見るべき世界

 おじいちゃんが死んだ。ちがう。正確には殺された。お母さんがやったのだ。僕は知っている。お母さんはおじいちゃんの世話が面倒だと言っていた。うるさいし手がかかるとも言っていた。おじいちゃんが神様から授かった祝詞を大声で読み上げる時は大騒ぎだ。窓枠に手をかけ、身を乗り出してうちの二階から叫ぶ。お母さんは引きずり下ろそうと服を掴んで僕にも手伝うように言う。

「お願いだからやめて」

 お母さんはおじいちゃんにそれしか言わない。おじいちゃんが新聞を手に取ろうとしたらやめて。冷蔵庫を開けようとしたらやめて。やめてやめて、そればっかり。おじいちゃんはお母さんにとっては邪魔者だけど僕にとってはおじいちゃんだ。

 運動会のリレー選手に選ばれた日。足が早いわけじゃないのにみんなが嫌がるから僕がやることになった。お母さんは他の親も見に来るからしっかりやりなさいよ、と言った。おじいちゃんはそんなもの熱心にやってどうするんだと言う。理由を尋ねると走ってる暇があるなら本を読めと答える。ハンドルを握らなくても自動車が走る時代になったんだから、おまえはしっかり勉強して空を飛ぶ車をつくれと言う。よくわからなかったけど、お母さんよりは僕のことをわかってる気がした。

 お父さんは仕事。僕は学校。お母さんはパートに出ていて、おじいちゃんは家にいて庭の草むしりをしたり釣りに出かけたりしていた。本当にふつうのおじいちゃんだったのだ。でも、変わってしまった。

 あれは夏の暑い日だった。戦争の番組を家族で見ていた。そのなかで原爆を落とした飛行機の乗組員が語った録音テープが流された。おじいちゃんは唇を噛んで耐えているように見えた。お母さんは嫌ね、暗い話ねと言って台所で夕食の食器を洗い始めた。おじいちゃんは言う。日本が平和だった時代なんて一度もない。戦い抜いて守ってきたから呑気に皿洗いが出来るんだ。まったく俺は育て方を間違えたと溜息をつく。お母さんはまた小言が始まったと首を振る。蛇口を緩める音がして水の勢いが増す。お父さんはおじいちゃんの機嫌を損ねないように気を遣う。昔はいろいろありましたよ、うちの親父も戦争は大変だったと言ってますよ。おじいちゃんは腕を組んでテレビを見つめる。お父さんは冷蔵庫からビールを出してきて一杯どうですかと言う。おじいちゃんはグラスに注がれたビールを飲み、白い泡を口のまわりに残したまま僕の頭を撫ぜた。

 それからおじいちゃんはよくわからない集会に参加するようになって、戦争で死んだ若い兵士の写真や手記を集めた本を買ってくるようになった。戦争の痕が残る土地や建物を訪ねるようになり、日記を書くようになる。日記というより昔を思い出して書き起こした記録のようなものだ。読ませてもらったけど全部が小説のように思えたし、字が汚くて読めなかった。じいちゃんだぞ、と見せられた白黒写真。学生服みたい。ぴしっと襟につばがついた帽子。真面目な顔で指先をぴんと伸ばす。

 「みんなこれ着てたの?」

 「そうだ。もう処分してもたけどな」

 神社に毎日お参りに行くようになって、模造刀とか勲章のレプリカを通信販売で買うようになった。お母さんは黙っていたけれど、ある時、おじいちゃんが留守の間にあらかた捨ててしまう。帰って来たおじいちゃんは怒って手が付けられない。学校から帰ったら家の中がめちゃくちゃになっていて、家出をしようかと思ったくらいだ。お母さんはおじいちゃんの物に勝手に手を出さないという誓約書を書かされてなんとか収まった。それで一安心したのだけれど、おじいちゃんは砂山を壊された子供みたいにムキになって、それまでよりもうちに戦争を持ち込むようになった。集めたものを守るために部屋から出なくなる。お父さんは困ったなぁと頭を悩ませた。僕はおじいちゃんが自分の部屋に詰め込んで楽しんでいるならいいのかなと思っていた。お母さんはそれも許せなかったみたいだけど。

