「けものフレンズ」と「ゼルダの伝説」は、とびきりのプロが作った二次創作作品なんじゃないかな――という話


 「けものフレンズ」は、なんて素晴らしいアニメなんだ!

 ――といった賞賛の文章を、いまさらながら、ちょっと書いてみようと思います。

 というのも、TVアニメ「けものフレンズ」は、今年3月に発売され、世界中のゲームファンを虜にしたNintendo Switch「ゼルダの伝説」と、すっごーく似てるよなぁ……と、テレビゲームに関わる物書きをしている者として、強く思っているからです。

 なんていうのかな、「世界の在り方」みたいなものが似てるんですよね。

 この点について指摘する文章は、たぶん、まだネットのどこにも存在しないでしょうから、だったらわたしが書いておこうかなと思ったわけです。ちょいと長めの文章ですが、よろしければ、おつきあいくださいませ。




 さて。

 「けものフレンズ」という言葉をたどり、この文章に到着した方の中には、「ゼルダの伝説」というゲームについて、詳しくない方もいらっしゃるでしょう。

 なので、まずは「ゼルダの伝説」シリーズについて、その概略を説明いたします。

 とりあえず、ものすごーく面白いゲームだよ! ということを知っておいてください。ゲームファンなら誰もが知っている超有名なシリーズであり、全世界のゲームファン(の中でも、とくにガチなゲーマーさんたち)が、つねに新作を待望し続けているゲームです。

 とりわけ、最新作のNintendo Switch「ゼルダの伝説」は世界中で絶賛されておりまして、これぞシリーズ最高傑作! といった声もたくさん聞こえてきています。もちろん、わたしもプレイしています。ほんとに素晴らしいゲームです。

 あまりに素晴らしかったためか、2017年3月に発売されると、わずか1か月で276万本もの大ヒットとなりました。じつは、この時点でのハード本体の販売台数は274万台でありまして、おいおい、ハード本体よりソフトの方が売れてるじゃねーか! なんでやねん! と業界関係者が頭を抱えてしまうような、これは前代未聞の異常事態でもありました。

 その要因は、「プレイ用と保存用に2本買う人がいたからだ」とか「ハードが品切れを起こしていたので、真っ先にソフトだけを確保する人がいたからだ」とか言われていますが、その真相は、いまなお謎のままです。

 なにはともあれ、Nintendo Switch「ゼルダの伝説」は、そんな異常事態を引き起こすほどに熱狂的なファンが世界中にいる人気ゲームシリーズの最新作であり、シリーズ最高傑作の呼び声高いゲームなんだね! と理解しておいてください。




 そんなNintendo Switch「ゼルダの伝説」は、TVアニメ「けものフレンズ」との共通点が、ものすごーく多いんですよ。

 たとえば、Nintendo Switch「ゼルダの伝説」の世界には、ぜんぜんヒトがいないんです。

 まったくいないわけじゃないんだけど、とてつもなく広い世界を歩いても、歩いても、歩いても、なかなかヒトに出会えないんです。

 そのかわり、広い世界を歩いていると、いたるところに「ヒトがいた痕跡」だけが、ぽつん、ぽつんと寂しげに点在しています。街とか、城とか、神殿とか、かつてヒトがたくさんいたであろう場所が、なんの説明もないまま、風雨にさらされ、朽ち果てているんですよ。

 ああ……きっと過去に何かがあったんだろうなぁ。

 その結果、ここはヒトがいない世界になっちゃったんだろうなぁ。

 そんな気分に包まれながら、ヒトがほとんどいない広大な世界を、プレイヤーは旅することになるのです。これがNintendo Switch「ゼルダの伝説」というゲームです。

 いかがでしょう?

 この世界の設定、なんかTVアニメ「けものフレンズ」と似てるような気がしませんか?




