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何でもない記憶たち

ぼーっとしていると、ふと、

小さい子供の頃のことを、特に、保育園の頃のことを思い出す。

どれも何でもないことで、細部まで覚えているようで、全体は曖昧な、不思議な記憶。

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ゾウさんの滑り台があった。薄いピンク色だった。

その後ろに何人かでしゃがんで、ダンゴムシを捕まえて、ダンゴになるのを見たりして遊んでいた。

似ているのにワラジムシというのもいて、そいつのことを誰かが教えてくれたのだった。ダンゴムシよりもちょっと平くて、色が茶色っぽい。

そういうことを、その時に覚えたのだけど、教えてくれたのは誰だったっけ。多分、男の子だったと思う。「これ、ダンゴにならなーい」と不思議がっていた私に、教えてくれたのだった。

あの時、何人かいたはずだけど、誰のことも思い出せない。そして、何度も滑り台の後ろで同じように集まっていた気がするけど、ダンゴムシのことしか思い出せない。

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ブランコは2台あって、どちらも持ち手がゴムになっていて、ぎゅっと握っても痛くなかった。

目一杯高くまでこいだ時の、恐さと楽しさ。

何をしてもよくて、何をしていても楽しかったな、と、ブランコを見ると思う。

あのブランコで目一杯、高くまで昇った瞬間の地点が、あの時の私や私たちが自分の力で行けた、一番高い場所だったのではないか。

ブランコをこぐ、漕ぐという響きが、なぜか特別に響く。

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外遊びを終えて手を洗う時の、青いネットに入れられた石鹸の香り。

白い泡を手と腕に伸ばして、「セーラームーン!」とやっていた背の高い女の子。

手についた水で「パッ」ってやってくるやつ、仕返しするやつ。

手でプシュってやる水鉄砲の練習を始める子。

早くしてよ、と急かす列の後ろの子たち。

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色とりどりの上履きのつま先。よく洗われているものと洗われていないもの。

油性ペンで書いた名前が滲んでいるもの、まだ新しくはっきりと読めるもの。

いつもより迎えが遅くて、みんながどんどん帰っていく時の寂しさ。

下駄箱に、もう帰った子たちの上履きがずらっと並んでいて、まだ外靴が入っている子は他に何人だろうと数える。

夕暮れの空の下で、同じく残された子と2人で、重なる円盤のような遊具で遊んでいた。

一番高い所に登った時に、お父さんが迎えにきて、あぁ帰らなきゃ、と思った時の、不思議な感情。

2人で遊んでいた時間を手放すことは寂しく、その子を残すことはもっと寂しかった。空はどんどん赤くなっていて、夜になった時、その子はまだここにいるだろうかと思った。

バイバイ、また明日ね、と手を振って別れて、その手を父と繋いだのだったか。

帰りの車の後部座席で、何を話したのだったか。毎日同じように同じ家に帰ることに、何の疑問も心配もなかった、あの頃。

帰りによくメロンパンを買ってくれた父。あの頃メロンパンを食べすぎたからか、今はあまり食べたいと思わない。

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色んなことを不思議な欠片で覚えていて、どれもピッタリとは結びつかない。

何故こんなにも細かく覚えているのだろう、というものもあれば、ほとんど思い出せないのに、手の感覚だけ、温度だけ残っているようなものもある。

歩き方も走り方も教わっていないのに、好きなだけ歩いて走って遊んでいた。やりたいことだらけで、やり方なんて気にしている暇はなかった。

何にも怯えることなく、雨だろうが強風だろうが、目の前のことに手を伸ばして、時に取り合ったりして、たくさんのものを覚えていったのだったな。

・・・

子供の頃の自分は、まるで自分じゃないみたいだ、と感じた。

くたくたになるまで走り回ることも、大声で泣きながら喧嘩することも、かくれんぼで信じられない隙間に入ってみることも、大人になった今では、しない。

たしかに私の人生の一部なのに、どこかでそれらを「しなくなる」タイミングが来るのだろうか。

同じ私という人間なのに、同じことが、もうできない。

子供から大人になるのは、グラデーションであって、決まった瞬間はないのだろう。ならばそのどこで私は、それまでの私を忘れていったのだろう。

そしてもう、思い出せないことたちは、私の一部ですらないのだろうか。

生きていれば変化し、生きていれば失い続ける。

次から次へと手に入れ、失い、何が残っているのか、何を残したかったのか、もう分からないな。

私は何でできているのだったかな。


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記憶を辿っていたら、懐かしさを超えて人生を考え始めてしまった、

初秋の夜の感情。