 お母さんが手を出さなくなったから、おじいちゃんの収集は自由を手に入れてしまって、ついに部屋から飛び出す。廊下に戦艦のプラモデルが進撃してきて分厚い本が何冊も積まれた。本棚は満杯で壁には兵隊や戦車の写真が隙間なく貼られていた。近づき難い雰囲気が襖から漏れ出ていて、気軽におじいちゃんの部屋に入ることがなくなった。お母さんは勝手に捨てないと約束したので自分じゃどうにもできないから、おじいちゃんにどうにかするように頼む。でもおじいちゃんは全然聞かない。それどころか海軍の偉い人が戦死した日にみんなで神棚に手を合わせようと言い出した。別の日には方位磁石を出してきて方角を確かめて、よし、ここだと言う。何をするのかと見ていたら、服を脱いで裸になり、通販で買った模造刀を振りまわしだした。お母さんはさすがに我慢できなくなって知り合いに相談する。ずっと家にいるから暇なのよ。うちもそうだった。外に出て人と交流することが大事なのよ、閉じこもってると痴呆になるわ。そう言われてお母さんはおじいちゃんに外に出るように言う。

 「俺は忙しいんだ。お前こそボケたこと言ってないで国防と資源確保に無頓着な考えを改めろ」

 お母さんは何度も説得したけど返ってくる言葉は決まっていた。

「俺は戦ってるんだ」

 僕は聞く。

「誰と戦ってるの?」

「アメリカと中国だ」

 よくわからない。アメリカ人のコメディアンがバラエティ番組にしょっちゅうでてるし地元の温泉には中国人が大勢で旅行に来ている。

 「国会議員に手紙を書いた。もう敵を日本に入れないでくれって強く書いた。日本は日本人のものだ。下手にくたばると皆さんに申し訳がたたない」

 どこから見てもおかしいけど誰かを殴ったり蹴ったりすることはなかった。ひどいことを言うこともあったけれど、考えがぶっ飛んでるだけで危険はなかったのだ。僕を捕まえては外国の白黒写真と地図を並べて、みんな日本人に感謝していると言う。ほら、いい顔だろ? 僕はとりあえずの気持ちで、そうだね、と答えた。

 そのうちおじいちゃんは戦国武将の生まれ変わりで甲斐の国で育ったのだと言い出した。甲斐の白虎を従えて日本の為に立ち上がるらしい。稽古をつけてやる、と言われたけど僕はクラスの正岡さんのことが気になっていて、これは恋かも知れないともやもや悩んでいた時期だったので稽古どころではなかった。

 「軟弱者め!」

 と罵られたけど男子には軟弱な時期があってしかるべきなのだ。

 十月になった。お母さんもお父さんもおじいちゃんをもとの性格に戻そうとしていた。雑念が消えると評判の野球ボールサイズの水晶玉を買ったり、おじいちゃんの弟に来てもらって話し合いをしてもらったりした。でもなにも変わらなかった。事件が起きた。同じ学校の生徒が下校中におじいちゃんに追いかけ回され怪我をしたのだ。尊皇教育に反発したから驚かせたと言うけど、悪いことに男の子は逃げる途中に空き家の塀から飛び出ていた鉄の棒で目を突いてしまった。手術がうまくいって失明はしなかったけど、相手の親が被害届を出して警察に捕まる話まででてしまう。お父さんとお母さんが頭を下げ続けて、けっこうなお金を包んでどうにか許してもらったのだ。僕は事件のせいで学校でちょっかいを出されるようになる。おじいちゃんは家にいられなくなる。

 「病院に入れましょう。耐えられないわ」

 お母さんはそう言ってお父さんに頼み込む。お父さんは悩んでいた。何に悩んでいたのかと言うと、おじいちゃんを病院に入れるかどうかではなく、どうやったら素直に病院に入ってくれるかを悩んでいた。お母さんは精神の病気だと言う。理由はわからないけど病気になったのだ。病院に行って薬をもらえば治るという。僕は図書館に行く。病気のことを調べるために、たくさんの本から関係ありそうな本を探す。難しくて分厚い本はやめた。イラストが描かれた本を見つける。おじいちゃんと似たようなことが書いてある。

