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国籍と遺書、兄への手紙

 なぜだろう。30代になってからふと、亡くなった家族のことを思い出すことが増えたように思う。もしかするとそれは、当時の兄の年齢を、私が追い越してしまったからかもしれない。

 兄が亡くなったのは、中学卒業を間近に控えた春だった。「前を向いて歩きなよ。過去は変わらないんだから」。当時の友人たちが、私にそんな言葉をかけてくれたのを覚えている。落ち込んでいる私を、何とか励まそうという精いっぱいの言葉だったと思う。その気持ちには今でも大きな感謝を抱いている。

 けれども「過去は変わらない」というその言葉が、なぜか心に引っかかり続けた。

 私の兄は母親が違い、兄の母親は私が生まれる前に他界していた。13歳年が離れた兄は、なぜかいつも父に対して「です、ます調」の敬語を使っていた。「家族なのになんでいっつも敬語使ってるの?」不思議に思って幾度彼らに尋ねてみた。

 父も兄も、ただ笑って私を見つめ、何も答えてはくれなかった。次第にこれは聞いてはいけないことなのかもしれないと思うようになり、私はいつしか尋ねるのをやめた。その一方で、丁寧な言葉を使い続ける兄の姿を見て、何だか父が兄を突き放しているように思えてきてしまった。

 その後、私の母と父は離婚。小学校3年生から、私と妹は父と離れ、母と暮らすことになる。兄は既に社会に出て自立していたため、父とも兄とも会話する機会はぐっと減っていった。

 兄が亡くなる一年前、中学二年生の時、父が亡くなり、戸籍を見る機会があった。その時、私は初めて父が在日韓国人であったことを知った。そして一緒に暮らしていた当時、父が兄を認知していなかったことも分かった。

 父はなぜこうも兄に冷たい態度をとり続けてきたのだろうか。父は兄を家族として見ていなかったのだろうか。益々不信感が募り、「父は本当に子どもたちを愛していたのか?」という疑問さえ湧いてきた。そんな「過去」を振り返るのは、苦痛でしかなかった。

 募る一方だった疑問を晴らしたかったからだろう。そこから私は「在日」と呼ばれる人々の歴史や文化、国籍について調べるようになった。恥ずかしながらここで初めて、朝鮮半島と日本の間の歴史や、朝鮮半島にルーツを持つ人々が直面してきた困難を詳しく知ることになる。

 私が高校生になった頃、少しずつネットが一般家庭にも普及していた頃だった。すでに掲示板には一部、日本に暮らす韓国籍や朝鮮籍の人々に向けられた差別的な書き込みが並んでいた。父のルーツが日本以外の国にあることだけでも戸惑い、驚いていた私にとって、そんな誹謗中傷の言葉を目にするのは耐え難かった。そして「自分の父親の家族も朝鮮半島の出身らしい」と周囲に中々言えなくなっていた。自分のバックグラウンドの一部に、なぜ後ろめたさを感じなければならないのか。それ自体にも違和感をぬぐえなかった。

 ある時、国籍法について調べていてふと、気がついた。私が生まれたのは1987年、そして国籍法が改正されたのはその2年前、1985年だ。改正国籍法の元では、父と母、どちらかの国籍を22歳までに選ぶことになっている。(ただしその時点で日本国籍以外の国籍を喪失するかは当該国の国籍法による。)私自身も生まれたときから日本国籍を持っている。ところがそれ以前は、子どもは父親の国籍となることが定められていた。つまり父が兄の母と結婚し、兄を出生前に認知していた場合、兄は韓国籍の子どもとして生まれてきたことになる。

 すでに亡くなった人間に、詳しくを尋ねることはもうできない。けれども父が家族や周囲の人々に遺した僅かな言葉をたどっていくと、違った「過去」の姿が浮かび上がってきた。

 朝鮮籍や韓国籍の人々のたどってきた道のりはもちろん一様ではなく、価値観も様々だ。ただ父はその中でも、「在日」という自身のバックグラウンドによって辛い経験、悲しい思いを積み重ねてきたらしかった。親族たちとの縁を殆ど絶ち、“在日らしい”生活のあり方も日常の中に残さないように努めていたという。ただそれでも、ルーツの全てを消し去ることは難しい。父が兄に敬語を使わせていたのは決して冷遇していたのではなく、上下関係や礼儀を重んじる朝鮮の文化の名残だったようだ。