 TVアニメ「けものフレンズ」で描かれる世界も、その最大の特徴のひとつが「ヒトがいないこと」でした。

 そのかわり、いたるところに、看板や、ゲートや、橋などの、「ヒトがいた痕跡」だけが点在していました。それらは風雨にさらされ、傷んだ状態で放置されていました。ヒトがいないのに、ヒトがいた痕跡だけが残っていたわけですね。

 なのに、この世界で生きている、女の子の姿をした動物たち(フレンズたち)は、それらの「ヒトのいた痕跡」の存在を、なにひとつ不思議だと思っていないのです。たぶん、自分が生まれたときからそこに存在していたため、なんの疑問も抱いていないのでしょう。「ヒトがいないのに、ヒトがいた痕跡だけが残されている」という、とんでもないレベルでの異常な光景があるのに、フレンズたちは、誰ひとりとして、それを異常だと思っていないわけです。

 いやはや、なんとも怖い設定です。

 素晴らしいSF的設定だ、と言ってもいい。

 でも、だからこそ、ヒトがいた痕跡が画面に映るたび、視聴者は「どきっ」とさせられました。不穏な気配を感じたのです。言葉にならない違和感のようなものを感じたのです。その違和感こそが、この作品が大きな注目を集めた要因のひとつであることに、異論のある方はいないでしょう。

 なお、ここで注目すべきは、TVアニメ「けものフレンズ」には、ナレーションが入らないことでしょう。このルールは徹底されていて、次回予告のシーンすら、ペンギンたちのセリフによって構成されているほどです。このため、視聴者はすべての情報を登場人物たちのセリフを通じてしか知ることができず、「ヒトがいないのに、ヒトがいた痕跡」だけが点在するという異常事態を目撃しているにもかかわらず、その理由についての説明は、まったく聞けないままになるのてす。

 だから、わたしたちは、ただ違和感だけを抱えたまま、物語を追いかけることしかできなくなりました。そして「ここは、いったい、どういう世界なんだ?」「過去になにがあったんだ?」などの謎に包まれたまま、「けものフレンズ」の世界に引きこまれていったのです。




 このように、ぽーん、と巨大な謎を提示して、それに対する興味で視聴者を引きこんでいくというのは、いわば王道中の王道パターンでもあります。物語の冒頭で荒廃した世界を見せておいて、「過去に何があったんだ?」という謎を提示し、興味を引いていく物語も、これまでたくさん作られています。

 でも、TVアニメ「けものフレンズ」は、それらの王道パターンの作品と比較したとき、ひとつの決定的な違いがあるんですよ。

 それは、このアニメが、さまざまなメディアで並列的に作品が作られる、メディアミックス・プロジェクトの一部であることです。

 TVアニメ以外でも、他にもコミック版やアプリ版で、じゃぱりパークを舞台にした物語は作らています。しかも、そちらではパークが開園中の様子が描かれていました。つまり「じゃぱりパークは、かつてヒトがいた世界だった」という事実は、すでに公開されていたんです。

 もし、TVアニメ「けものフレンズ」がメディアミックス・プロジェクトの一部ではなく、つまりコミック版・アプリ版の「けものフレンズ」が存在しなかったとしたら? ――と仮定してみましょう。

 その場合、アニメを見た視聴者は「きっと、過去に大事件があったんだろうなぁ」と想像することはできても、「過去にこんな事件が起きたはずだ」と確定することはできなくなります。どれだけ想像を巡らせても、それは想像にすぎないからです。

 だって、真相は作者しか知らないですからね。

 極端なことをいうと、「最初から荒廃した世界をモチーフにして作ったテーマパークでの物語なんだよ」というオチが待っているかもしれないわけです。なので、どれほど興味深い謎が提示されたとしても、その真相を知るためには、視聴者たちは、指をくわえて次回の放送を待つしかなくなるんです。




 でも、TVアニメ「けものフレンズ」は違いました。

 過去のじゃぱりパークに、ヒトがいたことが確定しています。そこが楽しいテーマパークであったことは、他の作品の中で、疑いのない事実として提示されています。

 だから「ヒトがいないのに、ヒトの痕跡だけが残されている」という巨大な謎が提示されたとき、一部の視聴者たちは、ただ次回の放送を待つのではなく、面白い行動をとるようになったのですね。

 かつて描かれている世界では、このようになっていた!

 なのに、アニメ版ではこのように変化している!