 「おじいちゃんは病気なのよ。このままだと人にもっとひどい怪我をさせるかも知れない」お母さんが言う。

 「病院で治療してもらって、よくなるまで様子を見よう」とお父さんが言う。

 僕は先に亡くなったおばあちゃんの仏壇の前に座る。

 「おばあちゃんはどう思う?」

 窓から入る秋の風が線香の煙を揺らしていた。両手を合わせて、おじいちゃんが人に怪我をさせないように見守ってくださいと伝える。それから近所の和菓子屋さんで買ってきたおはぎを供えた。おばあちゃんの好きなものを置きますから手を貸してくださいと祈った。白いカーテン越しに庭に干された洗濯ものが見える。お母さんが洗濯かごから取り出して干している。僕のパーカーやらお父さんの寝間着やらおじいちゃんの肌着が日の光を受けてきれいに並んでいる。

 おじいちゃんは幻覚に陥っていた。学校から帰ると昭和天皇がうちに来てお茶を飲んでいったと言う。お母さんはパートに出ていたので誰も確かめようがないのだけど、僕は嘘だと思った。だって昭和天皇はすでに亡くなっているし、生きていたとしてもうちにお茶を飲みに来ることはない。飲みに行くなら帝国ホテルみたいな歴史の古いところでお茶するだろう。おじいちゃんは探し物が見つかったように嬉しそうだ。

 「貴殿の護国平安および鎮守の思想信念に感涙し、その威徳に感謝したい」

 おじいちゃんが暗唱する。昭和天皇がお茶を飲みながらそう言ったらしい。お茶請けのせんべいをかじりながら居間の座布団の上で。

 「また明日来るそうだ」

 随分と暇な天皇だと思う。平日の昼間に高岡の民家に遊びに来るなんて、よっぽどやることがないのだ。ネクタイを締めてスーツ姿だった。深刻な話もしたが、相撲が好きらしくて相撲の話で盛り上がる。再来週に巡業があるのでよかったらどうですか、と誘うと目じりを下げて承知したという。おじいちゃんはチケットを二枚取るつもりだ。

 「おまえも来るか?」

 「行かない。相撲はカッコ悪いから」

 「だから若者はダメなんだ。相撲の面白さがわからないとはもったいない」

 おじいちゃんはがっかりして、あっちに行けと手で僕を追い払う。翌日、天皇が来たか聞く。都合が悪くて来れなくなったらしい。残念だねと返事をした。日曜日になりおじいちゃんは巡業を見るために出かける。紺のスラックスにジャケット姿でおしゃれに帽子を被って鼻唄を歌いながら。僕は興味のないふりをしておじいちゃんの後をついていく。昭和天皇がどこから現れるのか、現れないのか。もちろん相撲を見に来るなんて思ってない。

 どうなるのか見届けたかったのだ。万葉線に乗り会場に向かう。おじいちゃんが乗り込んだのを見届けてから、次に到着した車両に乗る。車窓から街を眺める。市民体育館に近付くと人が増えてくる。万葉線も混雑してくる。人が乗ってきて、隅の方に押しやられる。最寄の駅で降りて歩くと古城公園が見えてくる。ナラの葉が色づき紅葉が赤くなる手前の黄金に染まる。なだらかな坂道を歩いて体育館を目指す。

人混みの中におじいちゃんがいた。どこから見ても、待ち合わせ場所に先に着いてあたりを窺っている普通の人だ。不自然なところはない。一人で相撲を見るのだろうと思う。予想は外れた。おじいちゃんは右手をあげて合図をする。にこやかな顔で帽子を取り頭を下げる。虚空に向かい合い話し出す。離れているから声は聞こえない。時に頷き手をかざし頭を掻く。見慣れたその姿に怖くなる。同じ場所にいるのに見ている世界が違う。止めて欲しい。もとに戻って欲しい。

