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『明月記』の原本を見てきた その2 承久の乱の首謀者・尊長の顛末

 前回の投稿から数ヶ月が経ってしまった。2023年の6月〜8月に初頭にかけて東京国立博物館で『明月記』の展示をやっていた。読めないながらもガラスケースに貼り付いてなんとか読解していた中で「義時」の文字を発見。これは!と思いじっくり読むと、北条義時毒殺説で有名(?)な尊長逮捕の記事ではないか!と思い本来の目的であった古代メキシコ展そっちのけで興奮してしまった。

 嘉禄元年九月二十六日条と思われる慈円入滅の記事に続く嘉禄三年(1227)六月十一日条は承久の乱の首謀者として指名手配されていた、法勝寺執行・法印尊長の顛末についての記事である。

 尊長の逮捕については七日の時点で下人の口からおおよそ定家の耳に入っていたが、十一日になってかかりつけの医僧・心寂房から詳しい話を聞いている。心寂房は尊長が逮捕された翌八日、実際に尊長の逮捕にあたった菅十郎左衛門周則のもとへ赴き話を聞いているというから、かなり信憑性の高い内容だと考えられる。この件に限らず、心寂房はその仕事柄様々な場所に出入りしていたようで、様々な話題を定家に提供している。
 尊長は年来熊野や洛中、鎮西など各地を徘徊していた。嘉禄三年正月ごろには吉野の奥・十津川で活動しており、黒太郎という者を味方につけて十津川八郷庄のうち五郷までを味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波へ渡ろうとしていた。しかし、熊野の神威を恐れた黒太郎の弟が熊野に密告したため、熊野三山でも警備を固めたという(『明月記』正月廿八日条)。三月には或る人からの音信として、尊長が還俗して烏帽子を被り髷を結び、十津川住人の婿となって居住していたことが定家の耳に入っている(同三月十八日条)。
 院政期には熊野詣が盛んで、院をはじめ貴紳の尊崇を集めていた。後鳥羽院も生涯で二十八度熊野に参詣しており、熊野別当快実は承久の乱に加担して斬られている。後鳥羽院の護持僧を勤めていた長厳大僧正も承久の乱直前まで熊野検校の地位にあった。このような事情もあり熊野には不穏分子が多くいたようで、尊長は石山寺座主であった弟・長能の協力も得ながら、長厳の弟子たちも糾合して熊野を掌握し、阿波に押し寄せようとしているとの噂がまことしやかに囁かれていた。当時、阿波国坂東には後鳥羽の子・土御門院が遷されており、尊長は土御門院を擁立しようとしていたのである。
 同年閏三月にはこんな噂が流れている。すなわち、逆徒が兵船三十艘を率いて阿波に押し寄せ、守護代と合戦になった。院御所の前まで攻め込んだが、守護代自ら傷を負うほどの奮戦によって撃退したため、守護の小笠原長経が下向したというのである(同閏三月十五日条)。
これはのち虚報だと判明したものの、二十七日には信頼できる情報が入った。阿波国の熊野太郎という者のもとに、尊長一党から「我が方に付くか、守護方に付くべきか」という脅迫のような書状が届いた。熊野太郎は恐れをなして守護所に知らせたところ、国中が大騒ぎになった。しかしさしたることは無く、十五日の騒動は海人が夜釣りのために漁火を焚いていたものを敵が攻め寄せてきたものと勘違いしたものだったという(同閏三月二十九日条)。
 本郷恵子は「熊野太郎」は熊野出身の庶民であり「黒太郎」も熊野太郎が転訛したものと推測し、熊野修験のネットワークを利用した尊長一党の政府転覆計画がかなり実現に近い所まで進んでいたのではないかと述べている(本郷2015)。実効性はともかく、尊長は承久二年(1220)に羽黒山総長吏に任ぜられており、また遺言によって葬られた円明寺も比叡山無動寺の末寺で、修験道との関わりが深かったから、その蓋然性は高い(今谷2019)。熊野太郎の密告によって尊長の計画はうまくいかなかったが、本人はなお幕府の目をかいくぐって潜伏していた。ところが、六月に入って尊長は鷹司油小路の肥後房の家に匿われていたことが判明した。

