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東西南北はゲームが教えてくれた

東西南北。

北と南はいち早く覚えることができましたが、小学校低学年の頃、新しく入ってきた「東」と「西」については、どっちの方向が東でどっちが西で?というのがなかなか頭に入らない(というか身体に染み込まない)時期がありました。

今でこそアプリでゲームの時代ですが、立って北を向いた時に右手が東で左手は西。残る後ろはもちろん南。
これを覚えたのはゲーム。ドラクエ(無印)でした。
しかもこのドラクエは「初代・ファミコンのドラクエ」というところがポイントです。

なぜなら、「はなす」というコマンドを選択してから方向を確定させる必要があったから。(ヘッダーの画像参照)
具体的には、自キャラの右の人に話しかけたい、という時に「はなす」→「ひがし」を選択することでようやく右のキャラに話しかけることができる、という仕様でした。
この具体的な(技術的な)理由は、大人になってゲームの歴史を紐解いた中で堀井雄二さんのインタビューか何かに出会い、拝読し理解できました。

今振り返ると、技術的な理由で提供されたゲームの仕組みのおかげで東西南北を覚えたわけですが、ゲームの中で必要だったことが自身のリアルでも活きた初めての経験で、実は今の自分がある原体験として非常に大事なポイントだったのかな、と感じています。

自分のリアルとゲームなどの機能や仕様がシンクロする部分は、生活の一部に近く、没入感に一手間かけられるのでは、と改ためて発見した気になっています。(ただの思いつきなのでなんてことはない事象かもしれません。)
もちろん、世界観をリアルな世界に寄せて没入感を生んでいる名作は数多く存在すると思うのですが、機能的に・仕様的にリアルな生活でも使うことで生活の一部のように持っていくことができないか。特にARやVRと行った仮想現実が身近な時代になって、ますますこの辺を意識する方が何か生まれそうな予感。

自分の中の「当たり前」と思ってること。
その当たり前は何で知ったのか。しかもその当たり前は知るまで当たり前じゃなかったはずで。
なんで知ったのか?きっかけは何だっけ?を疑ってかかれるような気持ちは持ち続けないとな、と。
また更に、何で当たり前と腹落ちしたのか。

この点、多分年齢と共に忘れてはいけないポイントだと考えていますが、その当たり前が経験や知恵となっていて、年齢に対する対価である、ということもありそう。
もちろん年齢とともに、当たり前と考えること・知っていることは増えているはずなので、これを踏まえて疑える柔らかな思考が更に年齢を重ねても自分を成長させてくれる気がします。

今日はそんな気づきのあった日でした。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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