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最近の生活

こんばんは。

久しぶりに「つぶやき」ではないnoteを。

最近の、仕事も含めての生活の全体、思考を記録しておこうと思います。

・・・

寒くなってきて、すっかり遅起きになってしまいました。

出社は週一でほぼ在宅なので、遅く起きてもまあ問題はないのですが、気持ちとしてはやはり早起きがしたい。

今の時期は早起きすれば金星と水星が見えるはずなのに、まだ一度も見られていないのです。

早起きがしたい、と思いつつ、つい寝るのが遅くなる日もあって、なかなかリズムが定まらない。この前の土日など、2日とも10時間くらい寝ていました。

疲れは溜まっていると感じます。身体はそこまで使っていないけど、頭と心が疲弊。特に心。

社会人になって、現場(システム開発的な)に入って、毎日分からないことの山を少しずつ崩しながら取り組んできて、ようやく分かってきたと思ってもやはり難しいことは未だ多くて。

夜寝る前、朝起きた時、仕事がしたくない、と思うことが出てきました。少し前までは、そんな明確には思うことはなかったのです。

毎日ストレスなく楽しく過ごせるとは思っていなかったけど、こんなに後ろ向きな気持ちになってしまうとは、自分でも予想していなくて。

仕事で楽しさを見つけることが段々と難しくなり、仕事をしない時間の、ふつうの日常生活の時間に安らぎを求めるようになっています。

在宅メインなのもあって、朝昼はけっこうちゃんと食べていて、ごはんの時間だけでなく掃除や洗濯、珈琲を淹れる時間、カメラで写真を撮る時間などが癒しで。

こうした "生活" の時間と、仕事の時間がどんどん分離してきて、それはつまり自分の分離でもあって、"今この瞬間の自分" というものが分からなくなってきました。

鳥のさえずりを聞いたり、ベランダから夕暮れの空を見上げたりして、はっとする日もあれば、自然の動きに全く気を向けることなく、PCの画面だけを見続けて、無機質な時間の経過の中にいる日もあります。

時間が経つということは、本来は質的な変化を伴うことであるのに、現代の「快適な」環境に住まうことで、一日が過ぎるということが時計の針が動くだけのことのように感じてしまう。

あるいは、時間を、何かタスクを当てはめる箱のように考えてしまう。何分であれが出来て、次の何十分であれをやって、1時間であれを片付けられるな、と。より効率よく、箱の中にタスクを詰めて、消化して、そうして仕事を片付けていく。

効率よくやらないと、と常に時間を気にしているのは、時計の針の動きを見ているだけ。自然の時間はただ過ぎるものであるのに、その中に人間も生きているはずなのに、私たちの多くはツールとしての可視化された時間を過ごしている。

隙間なく、余白なく、時間という箱に何かを詰める。余白ができると、何かで埋めようとする。これ以上は入らない、と思っても隙を探して、私たちは箱の中身を100%か、それ以上にしようとしている。

時間に限らず、自分自身でさえ箱に見立てて、役に立ちそうな何かでいっぱいにしようとしている。空っぽだと思われないように、そして出来れば華やかに見えるように、色々なものを詰めようとしている。

最初はなかった、望んでいたわけでもなかった、そうしたものたちで自分自身や生活を満たして、ふう、生きるのは大変だ、と言っている。本当に多くの人が言っているように思う。

でも、それは、狂っていないか。

私自身が感じている、生活の時間と仕事の時間の分離の、仕事の方。その時間に生きる私は、箱により多くを詰めようと必死で、達成できない時はとても恥ずかしく、肩身が狭い気持ちになる。毎日忙しくて大変、と思っている。

でも、生活の時間、より自然の時間に、近い時間。そこで生きる私は、ただ手の動くように家事をして、時々ぼーっとして、窓から入る光や空気に感覚をゆだねる。その時間の流れは緩やかで、かつ色がある。

本当はこれだけでいいのにな、と思う。揺れるカーテンの光と影を眺めながら、こうして運ばれてくる時間を、ただ、過ごしていけばいいのにな、と。

どんどん分離する自分自身と、その苦しさを冷静に眺めてみると、現代の社会そのままだな、と思います。

自然の時間を離れて、人間の本来のスピードを離れて、あらゆる機械やシステムが動き、商品が生産され、流通し、資本主義経済が回る。いつも忙しくて大変なのに、この動きを止める明確なスイッチはなく、順調に動かし続けるために私たちは機械のように働く。

本当はそんなに速く動けない、動き続けることなんてできない。でも止める方法は分からないし、止めたらどうなるかも分からないから、必死で動き続ける。

その内エンジンが摩耗してタイヤがすり減って、動けなくなった時には、修復のしようがないほどボロボロで、その時になってやっと、止まることができる。でも、社会は変わらない速さか、それ以上の速さで動いている。常に誰かが、大勢が、それを動かしている。

そうではない時間を生きている人がいることも知っています。程度の差はあれ、2つの時間を行き来している人も少なくはない。そうやってバランスを取りながら、"社会" と距離を取りながら生きていくことも、可能だとは思います。選べる場所にいる、とも。それは幸いだとも。

でも、根本的に狂っている、と心が叫ぶのです。私は、私たちは機械ではないのだ、と。全てを手放して、本当のものを取り戻したい、と。

それは容易ではなく、決して穏やかな選択でもない。周囲のあらゆることを否定することに繋がるし、自分自身を組み立ててきた多くを否定することにもなる。

それでも、その痛みを伴ってでもいいから、自然の時間の中で呼吸がしたい、と強く思うようになってきているのです。一度、私を否定して、そこからまた肯定を始めたい、と。

本当は穏やかに距離を取って、全否定せず、バランスを取れればいいのかもしれない。そういう意味で "うまく" やれない自分を、ずっとだめだと思っていた。

でも、故障なく順調に動き続けるために、他者のために生まれてきたわけではない。私の時間を完全に失う前に、私自身を分離したままで平気になる前に、止まりたいのです。


と、生活リズム定まらない話が、こんなところまで来てしまいました。

本当はゆるい生活記録にするつもりだったんですけどね。書き始めると本音が出ます。

仕事がつらいというよりは、仕事の時間の中にいることがつらいんですよね。常に他者評価を気にしてしまうし、能力とか給料とか、そういう尺度しかなくて。

だから、今の仕事をやめればいいとか、そういうことではないんですよね。じゃあ具体的にどうしていくのか、というのは、あまり見えていないのですが。

真面目に考えたり、考えなかったり、ぼーっとしたり、泣いたりしながら、大きな否定の中でひとまずは小さな納得を探して生きていきます。

いろいろと諦めないこと、それだけ、これからの私と約束をしたいです。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

相変わらずの流れ、読みにくい文ですみません。

また、ここやどこかで会えますように。


おやすみなさい。