 ならば、過去にこんな事件が起きていたに違いない! ――と、アニメの中で語られることのない「膨大な余白」を推理する、というアクションを起こす人が出現したのです。

 はい。こうして「考察班」と呼ばれる人たちが、次々にネット上に誕生することになったのです。




 考察班の人たちは、放送されたアニメに描かれた情報と、他の作品で描かれた情報とを照らし合わせて、物語の中に隠されていたさまざまな謎を、すこしずつ解き明かしていきました。

 それは、まるで過去の史実を記した文献を精査するかのような行為であり、歴史を紐解いていく行為だった、といえるかもしれません。

 そのようにして解き明かされた謎は、ネットを介して、すぐに拡散しました。それにより、視聴者たちは、じゃぱりパークに隠された秘密をどんどん吸収できました。だからこそ、毎週放送されるアニメが、さらに楽しいものになっていったことを、わたし、よーく覚えています。この感覚、リアルタイムで放送を見ていた人には共感してもらえると思うのですが、いかがでしょうか。

 それは同じ世界を舞台にした、しかも過去を描いた作品が存在するからこそ成立する、これまでに類型のない「視聴者参加型のムーブメント」のようなものが自然発生し、その結果として、コンテンツのそのものの人気を高めることにつながったのだ、と分析していいのかもしれません。

 そのようなムーブメントが起きたからこそ、コミック版やアプリ版を知らなかった人たち――つまり、わたしのような視聴者も、「じゃぱりパークには、こんな歴史があったのか」といった知識を蓄積できましたし、だからこそヒトがいない世界での「かばんちゃんの冒険」に深く感情移入できるようになり、この素敵な世界に対する愛おしさみたいな気持ちを感じられるようになったんだよなぁ、と、いまさながら思っている次第です。

 ほんと、そんな気持ちにしてくれる手助けをしてくれた考察班の方々には、ただただ感謝です。




 さて。

 ここで、またまた話を「ゼルダの伝説」に戻します。

 じつは、Nintendo Switch「ゼルダの伝説」で描かれる世界も、TVアニメ「けものフレンズ」と、まったく同じ構造になっています。

 ファミコンの時代から続く「ゼルダの伝説」シリーズは、ハイラル王国という同じ場所を舞台した、作品ごとにそれぞれ違う時代を描いたシリーズです。どの作品も、基本となるストーリーはぜんぶ同じ。剣士・リンクが、ガノンを倒してハイラル王国を平和にする! ぶっちゃけ、どの作品のストーリーも、そんな一文で説明できちゃうんです。

 もうすこし詳しく説明しますと、ハイラル王国は、何度も何度も最悪の根源・ガノンに襲われているという設定でありまして、ガノンが復活するたび、主人公・リンクがそれを封印する……という歴史が繰り返されている土地なんですね。だから、何作ものゲームで、同じような冒険物語が描かれることになったのです。

 そして最新作のNintendo Switch「ゼルダの伝説」なのですが、これ、それまでのすべてのシリーズ作よりも、さらに未来の時代が描かれている作品であるようなのです。

 つまり、Nintendo Switch「ゼルダの伝説」とは、同じ世界を舞台にした、さまざまな過去を描いた作品がたくさんある中での、その世界における「未来」を描いた作品だ、ということです。

 いかがでしょう?

 こうして説明すると、この設定、TVアニメ「けものフレンズ」と、まったく同じであることが、おわかりになるでしょう。




 だからこそ、熱心なゲーム愛好者ほど、Nintendo Switch「ゼルダの伝説」で描かれる世界に、夢中なってしまいました。

 そこに点在する「ヒトがいた痕跡」を見かけるたび、熱心なファンほど、どきっ、とさせられたからです。

 ああ、ここはニンテンドー64「ゼルダ」で訪れた神殿じゃないか!

 ここはスーパーファミコン「ゼルダ」で苦労した岩山じゃないか!

