート的現象」の研究者をしていたのですが、その観点からみてこの現象はとても興味深かったです。

ここに挙げられている批判は、大別すると3つくらいの観点がある気がします。

1.創造性に関するもの

《ネタ集めてるだけやん》 
《そりゃ多かった回答使えば共感を得られるわな》

これらの批判は、「ネタがあれば誰でもできる」というもの。ゼロから生み出すのがアートであり、ネタがあるならそこに「創造性」が認められず価値が低い、という批判です。

 
2.作者性に関するもの

《何か薄っぺらい歌詞だと思ったら自分の経験じゃなかったのかよ…》
《アーティストなら人がどう思うかより自分の伝えたいことを詞に載せようよ》

ここで言われているのは、それが「本人のことじゃないじゃん」ということです。作者の個人の体験や感情の発露でない作品は価値が低い、という批判。


3.自律性に関するもの

《共感性のために多かった回答を利用するって、要はウケだけを狙った産業音楽なのね》

こちらは「産業」に対する拒否反応です。ありていにいえば「金儲けかよ」ということで、「金儲けのため」の作品は価値が低い。アートはもっとピュアなもの、自由で自律的なものでなければならないのです。


これら「創造性」「作者性」「自律性」が、「アート」に必須の要素であるように言われていますが、これらの価値は実は「近代」につくられた、割と歴史の浅い価値観にすぎません。


アートは近代まで「近代的」ではなかった?

おそらく、西洋的な価値観を明治期に輸入した、そのタイミングが日本の美術教育に与えた影響もあるとおもうのですが、日本ではアートに関してとても「近代的」な枠組みで評価する傾向が強いように思います。

先程の三要素は、言い換えると「パクリでないオリジナリティ」「作者の意図」「ビジネスからの独立」にあたり、これが過大に重要視されている気がします。

ですが、そもそも近代以前において、これらの価値観は全く必須のものではありませんでしたし、重要でもありませんでした。「著作権」という概念もなくアートが模倣によって広まるのはいいことでしたし、芸術家は貴族や宗教のパトロン的庇護を受け、主人のためにつくるものでもあり「作者」でもなければ「自律」したものでもありませんでした。むしろ近代的な価値観は、そういったパラサイト的状態だったところから自分たちの地位を高めるために近代の芸術家たちが「編み出し、宣言した」戦略的イデオロギーにすぎない、ということもできます。


現在、東博でデュシャンの展示をやっていますが、

その後アートの世界では、そうやって宣言された「近代的アートModernism」の限界や息苦しさを嫌い、それに反発したり乗り越える試みがされてきました。マルセル・デュシャンやアンディ・ウォーホル、そしてミニマリズムの芸術家たちが批判したのは、このModernismという、近代のイデオロギーそのものだったのです。

デュシャンのあまりに有名になりすぎた「泉」を始めとするレディ・メイドは「創造性」や「作者性」を排除することで「アートとは?」を問うていますし、ウォーホルは「ファクトリー」などという「産業」的な言葉を使って複製をしまくり、挑発的に「作者性」と「自律性」に疑問符をつきつけました。

村上隆氏もこれらの系譜を受け継ぎ、「有限会社カイカイキ」という会社化して作品をつくっていたり、アニメなどから「ネタ」を仕入れたりと、西野カナ批判がそっくり当てはまりそうな活動をしていますが、彼はいまや世界のアートシーンでは最も成功している日本人といっていい現代美術家でしょう。


アートは変化する。

その意味では、西野カナさんに対する批判というのは、「アート」の文脈ではすでなされきた議論でもあります。それが「西野カナ」というマスに強い影響力をもつアイコンでブーストされ、アートの世界に縁遠かった人たちの目にもついて議論が再燃した、ということな気がします。

以前、こちらの記事でも書いたのですが、

アートというのはこれまで時々刻々、常に変化してきました。その定義は難しく、あまりに変化しているので、「変化こそが唯一の定義」とでもいうしか無いものだと僕は考えています。


