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ブックレビュー:『新宿二丁目』(伏見憲明 著 新潮新書 2019)

本書は、主に1960年代後半の新宿二丁目に起こった「ある変化」に焦点を当てている。あくまで書評なので、このテーマ以上のネタバレはあまりしたくないが、特に第八章の砂川秀樹氏の著書に対するクリティカルな考察から、この「ある変化」に向かって熱量やスピード感をさらに増していくあたりは、読んでいて非常に興奮した。本を読む行為自体があまり得意ではなく、どんなものであれいつも時間をかけてしまうが、本書はその興奮とともに一気に読み終えてしまった。

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東京在住のゲイで、今でこそ二丁目のゲイバーにも通うが、生まれたのは本書が扱う時代から少し後の1970年代後半。東京出身ではなく、過疎化の果てに「平成の大合併」で今では名前も消えてしまった田舎町で生まれた。時代や場所をリアルに共有していないとしても、本書は単なる誰かの昔ばなしでも、単なる都市論でもなく、これまでの人生を振り返るきっかけとなるものだった。

同じく田舎育ちで団塊世代の父と母は、高校の同級生であったが、当時はそれほど接点はなく、その後ふたりとも東京の大学に進学し、キャンパスが同じ世田谷にあったことがきっかけで再会をする。「新宿でデートをしたことがある」と、聞いてもいないのに聞かされたことを思いだす。本書にも出てくる、1960年代後半の新宿。田舎者のふたりが新宿でいったい何をして遊んだというのだろう。しばし本の内容が頭に入ってこず、あまりしたくない想像をしてしまった。

両親が経験した新宿が、歴史的にどのような性格を持つ街だったのか。サブカルとは無縁だった平凡な田舎の高校生が、なぜ二丁目の存在を知ることができたのか。「自分はゲイなのだから、とにかく東京に出るしかない!」という、確固たる動機に突き動かされていたこと。方向音痴で地図アプリもない時代に歩いて探した二丁目は、周囲を大きな道で隔てられ、外側からはとても暗く、「ルミエール」の明かり以外はほとんど見えず、怖くて中に入れなかったという記憶。特によい思い出もなく足が遠のいて20年以上が経ち、いくつかの幸運な出会いに恵まれて、ようやくこの街を心から楽しめるようになったこと。本書を読み進めるうちに、これらすべての事象が地続き、というのはさすがに大げさだとは思うが、この街の持つ「磁場」がこれまでの人生に少なからずインパクトを与えていたことに気づかされる。

若い世代のゲイはまた違った感想を持つのかもしれないが、伏見氏が作家としてデビューした1990年代初頭に思春期を過ごした私のような世代、あるいはそれより上の世代のゲイであれば、この街と自身の物理的・心理的な距離がどうであれ、本書によって過去のなにかしらの記憶がよみがえるのではないだろうか。それぞれの人生における経験、選択、その結果、そしてその過程にあった感情というものを、当事者どうしで語り合い、分かち合いたい。場所はもちろん「かの店」で。そんな気持ちになる本だった。

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昨今は「LGBT」「多様性」「ダイバーシティ」といった言葉を、人権の問題としてだけではなく、経済政策や企業の経営戦略の領域など、いたるところで目にする。すでに「バズワード」あるいは「手垢のついた言葉」という感じすらあるが、それが自分にとってどんな意味を持つのか、今一つ腹落ちしていない、しっくりきていない、モヤモヤを抱えている人も多いはずだ。また人権や多様性に対する考え方・価値観も様々であり、LGBT当事者の間でさえ、SNS等で(時には人格攻撃とも思える内容も含んだ)論争になることがある。本書に出てくる三島由紀夫の『禁色』からの一節、この街に関わってきた人々の声、そして伏見氏が所々で発する言葉は、そんなモヤモヤを抱えている、あるいはネットに流れる不機嫌な空気に疲弊している者たちに向けたメッセージであると思えてならない。

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