 そして父が兄を認知していなかった理由もそこにあった。

 韓国国籍の子どもとして生まれるのか、それとも結婚していない夫婦の間に生まれる非嫡出子として生を受けた方がよいのか。当時、非嫡出子は戸籍に「長男」ではなく「男」と表記されることを含め、今より更に就職差別などにつながりかねない仕組みであることが指摘されていた。それでも韓国籍の子どもとして生れる方が、直面する困難が大きいと彼自身は思ったようだった。

 兄の出生後に父が兄の母と結婚し認知すれば、兄は日本国籍のまま嫡出子となれた。けれどもその前に父は、日本国籍を取得しようと試みた。その手続きが完了する前に、兄の母は他界してしまった。

 つまり父は、兄を切り捨てるような選択をしていたのではなく、愛情があるゆえに苦悩し、兄の将来を思いやるがゆえに決断を下したのだった。 

 これをもってして一概に「日本で外国籍として生れた子は皆不幸だ」「認知されない方が幸せなのだ」と伝えたいのではない。飽くまでも父の経験に基づき、父なりの優しさを兄に向けたとき、これが彼のたどり着いた答えだった、ということだ。私にとって大切だったのはその選択に、兄に対する愛情を見出すことができたということだ。

それを示してくれた戸籍が、まるで父の意志が宿る「遺書」のように思えた。

 それに気づいてから、私の中での「過去」の見え方は全く変わっていった。それまでは「もしもう一度父に会えたら」と想像したとき、「なぜ?」と何度も問うてしまうだろう自分がいた。「なぜ兄にあんな態度をとってきたのか」「なぜ彼だけが戸籍から外れていたのか」。そこには怒りにも似た感情があったように思う。けれど今、もし父に会えるとすれば、一言「ありがとう」と素直に感謝を伝えたいと思えるようになった。 

 私たちが何かを学び続ける理由は、そこにもあるのかもしれない。過去に起きてしまった事実は変わらないかもしれない。それをどう振り返るかのよってその「過去」は、全く違った色彩を帯びて見えることがある。今、どうしようもなく苦しく、深い悲しみに見舞われていたとしても、時を経る中で、学び、気づかされたことによって、違った視野が開けてくるかもしれないのだ。

 だからこそこれからも、学び続けたいと思う。今すぐに、真正面から振り返ることができなくてもいい。乗り越えられない自分を責める必要もない。焦らず、ゆっくりと、自分のリズムを刻みながら、足元の気づきを少しずつ拾い集めてみる。いつしか振り返ったとき、そこには全く違って見える風景が広がっているかもしれないからだ。

 ちなみに今年の「Pen」11月1日号「手書きの味わい」という特集の中で、兄への手紙を綴ってみた。

兄さんへ 

 あなたにこうして語りかけるのは何年ぶりでしょう。ちょっぴり照れくさいですが、落ち着いて言葉を伝えたかったので、手紙にしてみました。

 幼い頃、私はあなたがなぜ敬語を使っているのか分からず、「よその家の人みたい」とからかったことをどうか許して下さい。父さんが亡くなって初めて、父さんが在日韓国人だったこと、韓国の伝統は家庭の中でも年上を敬うことを知りました。そんな事情を知らず、あのとき私はただただ、守られていたのですね。

 年が13も離れ、違う母親から生まれたこともあってか、優しい兄さんなのに、近くにいるとどこか、緊張していたのを覚えています。父さんが亡くなってから数年ぶりに電話で話したとき、「うちに遊びにおいで」と声をかけてくれましたね。受話器越しの約束は今も、果たされないままです。

 こうして手紙を書いた理由がもう一つあります。

 あなたのお墓の前に立ったとき、あなたの魂はもうそこにはない気がしたのです。自由になって今、どこを飛び回っているんですか?時々、私たちのことも見守りにきてくれていますか。

 最後に。
 世界中があなたを忘れても、私はあなたを忘れない。

                             オッパへ

※掲載後、一部を修正しています。

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