ですので、「それもアートなの?」と咎めたくなる、こういう変化は、いいとか悪いとかではなく、時代による必然の変化だと思います。

たとえば「ネタ集めただけ」という批判がありますが、そもそもあらゆる表現がなにかの「ネタ」をもっているし、AIが作曲をするような時代には、そういう膨大な量の「ネタ」をAIに食わせて作品をつくることも可能となります。では、それは「パクリ」というべきなのでしょうか?「ネタ」とそれをつかった創造性の垣根は見分けがつかなくなっていくでしょうし、そこでは著作権の概念すら揺らいでいくでしょう。

「西野つながり」でいえば「ニシノアキヒロ」さんの創作やマーケティングの仕方は、ファンを作品制作に巻き込みながらつくっていく、「ストーリー消費」的なスタイルです。好むと好まざるとにかかわらず、「供給過剰」「情報過多」の時代には、モノそのものや作品そのものだけでの勝負ではなく、このようなあり方にシフトいくことは止められないと思います。

そこに「けしからん!」といっていてもあまり意味はないですし、ましてや袋叩きのような批判が起こってしまうというのは、「変化」というアートの本質に反し、創作活動や社会を固定的で閉塞的にしてしまう気がします。それは自分で自分の首を締めてしまうことではないでしょうか。


Hackの弊害

ただ一方で、個人的にひとつ危惧していることはあります。それは「Hackの弊害」です。

今回、西野カナさんの事例では批判だけではなく、こんな声もありました。

《「トリセツ」を「私のための歌」って言ってる子がめちゃくちゃ多い理由が分かった》

西野さんはご存知のように、若者に圧倒的な支持を得て大成功しています。

今のところ、彼女の制作手法はとても成功しており、消費者のニーズをついています。それはある種の「Hack」です。

「Hack」というのはIT業界から生まれた言葉ですが、入り込んで操作する、というような感じから転じて、「グロースハック」や「ライフハック」などざっくりいうと「うまくツボをついてコントロールする」というような意味合いで使われるようになりました。

たとえばwebサイトのボタンの色を変えたり、文言を変えたりするとクリック率があがるとか、「twitterでフォロワーを増やす10の方法」とか。適切なタイミングのレコメンドで商品購入率があがる、というのもそうですね。

僕は自身スタートアップをしながらも、こういう「Hack」だけの世界になることには危機感を持っています。なぜか?

効率性が支配し不確実性が少ない世界は、同質化に向かっていき、やっぱり閉塞的だと思うからです。

ブログでPVを増やすため、「〇〇するためのたった3つの方法」のようなタイトルの記事ばっかりになったり、Google検索で上位に上がるようSEO Hackするノウハウがグロースハックと呼ばれ、文字数は何字以上でどう書いて、みたいなTipsが生まれます。そうするとHackしようとして世界は同じようなものばかりになってしまう。

手法としては一理ありますし、かつ前の説で述べたように、そういうあり方がダメ、というものでもないと思います。しかし、そればかりになってしまうのは、やっぱりちょっと閉塞的だな、とおもう。


アートの多義性は生き残るか?

先日の「アート思考」の記事で、こういう絵をのせました。

これは、ロジックやデザインは多くの人を同じ行動に導く、のに対し、アートは個から多義性に開く、というのを表した図です。

創業した理由や「全員複業」とかいう働き方をしているのもそうですが、僕は閉塞が嫌いです。軸が一つだと別の軸を作りたくなる派です。その意味でアートアート最近言っているのは、アートのそういう「多義性」に価値を感じるからです。


これからのAI時代、ひとをHackするのはたった一つのアプリを使っても簡単にできるでしょう。

これまで多くのファンが、西野カナの歌に「狙い通り」共感していたように、西野カナさんの手法はとても気持ちよく多くの人の共感を得た。そういう意味でとてもよく優秀な「デザイン」だったという気もします。

もしかしたら、僕のように多様性とか個性とかいってないで、そのように「誰かが用意してくれるもの」に乗っていく方が楽でもいいのかもしれません。誰かが作り、誰かが目の前においてくれたものを受動的に消費していく時代。(西野カナを受け入れているのは「もはや検索すらしない世代」なのです)


そういう意味でも、まさに「ネタ」バレした、西野カナさんの音楽が、これからもファンに求められるのか、「#deletefacebook」のようにNoを突きつけられるのか、これからの西野カナがどうなるか注目したいと思います。

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