 ――と、過去のハイラル王国を旅した経験がある熱心なファンは、点在する「ヒトがいる痕跡」を見かけるたび、どきどきしてしまったんです。わたしたちは、そこにたくさんのヒトがいて、賑やかだった時代を知っています。だからこそ、「ヒトがいた痕跡」に出会うたび、何かが胸に迫ってくるような感覚に包まれてしまったんですね。

 そんなNintendo Switch「ゼルダの伝説」を旅していると、いま、自分は長い長い歴史の中の、ほんの一瞬を旅しているだけなんだ……といった諦観というか、淋しさみたいな気持ちすら、ふと胸に去来したりするんです。

 これは、いろいろな時代を描いた作品を持つシリーズ作の、そのもっとも未来を描いた作品だからこそ発生する、なんとも不思議な感覚を提供してくれる、そんなゲームでもあるのですよ。

 だからこそ、Nintendo Switch「ゼルダの伝説」は、全世界のゲームファンから絶賛され、シリーズ最高傑作だ! の声があがったんですね。もちろん、アクションゲームとして素晴らしい完成度であることは、言うまでもないことではありますが。




 さらに、もうひとつだけ「けものフレンズ」と「ゼルダの伝説」の類似点を挙げておきます。

 それは、どちらも同じ世界を舞台にしていて、だけど描かれる時代が違うたくさんの作品があるにもかかわらず、すべての作品で、登場人物たちの名前が同じであることです。

 たとえば「けものフレンズ」では、アニメにもコミックにもアプリにも、サーバルちゃんが登場します。どのサーバルちゃんも、その顔や、姿形、そして性格や特徴などは、ほとんど同じです。

 でも、それぞれは同一人物(同一フレンズ)ではありません。生きている時間軸が違うため、同一個体ではないのです。アニメの中でも、フレンズたちは自然と代替わりしていることが示唆されていました。

 「ゼルダの伝説」も同様です。すべてのシリーズ作の主人公は剣士・リンクであり、ヒロインはゼルダ姫です。ただ、名前こそ同じであっても、それぞれのゲームにおけるリンクは、同一人物ではありません。シリーズ作によって生きている時代が違うのですから、完全に別人なんです。

 「けものフレンズ」も「ゼルダの伝説」も、まったく同じ世界を舞台にした、まったく同じ名前のキャラクターたちが登場する物語が用意されているのに、作品によって描かれている時代がズレているため、それぞれのキャラは別人だ――という設定のもとに作られた、なんとも不思議な作品群なのですね。




 さてさて。

 このように、いろいろな類似点のある「けものフレンズ」と「ゼルダの伝説」が、同じ2017年に登場し、かたや日本中で大ブームを起こし、かたや世界中のゲームファンを熱狂させたというのは、なんとも興味深いことだなぁ、と、わたしは思っています。

 これは、ただの偶然なんでしょうか?

 いやまあ、きっと、ただの偶然なんですけど、そう言ってしまうと話が終わってしまうので、ここは無理やりに理屈をつけて、話を進めたいと思います。

 というわけで、強引に結論だけを書くことにしましょう。

 「けものフレンズ」と「ゼルダの伝説」は、ともにプロが作った二次創作作品のようなものなんじゃないかなぁ? それこそが、この両作品の最大の共通点であり、同じ時代に大ヒットした理由なんじゃないかなぁ?

 ――と、わたしは思っているのですが、いかがでしょう?




 もちろん、TVアニメ「けものフレンズ」は公式プロジェクトとして作られた作品ですし、Nintendo Switch「ゼルダの伝説」も、長年にわたって任天堂の同じ部署が作り続けてきたゲームの最新作ですし、どちらも二次創作作品と呼ぶべきじゃないことは、承知しています。

 でも、作り手の立場になって考えてみましょう。

 TVアニメ「けものフレンズ」は、ゼロから作り上げた完全オリジナル作品ではありません。舞台となるじゃぱりパークの設定や、そこに登場するキャラクター(フレンズたち)は、原作者の手によって、すべてきっちりと設定されています。勝手に変えることはできません。

 Nintendo Switch「ゼルダの伝説」も同様です。延々と同じ部署で作り続けてきたシリーズの最新作ではあるのですが、シリーズを重ねるうちに開発スタッフは入れ替わっていて、このシリーズの当初の作者(チームのリーダー)として知られる宮本茂さんも、この最新作では、ほとんど開発に関わっていないようなのですね。

 つまり、どちらの作品も、もともとの原作者が作った作品ではないわけですよ。

 そして、世界設定や登場キャラクターは変えちゃダメだよ! という制約の中で、いかにして独自の物語を組み立てるか? という創作作業の結果として生み出された作品なのです。

 唯一、キャラクターの名前は同じであっても別人だという設定で問題ないよん! だから好き勝手に動かしちゃっていいよん! という自由度だけが与えられているという条件下での創作作業の結果、生まれた作品なのです。