 天皇と落ち合ったおじいちゃんは体育館の入り口に並ぶ。僕はチケットがないから先に進めない。行列が中に吸い込まれていく。おじいちゃんの番が来て口論になる。チケットを二枚手にした係りの人が、おじいちゃんと言い争う。見えていないのだ。

 「天皇陛下の御観戦を妨害するのか」

 おじいちゃんが詰め寄る。他のお客が騒ぎに気付く。

 「失礼極まりない! こちらのお方は天皇陛下だぞ」

 大声で同行者の存在を訴える。係りの人がチケットは一人一枚だと説明する。が、おじいちゃんは頑なに拒む。なぜ入場を邪魔するのだ、責任者に話を通せと食ってかかる。おじいちゃんを囲む人だかりができる。

 「じいちゃん誰もおらんぞ」

 順番待ちと相撲見たさで苛立っている人たちが口を開いて文句を言い出した。

 「ボケとるがないけ、列止めんでくれよ」

 おじいちゃんは声がする方を睨み付ける。野次を飛ばした男目掛けて突進する。男はあぶねと言ってかわしたが、おじいちゃんは勢い余って杖をついたおばあさんを倒してしまう。ビニール人形のように転がりコンクリートに頭を打ち付け痛いと叫ぶ。あんた何しとるが、はよ警備を呼べま、あの人おかしいわ離れんか。棘の生えた険しい声が一斉におじいちゃんに向けられる。おじいちゃんは勝手に転んだと言い訳した。騒ぎを聞きつけ警備員がやってくる。

 「この年寄りを捕まえてくれ、怪我人でとるぞ」

 警備員は慌てておばあさんに様子を聞く。おばあさんはまわりの手を借りて立ち上がり事情を話す。受付がおじいちゃんにすぐ帰るように言う。会場に入れることはできない。

 「ここまで来て帰れるか!」

 おじいちゃんは無理やり人混みを乗り越えて体育館に走り込む。何人もがそれを止めるためにおじいちゃんを抑え込もうと後ろから掴みかかる。被っていた帽子は寿命が来た魚のように路上に沈み込み、ジャケットは皺くちゃになる。天皇陛下の目前で何をする、恥をかかせるのか。抵抗をねじ伏せようとする男たちは、稲に集まるイナゴみたいにおじいちゃんを覆いつくして見えなくなる。

僕は我慢が出来なくて走り出す。汗の立ち上る太い腕を掻き分けておじいちゃんを呼ぶ。どこの子供や、何しに来た? 僕のおじいちゃんだ! なに? おまえんとこのじいちゃんか、狂っておかしくなっとるぞ、はよ連れて帰れま。そうや、うちのばあちゃんに怪我させて、どうすれんや。あちこちぶつけたり擦りむいたりしながらおじいちゃんを引きずり出す。おじいちゃんは僕の名前を呼んで、なぜいるのか聞く。立って、とだけ言って天皇はここにはいないと言う。係りの人がチケットを返す。それを受け取りおじいちゃんに渡す。

 僕は帽子を拾って砂を払う。おじいちゃんを後ろから押して無理やり歩かせる。

 「天皇陛下は相撲を見たいとおっしゃっとった」

 僕は頷く。大きな唾の塊を飲み込んで心を決める。息を吐いて言う。

病院で診てもらったらどうかって、お母さんが心配してたよ。

 おじいちゃんが立ち止まり腰のあたりを押していた僕の手も止まる。

 「病院、か」

 天皇はいないよ。僕には見えない。他の人にも見えてない。

 「確かに見たんだ。さっきまで一緒にいた。じいちゃんは声を聞いた。暑い夏にラジオで聞いたときと同じで、」

 体育館から歓声が聞こえた。熱狂と喝采が雨粒のように降り注ぐ。僕たちは果てない草原を彷徨う放浪者みたいだ。行き先も帰る場所も決まらない。おじいちゃんは振り返り、帽子を取って頭を下げた。体育館の屋根は川魚のうろこみたいに光を反射する。僕はまぶしくて目を伏せる。

