貞慶『法相初心略要』現代語訳(四) 五姓各別説、三性の一異について

凡例

  • 底本としては『大日本仏教全書』第八〇巻(仏書刊行会、1915)を用い、訓点や文意の確認のため適宜京大所蔵本を参照した[2]。

  • ()は補足、[]は文意を補うための補足で、いずれも筆者の挿入である。

  • 〈〉は原文中の注や割書を示す。


[五姓各別説について]

五姓とは、
① 菩薩
② 独覚
③ 声聞
④ 不定姓
⑤ 無姓
[の五つの種姓、先天的能力のことである。]

 「[菩薩となる素質を持つ]不定種姓は必ず成仏する」〈以上、引用。〉[とある。][また、]『成唯識論』には「決定して[大乗の無上なる悟りに]心を廻らせる[声聞・独覚の悟りは未だ]無上なる悟りでは無い」〈以上、引用。〉[とある。]

頓悟ー華厳経


[如来は]先ず[頓悟の菩薩種姓の為に]『華厳経』を説かれた。『了義燈』には、「大乗の教えに於いては頓悟[の菩薩種姓]が先ず成熟するから、[無上なる悟りを得た後すぐに、究極の教え(了義教)である非有非無中道の]三性説を説き、その後に[『般若経』などを代表とする]無性(空)の教えを前として[説き]、漸悟[すなわち菩薩種姓を持つ不定姓]は後に成熟するから、後に無性[すなわち人空法有の教え]を説かれた」[とある。]

漸悟ー初時

 [頓悟の菩薩の為に『華厳経』を説いた]次に、鹿野苑で倶麟(コンダンニャ)たち[五人の]比丘に対して『阿含経』を説かれた。是れが則ち初時有教である。その時、その教えに応じた性質(機根)の者は、自己の本質(アートマン)は空であり、諸々の構成要素だけが存在する(我空法有)という教えを聞き、自己の本質が実在しないという浄らかな智慧(生空無漏智)を得て、煩悩障を断じて声聞となるのである。

根本智・後得智

 いったい、浄らかな智慧(無漏智)には二種類がある。
 一には、根本智である。真如とぴったりと合致する(冥合)智慧である。
 二には、[真如と冥合した後に獲得される]後得智である。正しく諸々の現象(有為諸法)を対象として認識する智慧である。
 その中、二乗(声聞・独覚)は自己の本質が存在しないという真理(生空真如)とぴったり合致する智慧を根本智として、後得智はただ苦・集・滅・道[という]四つの[聖者たちにとっての]道理(四諦理)のみを認識対象とする。これはすなわち、[聖者にとっての]道理・現象・真理(理・事・如)のうち、道理(理重)であり、この道理は還って現象に属する。
 苦とは、[欲界・色界・無色界という]三種類の生存領域(三界)の[それぞれの煩悩に基づく生という]有漏の結果であり、
 集とは、この苦の結果となる原因、すなわち、煩悩を伴った善・悪の行為(有漏善悪業)や煩悩のことである。
 滅とは、もろもろの煩悩を滅して証得する真理であり、智慧による煩悩の止滅(択滅理)である。
 道とは、この滅の証得する原因、つまり清浄なる智慧(無漏智)である。

 また[次に]、菩薩の根本智は[我空・法空の]二つの空によって[顕される生空・法空]真如とぴったりと合致する。
 後得智は現象のすべて(有為一切法)と言語や概念として把捉される[すなわち、相分としての]真如を認識対象とするのである。
 この有為法を対象とする後得智を安立後得智(安立=仮設の意)と名づけ、真如を対象として[ぴったりと合致する]智慧を非安立後得智と名付ける。根本智は但だ非安立のみであり、安立の根本智は無い。
 また、二乗(声聞・独覚)については、[菩薩と同じく]根本智は唯だ非安立智のみであり、後得智は多分に安立智である。但し、[二乗の]非安立後得智の有無については[法相]宗家に二つの解釈がある[i]。

漸悟ー第二時

 次に、鷲峰山で[阿含経の]後[に]声聞衆に対して、諸部の般若経を説かれた。これが第二時空教である。その時に教えを受けた[菩薩種を持つ不定種]機根[の人々]は、諸法空寂の旨を聞いても未だ中道を悟ることができず、大乗の利益を得ることがなかったが、漸く大乗を信じるようになったのである。

第二時に機[根]が大乗を信じるようになったということの根拠

 『妙法蓮華経玄讃』に「須菩提などの[ある声聞]は心を大[乗]に廻らせた」(取意)〈とある〉。『摂大乗論釈』にも「般若の教えを聞くことに因って、小[乗]を修していたことを悔やみ、大[乗]に趣く因となることを“廻心趣”と名付ける。大[乗]に趣き、大[乗]に転向し終わったことを“廻趣”と名づけるのとは異なる」(取意)〈とある〉。

第三時

 次に鷲峰山などで[大乗を信じ始めた]声聞衆に対して『法華経』『解深密経』などの了義(真実、究極)の大乗経を説かれた。これが第三時中道教である。その時、[菩薩種を持つ不定種]機根[の人々]は中道の深い教えを聞き、皆な心を大乗に廻らせて菩提を成就することができたのである。

三性が不一不異であるということ

 『成唯識論』に云く、「(遍計所執性・依他起性・円成実性)の三つは異なるのか、異ならないのか。[答える。]まさしくどちらでもないと説くべきである。[三性は]別に本体があるわけでは無いからである。[また三性はそれぞれ]妄執・縁起・真実という意味で別だからである」〈以上、引用。〉[ii]

遍計所執性と他の二つが同じでないということ

 『成唯識論』に云く、「[遍計所執性とは心によって現れ出された依他起性に対して]有無一異、倶不倶等[と執着する]」〈とある。〉これについて各々四句が有る。
先ず「有無」について四句を作って言う。
一、 有である。
二、 無である。
三、 亦た有であり、亦た無でもある。
四、 [有にも非ず、無にも非ず。]

次に「一異」について四句を作って言う。

一、 一である。
二、 異である。
三、 亦た一であり、亦た異でもある。
四、 一にも非ず、異にも非ず。
 このようにして一切[の分別を]尽くすべきである。

迷いと悟りの是非のこと

 [『大乗法苑義林章』]「総断簡章」に云く、「迷いの心には四句は皆な非である。悟りの心には四句は皆な是である」〈以上、引用。〉


注釈


[i] 『了義燈』には『瑜伽師地論』を引いて二乗はただ安立諦のみを観じるとある。
[ii] 『成唯識論』巻八末。

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