 いかがでしょう? これって、二次創作作品を作るときのアプローチと、すっごく似てると思うんですよね。




 このように、二次創作的なアプローチで作られた作品は、本来、大衆的なヒットをしないものです。

 だって、そもそも原作を知らない人は、二次創作作品に興味を抱くはずがないからです。二次創作作品というのは、熱心な原作ファンに向けた、いわばニッチなところを狙うビジネスともいえます。

 でも、たぶん時代は変わったんですよね。

 初音ミクを例に出すまでもなく、いまは二次創作文化が花盛りの時代です。これはネット上に山ほど情報があふれている時代だからこその現象なのでしょう。とりあえず興味を抱いて、その作品に原作があることを知ったとき、すぐにネットを介してそれらの情報にアクセスできるようなったことが、その要因なのでしょう。

 だから「けものフレンズ」ように、「この世界の謎を知りたければ、それは他の作品で描かれているから、そっちを見てね」とばかりに、なにひとつ謎を説明しないまま物語を語るような作品が、堂々と作れるようになったし、それが大衆に受け入れられるようになったんじゃないかな、と、わたしは思うのです。




 もし、長年アニメを作り続けてきた人がTVアニメ「けものフレンズ」を作ったならば、きっと「この世界には、過去にこういう事件が起きていて~」と、謎を説明するパート挿入したと思うんですよ。

 作品の中で、すべての情報を提示してあげるのが、いわば王道の物語作法ですからね。

 でも「けものフレンズ」制作陣は、それをしませんでした。謎を謎のまま放り出し、まったく説明しませんでした。それらは視聴者が自発的に解決してくれるはずだ――とばかりに、ボールを視聴者の側に投げっぱなしにしたのです。視聴者のことを信頼していた、といっていいのかもしれません。

 これ、二次創作文化が花盛りの時代だからこその、なんとも凄い割り切りといっていいでしょう。いまの時代だから成立する手法です。




 そんな手法がとれたのは、TVアニメ「けものフレンズ」が、もともとMMD(CGアニメ作成ソフト。ニコニコ動画のアニメ制作のスタンダードソフトでもある)を手にして、そこから本格的なアニメ制作に乗り込んできた人たちが作った作品だからなのかもしれません。

 ニコニコ動画では、面白い作品さえ作れば、そこに人々は群がってきます。そして群がってきた人たちが言葉を発して、その言葉によっていろいろな謎が解き明かされていきます。そして作品そのものに、新しい魅力が付加されていくのです。

 そんな二次創作文化を肌で知っている人たちだからこそ、なにひとつ謎を説明しないまま物語だけを語っていく「けものフレンズ」を、堂々と作れたのではないか、と、そう思えてなりません。

 ようするに、そんなニコニコ動画のような二次創作文化を、「TV放送+SNSでの情報発信」という、より大規模な形で成立させてしまったのが、「けものフレンズ」という作品なのかなぁ、と、そう分析してもいいような気がするのですよ。

 とすると、この二次創作のようなアプローチで作られた作品が大ヒットしたのは、SNSが全国民的に普及したタイミングでなければ成立しなかった、いわば奇跡のような出来事だったといえるのかもしれませんね。




 というわけで。

 2017年という年は、ちょうどSNSが全世界的に普及するようになっていて、だからこそ、そんな奇跡が起きるためのドンピシャのタイミングだったのだろうなぁ……と、わたしは思うのです。

 だから、二次創作的なアプローチで作られた「けものフレンズ」や「ゼルダの伝説」は、同じタイミングでヒットすることになったんじゃないかなぁと。

 とまあ、なんとも無難な結論になってしまいましたが、なにはともあれ、「けものフレンズ」に興味のある方は、ぜひ「ゼルダの伝説」をプレイしてほしいですし、「ゼルダの伝説」に夢中になった人は「けものフレンズ」を観てほしいなぁ……と、そんな言葉とともに、この文を締めくくりたいと思います。長文を読んでいただき、ありがとうございました。


(おしまい)


 

 
 


 