 「じいちゃんはいろんなことを考えた。戦争で帰らなかった友達、わきを掠めた銃弾の焼けた匂い、体を吹き飛ばされた兵隊の呻きが頭を駆けまわり色がついたり白黒になったりしてずっと退かない洪水のようだ。日本を守らなくてはいけないと思った。わかるか?」

 僕は首を振る。

 「戦争はまた起きる?」

 「戦争はなくならない、絶対に。だからそうならないようにしなきゃいけない。じいちゃんはそのために残りの時間を使う」

 「死ぬってこと?」

 「死ぬかもしれん」

 僕は驚かなかった。おじいちゃんなら言いそうだった。考えすぎて死んだ人はいない。死ぬとしたら考えすぎて何かを実行に移したときだ。真面目に考えすぎて、他の考えが何も浮かばなくなったら危ない。

 「病院で診てもらおうよ。そしたら先生が薬をくれるよ。飲めばよくなるって、調べたんだ」

 「薬を飲めば止まらない考えを少しは減らせるか?」

 「減らせるよ。もうおかしいって言われなくなるよ」

 お父さんとお母さんが説得しておじいちゃんは病院に行き薬をもらう。お母さんは病院から出さないで欲しいと先生に伝えたけど断られた。そんな時期ではないと言われて愚痴る。おじいちゃんは三種類の薬を飲む。僕はおじいちゃんが薬入れにしている海苔の空箱を覗く。薬が減っているかを見る。

 「頭がぼんやりするなぁ」

 薬を始めてから数日経つとおじいちゃんはそう言うようになった。妄想や幻覚は抑えられてるけど頭がすっきりしない。寝起きのような感じがするらしい。

 「顔を洗ってみたらどう?」

 僕はお節介にいろいろ言う。そんなもんでよくなるわけがないとおじいちゃんは呆れる。薬のおかげで自分を責める声は聞こえなくなったと言う。

 「昭和天皇はうちに来たりする?」

 おじいちゃんは首を振る。手のひらで眠そうに目を擦る。古本や瓶入り整髪料の匂いが混ざるおじいちゃんの部屋。僕は週刊誌を手に取りウイスキーの広告写真に見とれている。家のなかは平和だ。静かだし、おじいちゃんが外に飛び出していくこともない。でも学校は平和ではなかった。社会の授業で街の歴史を調べた時だ。正岡さんと同じ班になり話し合いをしてたら新田が割り込んできた。

 「お前んちの地域って変な人が多いってマジ?」

 尖った物で頭を刺された感じがした。実際に痛みがあったのだ。

 「おまえのじいちゃんもそうやろ? 親父に聞いたわ」

 知らない。おじいちゃんはただの病気だ。正岡さんは新田から目を反らして居心地が悪そうにする。あっちへ行け、邪魔するな。新田は笑いながら自分の班に戻っていく。悔しくて消しゴムを投げつける。首もとに命中し、新田は振り返って僕を突き飛ばす。椅子から転げ落ちて筆箱やらノートが巻き込まれて床に散らばる。椅子の脚が擦れて嫌な音が響く。先生が職員室に行ってるあいだの出来事だ。学級委員がやめろと止めるけど新田はおまえもそのうちおかしくなると言う。体が熱い。まわりの声が聞こえなくなる。新田を掴んで頬に拳を打ち込む。すぐに反撃、腹を蹴り上げられ息が一瞬止まる。酸っぱい吐き気を我慢して仕返しに頭突き。鈍い衝撃があって、新田が口を切り拭った指先が赤い。髪を捕まれ壁に叩き付けられる。痛みと同時に視界が白くなる。僕は床に転がり新田は呼吸を整える。

 「おい、やめっ!」

 太い声に耳が痛む。誰かが先生を呼びに行き教室は静まる。

 「こいつがいきなり殴ってきて」

 「違う、そっちが余計なこと言うからだ」

 先生はみんなに何が起きたのか聞く。後で職員室に来るように言われる。とりあえず席につけ。僕と新田は言われた通り席に戻る。誰も口を開かない。なんだかやる気をなくしてしまい、考えが浮かばないまま時計を見たり外を見たりして過ごす。