 前置きが長くなったが、ここからは心寂房の所談に沿って尊長逮捕の顛末を見ていこう。
 
 尊長は年来熊野や洛中、九州を転々としていたが、ここ三年ばかりは京都に潜伏していた。和田義盛の孫(本文では子)・兵衛入道朝盛と友人になり、朝盛の従兄弟である山僧の伯耆房とも知り合いになった。ところが、朝盛が裏切って北条泰時(武州)に通報したのである。泰時はこれに喜び、六波羅探題(河東)に書状を送って尊長を捕らえるよう指示している。
 朝盛は和歌をよくし、源実朝の側近として仕えていたが、和田合戦に際して一族と実朝との板挟みになり出家。京都に向かう途中で呼び止められ、和田合戦に参戦するも生き延び、承久の乱では嫡男・家盛と袂を別って宮方に付いた。敗戦後も幕府の追及から逃れている。本郷恵子は尊長とは同じ追われるもの同士、通じ合うものがあったのだろうと推測している。しかし、幕府から赦免を得るために密告したのであった。
 泰時の書状は五日に届き、すぐに会議が始まった。そして七日早朝、門を出るときに乱入するように、と武士と言い交わして伯耆房が尊長のもとに赴き酒宴を張った。六波羅探題被官・菅周則と阿波国守護・小笠原長経率いる武士たちは避暑の由を称して二条大宮の神泉苑へ向かった。甲冑は車に乗せ、車四両に乗って馬に引かせた。伯耆房が「六波羅の武士が大勢集まっているようです。様子を見て帰ってきましょう」と言って門を出て、武士に合図を送り逃げ去ると同時に菅の手先が乱入した。尊長はとっさのことであったが剣を取って一室に籠り、二人に傷を負わせたが、自害しようとして死にきれずついに捕縛され、車で六波羅へ連行された。
 もともと剛毅な尊長は、六波羅に居合わせた要人らしき人物について聞いている。この部分からは講談めいた心寂房の語り口がそのまま日記に記されていて興味深い。
尊長:「あの男は誰だ」
武士:「修理亮殿である。武蔵太郎(時氏)のことだ」
尊長:「あの男は?」
武士:「掃部助殿(佐助時盛)だ」
尊長:「こいつは知っているぞ」
 このようなやりとりの後、尊長は「ただ早く首を斬れ。さもなくば義時の妻が義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」と口走り、これを聞いていた人々は大いに驚いたという。
 この後、加茂川の西にある菅周則の家に担ぎ込まれた尊長は、討手の小笠原長経と菅周則がそれぞれ「自分の手の者(?)が先に入った」と手柄を争ったため、六波羅の使者から尋問をされている。尊長は「只今死のうとしているのに、どうして人の味方をして虚言を言おうか。奇妙なことだ」と述べ、「年来京都に親しくしている知人がいると和田朝盛が言っていたが、本当か」という質問に対しても「京都に知人なぞ居ても無益のことだ。そんな奴はいない」と答えている。
 次に尊長は氷を所望した。氷は当時貴重なものであったから、武士に無いと言われると「六波羅殿といって世に居る者がどうして氷を手に入れられないことがあろうか。不甲斐ない奴らめ」と辱めたため、氷を求め得て与えた。尊長は氷を食べたという。
 翌八日の辰の刻(午前八時ごろ)に臨終が迫った尊長は帷子を改めて手を洗い、おそらく阿弥陀如来の図像を西向きに掛けさせ、高声に念仏を唱え、座したまま亡くなった。見事な死に様である。立ち会った武士たちは尊長の極楽往生を口々に讃え、その証拠に死臭がしなかったという。
 尊長は討手となった菅周則に「私の体は必ず円明寺に埋めてくれ。河原に晒すな」と約束していたから、周則は土用(立春・立夏・立秋・立冬の前の十八日間)に土を掘り返して葬送すべきではないという当時のタブーを破ってまで遺言通り円明寺に葬送し、首を取らなかった。世の人々はこれを異口同音に讃えた(ただし、後日聞くところによれば、武士たちは首を切るかまだ相談していたという)。
 和田朝盛は武士の許に取り置かれ、その後のことは不明。与同関係者の捜査も進められ、朝盛の縁者(舅?)や、尊長の異父弟に当たる大秦宮こと真禎法親王(後白河皇子。母は仁操僧正女。尊長の弟・能性と同腹)の知人などへも追求が及んだ。定家は「この一件は尾を引きそうだ」とコメントしている。

 このように剛毅な最期を遂げ、武士にも賞賛された尊長だが、彼が口走った義時毒殺説については、『百錬抄』の義時急死の記述や、尊長が伊賀の方事件に関与した一条実雅の兄弟であることからこれを肯う研究者もいる。
 しかし、山本みなみは先行研究の論拠を検討した上で、称名寺三代別当・湛睿の『湛睿説草』に注目し、義時の子である名越朝時が貞応三年(1224)に義時の四十九日の仏事を行なった際の表白からやはり義時は『吾妻鏡』のいうように、病死であったと結論づける(山本2021)。また、尊長が毒殺説を口にしたのは半ば自暴自棄になってのこととも述べている。だからこそ、それを聞いていた周囲の武士たちも驚いたのだろう。

