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にわか雨も運命で

マスクは、人の嗅覚を奪う。味覚と嗅覚に異常があると新型コロナウイルス感染症とやらを疑う時代。その厄介なウイルスが蔓延る外で生き残るために、我々は外出時にマスクをする。マギレコで言うスキルタイプのメモリア装着だ。「防御力UP」「ダメージカット状態」「状態異常耐性UP」。否、正しくは「確率で回避」だけかもしれない。真偽の程は分からない。

兎も角として、マスクをしていると外の匂いが分からなくなる。ようやくマスクに慣れてきたこの頃、それを少し寂しく思うようになった。

黄色い日差し、青空とそれを反射した川、草木の緑、明るく甘い花、空を隠す夜の叢雲、雨上がりの潮風、それから、これから雨を連れて来る遥か遠くの雨雲。こういった様々な自然の匂いが、マスクによって遮断されているのである。

家から出るのは好きではないが、家の外にしかない匂いというのは魅力的なものである。たまの外出も悪くないと思う理由のひとつだ。


その日、夕飯の買い物に行くために十三時半に自転車に跨った。外に人は少なく、移動の間口を開くわけでもないため、マスクを下げて鼻を出していた。前日の雨がもたらした濡れた緑と土の匂いと濁った川の不穏な空気を吸い込みながら、いい気分になって橋を渡っていた。上空は青空で、気持ちが良かった。ふと左遠くの空を見ると、暗く灰色の雲が大人しそうな顔でこちらを見つめていた。

買い物が終わった十四時前、食品の詰まったエコバッグを両手に下げ、駐輪場へ向かう。自転車のサドルに目を凝らさないと見えない程度の水滴がひとつ、ふたつ。おや?と思った時には大きさを増した水の欠片が次々に降り始めた。

これは、まずい。

とにかく急いで帰らねば。ベランダには洗濯物が掛かっているし、部屋の窓は開け放ったままだ。このままではありとあらゆるものが濡れてしまう。大急ぎで自転車を従え家路についた。

雨は嫌いだ。濡れるし、何かと荷物は増えるし面倒くさい。予定外の雨など論外である。ただ、その日の予定がただ家でぼーっと天井を見るというだけであるなら例外だ。そういう時、ちょっとした大したことのない用事のために外に居て、そして帰る時にぱらっと降りてくる想定外の雨というのは、案外好きである。

違う。雨が好き、というよりは、その雨を受けて街が動く様が好きなのだ。

急に降り出して明らかに徐々に強まっていくそれに、人は様々な反応を見せる。外を歩く人は徐に傘を出したり、思い切って早足になったり。スーパーの駐輪場では、ぎょっとしたように自転車のカゴに荷物を詰め、飛び出すように帰りゆく人。コンビニから飛び出して慌てた様子で車やバイクに乗り込む人。洗濯物が揺れているベランダは揃って人影を纏う。庭に置かれていた自転車は急いで屋根の下へ隠れる。

そういった、雨に揺れ動かされバタバタと慌ただしくなる街の空気にワクワクするのだ。

もちろん、自分だって例外なく大雨になる前に安全な自室に戻るべくいつもよりスピードを上げてペダルを踏みこむ。だんだんリズミカルになっていく雨音に合わせて速度を上げる。そうやって早くあれをしなくては、これをしなくては、と街と一体になって翻弄される非日常というのは愉快で楽しい。

家に着く。自転車にカバーをかける。手洗いうがい。洗濯物を入れる。窓を閉める。買ってきたものをしまう。濡れた服を着替える。水玉柄になったTシャツとジーパンを脱いで、タンクトップと部屋着用のジーパンに着替える。結んでいた髪をほどく。湿った髪をタオルで抑えながら、ラフな格好で水を飲むこの感じはとても久々で、満足度が高かった。部屋は閉め切られて暑い。何だかアイスクリームが食べたい気温。

このゆるりとした内の雰囲気とは真逆に、外は激しさを増す。雷、雨、爆音。大きな音が苦手であるため、手足が震えるほどの恐怖に襲われる。我慢の時間。

しばらくそうやってじっと堪えていると、ふと時間が途切れたような感覚に陥る。雨が止んだのだ。


さあ、今日の三時のおやつはお気に入りのアイスにしよう。

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