 「気にすることないちゃ」

 休み時間に正岡さんが話しかけてくる。緊張して声が出ない。恥ずかしさで目を見て話せない。

 「新田はいじわるやね」

 正岡さんはそう言う。サクランボ模様のヘアピンで髪を留め、口の左にあるホクロが声に合わせて動く。

 「うちのおじいちゃんは病気、おかしくなったんじゃないよ」

 「私は気にしとらんよ。あんなこと言われたら誰だって怒るって。おじいちゃんの病気どうなん?」

 薬を飲んでることを話す。妄想や幻覚が収まったこと、家が落ち着いてきたことを話す。正岡さんがおじいちゃんのことを聞いてくるなんてすごい。新田には腹が立つけど正岡さんが目の前にいて嬉しくなる。僕を励ますと正岡さんはまたね、と言って教室を出ていく。水の上を歩くような澄んだ背中。胸に残っていた重たい苦しさが消えていく。

 正岡さんとのやり取りを家に帰ってからも考えている。僕は正岡さんのどこが好きなんだろう。顔とか性格だろうけどはっきりしたことは自分でもわからない。人に優しいところ? 騒がしくないところ? 下手な噂を信じないところ? 全部好きだと思ったし全部じゃないかも知れないとも思う。きっと僕の知らない正岡さんがいるはずだ。他の女子、坂下とか中山と一緒の時は違う顔で違う話をするのだろう。僕の手が届く世界はとても狭い。好きな女子のことだって全部は知らないのだ。ベッドに寝転び天井を見上げる。正岡さんはなにをしてるのだろう。

夜の八時だ。家族でテレビを見てるか宿題をしてるか、それとももう寝てるかも知れない。落ち着かなくて部屋を出る。居間から聞こえるテレビの音。水曜はお父さんとお母さんが雑学番組を見る日だ。サンダルを履いて外に出る。冬になる手前の乾燥した風が入浴剤の甘い匂いを運ぶ。それが鼻に触れておしっこがしたくなる。トイレに行くと窓が開いていて寒さに震える。用をたしてたら正岡さんの背中が思い出されて右手を動かしてすぐやめた。そういうのはやっちゃいけないと思ったのだ。おじいちゃんの部屋を覗く。襖から見るとイヤホンを耳に入れて本を読んでいる。静かに閉めて部屋に戻った。

 翌日の学校。新田は何も言わなかった。昨日あれから職員室に呼び出され、目の前でお互い謝るように言われて仕方なく謝った。先生は同じクラスだから仲良くしろと言って、握手を求めた。おまえら、ちゃんと笑えま。仕方なく笑顔で握手。大人しく従うのは納得できないけど文句を言ってもややこしくなるだけだ。形だけ、

 「形だけでいいのよ。人が見たときに恥ずかしくなければそれでいいの」

 運動会のリレー前にお母さんが言う。スタート位置に集まるよう放送が流れる。裸足の爪先には砂がこびりつき、小石を踏んで思わず片足を離す。

 「こういうのは結果よりも頑張ってる姿が大事なの、わかる?」

 僕は頷く。わかったふりをする。

走者が一列に並ぶ。心臓がどくどくして息をするのがやっとだ。正岡さんを探す。僕を見てる。クラスの応援する声が聞こえる。やりたくないけどやらなくちゃ。

 合図のピストルが響く。火薬が鼓動を高鳴らせる。煙が僅かに空中に留まり、やがて粉薬を溶かすように消えてしまう。地面を蹴りあげ飛び出す。気持ちが焦って体がついてこない。前のめりになり倒れそうになる。右手が地面に触れてしまう。

 おじいちゃんはそんなもの熱心にやってどうするんだと言う。

 お母さんは他の親も見に来るからしっかりやりなさいよと言った。

 二人のことがほとんど同時に思い出される。僕はお母さんから言われたことをやろうとしている。しっかりやること。それだけだ。指先に力を入れ地面を弾く。倒れないように体を持ち上げる。前を走る二人との差が開き、後ろから一人追いかけてくる。呼吸のたびに心臓が傷み、吐き出したいほどの活力が暴れる。足を持ち上げ必死に動かす。向けられる視線を振り切り駆け抜ける。走り続けるうちに走ることだけを考えるようになる。苦しさや疲れを感じなくなって、走るためだけに存在しているような気持ちになる。