 以上のように、僧侶でありながら武士顔負けの剛毅さを見せ、現代まで論争の的となる義時毒殺説を述べたまま極楽往生を遂げた尊長の最期を記録した『明月記』の嘉禄三年六月十一日条を改めてじっくり読むと、大まかなことは知っていても細かな疑問や発見(例えば情報提供者である心寂房や、「大秦宮」とは誰か、「武蔵太郎ござなれ」と発言したのは武士か、尊長か、「土用」のタブーなどなど)が多く、調べるうちに大変勉強になった。
 感想めいた締まらない結論だが、尊長のパーソナリティや法勝寺執行というポジション、義時毒殺説については下記の参考文献をぜひご覧いただきたい。

『明月記』嘉禄三年六月十一日条


 十一日、自朝陰雨漸灑、風吹聊涼、巳時許法眼来臨、言談及末時[宮僧都(真禎)遊大井河之間、武士来向、騎馬帰家。依定毫計略、武士雖去、終始猶有沙汰歟]。及申時、心寂房来談之次云、「去八日午時許、罷向菅十郎左衛門許、其辰時許、法印終命日也。武士委談其間事。
 年来熊野又洛中鎮西等経廻、此三年許在京、義盛子兵衛入道(朝盛)尋逢、為友之間、件法師従父兄弟、山伯耆房又知音之間、兵衛入道忽挟弍心、以告此事。[可]為扶身計由成支度、以使者触武州。ゝゝ(武州)成悦、以書状、可搦取[之由]示送河東。状五日到来、忽議其事。
 伯耆房向法印許[早旦]、盃酌、「我身出門之時可入由」、兼与武士約行向。武士称避暑由、行向二条大宮泉[菅十郎・ヲ笠原]、甲冑入車運之。又乗車四両、令引馬、行彼近辺之間、伯耆「河東武士成群之由聞之、罷向見可帰来由」称、出門麾武士、奔去之間、菅十郎手先押寄。法印、取剣入一間所[如他人説]、先奔入男被突[三疵]、帰出。次入者又被突[浅手]。次自害之後、入車向河東、乍車入門内。
法印問云、「あの男は誰ぞ」人云、「修理亮殿」「武蔵太郎ござなれ。「又あの男は」「掃部助殿」「これは見き」。
 次云、「只早頸ヲきれ、若不然ハ又義時が妻が義時にくれけむ薬まれ。こひてくハせて早ころせ。[衆中頗驚此詞]。
 次舁入菅十宅[河西]之後、ヲ笠原・菅十、各称「我先入由」。以使者問上綱、答云、「先入男突之、次入者又斬、三人也。其後久無見者、遂見者等。当時在男等之外無之。」再問之。「なんでう只今しなんずる我等、などか人に被語て虚言はいはむ。復問希有也」と答。
 [人欲着改帷、只今不可然由答云々。]「又[和田]兵衛入道説、年来京人に知音由云、如何由」問之者、又云、「京中に知人事何要哉、甚無益也、更無之」[云々]。又尋氷、無由答。「世を打取て、六波羅殿と云て居物、寧無氷哉。甚不覚」由辱之。求与之、食了。
 八日辰時許只今臨終歟、著改帷、手濫、令懸仏、高声念仏、乍坐終命。武士等称往生由、跡無屍香、各讃嘆之。又兼「我身必円明寺に可埋、於河原不可曝由」示含。菅十、「我云つれば土用不可憚」者、仍相送其所葬之、不斬頸。[此僧雖如此後日聞之、武士猶相議切頸由云々。]当時只異口同音称美云々。
 兵衛入道は召取置武士許[後日賞罰不知之]、件法師之縁者[しうと歟]、入道宮僧都知音、依之被責云々、飛脚奔了待帰来。有尻引之沙汰歟[云々]。

 従三位清季卿自去月癰瘡、廿七日被請之、更不可存命由示送、今月一日逝去了、本飲水労云々。遂不出家□□□心中有所存歟、本自僻案之異人也。叙上階可忽出家由奏聞、勅許。臨最後病猶不□□本妻惟義娘、又皇子祖母之佐尼同心看病、本妻所生女房前司[光盛卿猶子]、又大夫等馳走云々。臨昏雨如車軸、終夜風雨。神今食、定失進退歟。

冷泉家時雨亭叢書『明月記 二』より一部改変。

参考文献

本郷恵子『怪しいものたちの中世』(角川学芸出版、2015)
今谷明『中世奇人列伝』(草思社、2019)
山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館、2021)

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