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文覚上人と西行法師

井蛙抄せいあしょう 』より
著者は吉田兼好の友人だった歌人僧頓阿 とんあ

西行法師晩年のこと。
東大寺勧進のため、二度目の陸奥への行脚から帰り洛西嵯峨に草庵を結んだ西行法師は、落ち着いた日々を過ごしていた。
そのころの西行の詠んだ歌。

嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるに
高尾寺 あはれなりつる つとめかな やすらひ花と 鼓うつなり(聞書集一七一)

高尾寺(神護寺)で行われる法華会は誠に情趣深いものだなあ。「やすらひ花」とはやしたてて、鼓を打つ音が優雅に聞こえてくるよ。

一方、その高尾寺(神護寺)文覚上人もんがくしょうにんは、元は俗名を遠藤盛遠えんどうもりとお名乗った、源平合戦にも登場するというという生粋の武家。
摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたという、同じ鳥羽院の北面の武士であった西行法師と似た身の上。

ところが、僧になってからの行動が西行とは大きく異なっていた。
文覚上人は、当時荒れ放題になっていた高尾寺(神護寺)の再興に生涯をささげる。

仁安三年(1168)、三十歳のころ当寺を訪れた文覚は、早速草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置し、空海住坊跡である納凉殿、不動堂等を再建する。
しかし、復興事業が思うにまかせぬため、承安三年(1173)、意を決した文覚は後白河法皇の法住寺殿におもむき、千石の収入のある荘園の寄進を強要し た。
そのため、法皇の逆鱗にふれ、伊豆に流されることとなった。そこで、平治の乱の後、同じく流されていた源頼朝と親しくなる。
頼朝の勢力拡大によって、神護寺の再興は進むことになったのである。

文覚上人が、神護寺復興に心血を注いでいた時に、そう遠くない嵯峨に庵をむずび、歌を詠むなど数寄放題な西行の噂を聞いて

「風流を求めて歌を詠み、ここかしこさすらうなど、もってのほか」と激怒し、僧侶あるまじきことと、日ごろから弟子たちに

「な~にが、『誠に情趣深いものだなあ』や!仏道に身を置く者は、わしみたいに命をかけて「仏法広まれ」と努力するもんや。

西行に出会ったら、きっと頭カチ割ったるねん」

と言ってはばからなかった。

さてある日、高尾寺(神護寺)の法華会が盛大に開催され、西行も参詣した時のこと。
そのことに気づいた弟子たちは、気づかぬふりをしていたのだが、来るなと思うほど相手はこっちにやってくるものである。

法華会が終わると西行は、よりによって文覚上人の庵室の前に行き、みずから西行であると名のって一夜の宿を乞うたのである。
文覚上人は険しい顔で、障子を開けて出迎え、西行の顔をじっと見つめた。
そして、顔を緩めると、西行を招き入れ、ご訪問いただいてうれしいなどと言ってもてなしをし、翌朝食事も提供して、何事もなく送り出したのであった。

弟子たちはほっと胸をなでおろしたのだが、見つけたら頭をカチ割ってやろうと言っていたはず。
親しげに話していたのはどういうわけなのですかと問いかけた。

すると上人はこう答えた。

『あれは、文覚に打たれむずる面様か。
   文覚をこそ打たれむずる者なれ。』

(あれが文覚に打たれるような人間だろうか。むしろ文覚を打つであろう人間ではないか。)

文覚上人が門前まで、西行法師を送りに出ると、厄払いの獅子舞が盛大に奉納されていたのであった。

参考文献
https:ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A
http://www.jingoji.or.jp/enkaku8.html
https://ogurasansou.jp.net/columns/arakaruta02/2021/12/07/15035/
https://suikyoblog.com/2020/07/31/saigyo-mongaku-seiasho/
三村晃功,西行法師の宗教観,『真實心』,第二十七集,京都光華女子大学,2006年3月

<原文>
文覚上人は、西行を憎まれけり。その故は、遁世の身とならば、一すぢに仏道修行のほか他事あるべからず、数寄を立ててここかしこにうそぶきありく条、憎き法師なり、いづくにて見合いたらば頭を打ちわるべきよし、常のあらましにてありけり。
弟子ども「西行は天下の名人なり。もしさることあらば珍事たるべし」と嘆きけるに、或時、高雄法華会に西行参りて、花の陰など眺めありきける、弟子どもこれかまへて上人に知らせじと思ひて、法華会もはてて坊へ帰りたりけるに、庭に「物申し候はむ」といふ人あり。
上人「たそ」と問はれたりければ、「西行と申す者にて候ふ。法華会結縁のために参て候ふ。今は日暮れ候ふ。一夜この御庵室に候はんとて参りて候ふ」と言ひければ、上人内にて手ぐすねを引いて、思ひつる事叶ひたる体にて、明り障子を開けて待ち出でけり。
しばしまもりて、「これへ入らせ給え」とて入れて対面して、年頃承り及び候ひて見参に入りたく候ひつるに、御尋ね悦び入り候ふよしなど、ねんごろに物語りして、非時など饗応して、つとめてまた斎などすすめて帰されけり。
弟子たち手を握りつるに、無為に帰しぬる事喜び思ひて、「上人はさしも西行に見合ひたらば、頭打ち割らむなど、御あらまし候ひしに、ことに心閑かに御物語候ひつること、日ごろの仰せにはたがひて候ふ」と申しければ、「いふかいなの法師どもや。あれは文覚に打たれんずる者のつらやうか。文覚をこそ打たんずる者なれ」と申されける。」

https://suikyoblog.com/2020/07/31/saigyo-mongaku-seiasho/




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