 ここからは余談です。

 本文内で書こうと思ったものの、理屈っぽくなるので推敲時に削除した文面を、ここから余談として書くことにします。

 「テセウスの舟」について話です。

 古典的な哲学の話であり、有名なパラドックスです。長い航海を経て戻ってきた舟が、その途中ですべての部品が交換されていたとするならば、その船は、はたして出港のときと同じ舟と言っていいのだろうか? すべての部品が入れ替わっているなら、それはもはや別の舟ではないのか? という問いかけに、どう答えるのが正しいのだろう? という設問ですね。

 延々とその舟で働いてきたの乗組員たちは、「どれだけ部品が交換されようが、オレたちはずっと同じ舟に乗り続けてきたんだ。いまの舟こそが、出港時の舟と同じと考えるべきだ!」と主張するでしょう。

 でも、たとえば交換されて捨てられた古い部品を、ひとつずつ組み合わせ、あらためて舟を組み立てたならば、そうして作った舟こそが、最初に作った舟と同一と考えるべきではないのか? という考え方にも一理あるわけです。その航海に出たことを記念し、学術的な意味からも舟を博物館に保存するとしたら、さて、どちらの舟を保存すべきなのか? そんなことを考えていくと、なかなか難しい問題になるわけですよ。



 この設問を、ゲームの製作現場に置き換えてみます。

 シリーズを重ねるごとに、少しずつ開発スタッフが入れ替わっていって、スタッフがすべて入れ替わってしまったのならば、いまの開発チームが作ったゲームは、シリーズの正統的な続編なのだろうか? という疑問がわくことになるはずなのです。

 正当な続編に決まってるじゃん! 疑問なんかひとつもわかないよ! という感覚になるのが普通であることは承知しています。わたしもそう思います。でも、そこで疑問がわかないのは、わたしたちが「そのゲームがシリーズ化され、ずっと愛され続けるという長い航海に、プレイヤーという名の乗組員として参加してきた」からなんですよね。

 たとえば、わたしたちはまったく知らないけれど、どこかの国で細々と書き継がれている小説があったとしましょう。1作目の作者はお亡くなりになっていて、でも別の作家が続編の執筆を引き受けたものの、その方も亡くなって……ということをくり返し、今は初代とは縁もゆかりもない5代目の作者が書いている小説があったとして、しかも時代に合わせて次回作は小説ではなくyoutubeに新作動画として発表することにしたよ――と発言したならば、その動画は、はたして正当なシリーズ続編と呼んでいいのでしょうか? なんとなく、正当な続編と呼ぶべきではないような気もします。

 でも、初代の作者が存命で、延々とシリーズ作を書き続けてきて、その作者が「シリーズの次回作は動画の形にする」と発言したならば、どうでしょう? そちらは、いろいろと異論はあるものの、でも正当な続編と呼ぶしかないような気もします。

 結論を言うと、そのシリーズを愛してきたファンの方の大多数が「これは正当なシリーズ続編だ」と思えるのなら、どんな形の作品であれ、正当な続編ななのだろろうな、という、無難な結論を出すしかないのかもしれません。




 ゲーム制作現場は、ファミコン時代にシリーズを立ち上げた初期スタッフが、そろそろ引退する年齢にさしかかっています。シリーズは続いていても、「テセウスの舟」の状態になっているのです。

 昔からシリーズ作をプレイしてきた「長年のファンという名の乗組員」もいれば、もちろん最近になってかの新規ファンもいるわけですから、今後のシリーズ存続のため、どのように舵をとるのか、なかなか難しい決断が迫られることになるのでしょう。

 ひとつの正解として、「過去のシリーズ作を原作とみなし、その二次創作をする」かのようなアブローチをとる開発チームが、しばらく増えることになるのかな? という予感がします。「ゼルダの伝説」は、それをいち早く実行しましたし、今年の夏に発売される「ドラゴンクエスト」の最新作も、ファミコン初期のシリーズ原点に戻るかのように、勇者をめぐる物語になることが、すでに発表されています。

 でも、この手法は、何度も何度も続けられる方法ではないような気がします。

 どこかで大きく方向転換しなくちゃいけないでしょうし、そのときが本当の勝負になるのだろうなぁ。大変だなぁ。でもがんばってくださいね! ――と、心から応援したいと思っている昨今です。

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野安ゆきお

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