 一点を越えたのがわかった。体が軽くなる。景色が高速で移りかわり残像が視界に入る。正岡さんの声が聞こえた。コーナーを抜けて追い込み。直線の先に手を差し出すクラスメイト。肩を動かし爪先で地面を捉える。顎を引いて頭に結んだ鉢巻きに汗が滲む。びゅうと風が起きて、巻き上げられた砂が目に入る。それでも走る。バトンを渡すまであと少し。奥歯が噛み合い太ももに力が入る。腕を伸ばして繋いだ。

 「薬をちゃんと飲んでなかった」

 お父さんの言葉に声を失う。脳みそがそれを理解できない。そんなはずはないのだ。薬はちゃんと減っていた。飲んでいなかったはずがない。学校に連絡があって急いで帰った。家に着くなりお父さんが話し出した内容が僕を混乱させる。

 「お母さんが何度も注意してたんだ。もう治ったと言って飲むのをやめていたらしい」

 「お母さんは家にいたんでしよ? なんで何もしなかったの?」

 したよ。

 お父さんは鉱石の先端を指でなぞる。おじいちゃんが骨董屋で買ってきて玄関に飾っているものだ。

 「止めようとしたけど無理に振り払って飛び降りた。間に合わなかった」

 「そんなのおかしい、お父さんは見てたの? 見てないから知らないんだ」

 お母さんだって怪我をしてるんだ! お父さんは声をあげ靴箱に拳を叩きつける。

 「包丁で切られたんだぞ、わかってるのか」

 内臓が締め付けられていく。胃液が行き場をなくして競り上がり、喉の奥を押さえつけて唾を飲む。だけど目が滲んで持ちこたえられない。

 「お父さんは薬を飲むように言ってくれたよね」

 泣きながら聞く。お父さんは言ったとも言ってないとも言わない。仕方がない時もあるとだけ言う。仕方がないってどういうことだ。仕方がなくておじいちゃんは死んだのか。なんだそれ。

 お母さんとおじいちゃんは別々の病院に運び込まれた。お母さんは重傷でおじいちゃんは亡くなり、僕は選択を迫られる。お父さんは聞く。

 「どちらの病院に行こうか」

 選べないとわかっているのになぜ聞くのだろう。この場を離れたいと思う。遠くに逃げてしまいたい。お父さんが言わせたいことはわかっている。

 「選べない」

 細い声を出す。結局のところ僕には何もできないのだ。おじいちゃんに薬を飲ませることも、正岡さんが見ている世界を知ることも、新田の嫌がらせに打ち勝つこともできない。体を支える気力がなくなり玄関に座り込む。鼻をすする。悲しみが止まらない。体が砕けてしまえばいいと思った。

 もっと関わるべきだった。ちゃんと自分の気持ちや考えを伝えるべきだったのだ。何かしたわけじゃない。何もしなかったのだ。おじいちゃんがおかしくなってからのことを思い出す。日差しと埃が舞う廊下に置かれた戦争の本、物干しにかかる家族の服、相撲を見に行った日の雑踏。どれもこれもが見過ごしてきた光景。できることがあったはずなのに、ただ過ごしていた。気づいた時には遅かった。それが悔しい。

 外から話し声がした。前の道を横切っていく。なぜか動かされるものがあって外に出る。保育園くらいの男の子とそのおじいちゃんだ。

 「どこいくの」

 「買い物や、スーパー行くがやぞ」

 「何買うの」

 「卵。お母さんが晩御飯に使うがやて。あんた卵好きやろ」

 見上げると夕方の穏やかな空が広がっていた。透明なゼリーにビワの黄を重ねたように、どこまでも見通せそうなその色を絶対に忘れない。お父さんがそろそろ行くぞ、と言う。僕は口を開く。お父さんに返事をした。

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