ニュークリアエアリア8

 多くの日常行為における自らの身体を、他人に委ねなければならない。いや、他人に委ねるという行為が習慣になっていると言った方がいい。そんな創さんの生まれながらの60年に及ぶ生活を想像することの方が難しい。その生活はいつになっても正解はない。今でも、毎日数時間後に起こる尿意、小便の事一つ、誰にどのようにして頼むかを用意周到に組み立てているだろう。気がのらない中でも冗談を言ったりして、どうすれば伝わるかの足掛かりを普段から作っておかなくてはならない。介護者の気分や都合によって、自分の身体がままならないこともある。意図されない他人に委ねられた身体の感覚は、当然ながらダイレクトに自分の触覚に通じている。そういった身体を常に意識させられているのは、どれほどの忍耐がいることなのか。肇も自分の生活に正解があるとは思っていない。でもだからこそ、その都度自分でハンドリングはできると、それが勘違いであっても、間違いであれば責任も取れる。創さんもハンドリングはできるが、そのハンドルを握っているのは常に善意の他者である。介護者の普段の生活の責任を創さんが取らされるか、代わりに罰を受けるようなこともあるかもしれない。そうやって介護者との間で積み上げた関りも、事業所や働く人の都合で一瞬にして消えてしまうことも起こる。そしてまた、新たに何度も何度も、数時間後に起こる尿意と孤独に向き合うことになる。
 肇はこの流体の中で、創さんの小便のことを気にしながら、自分の尿意を意識するとともに、逃げ場のない電車中で誰よりもたまらず小便を我慢している人のことを思ってみる。そこで我慢することなく、漏らすのでもなく、しかるべき放尿による小便の洪水が、窒息しそうになっていた車両をのみこんだとき、電車の扉が開いたのだった。

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