野安の電子遊戯工房 ~「ゼルダの伝説BOTW」が仕掛けた、成功者バイアスの無効化(前編)~


 定期的に「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」について語りたくなります。

 ゲームの好みは人によって違うので、このゲームを平凡な出来栄えだと思う方がいるのは当然のことですが、個人的な意見を言わせてもらえるならば、これは歴史上すべてのゲームの中のオールタイムベストとして選出すべきかを考慮しなければならないほどの傑作であると確信しています。全世界的な評価も抜群に高いことからも、わたしと同様、これを最高傑作のひとつであると判断している方は多いのでしょう。

 にもかかわらず、「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」の革新性を語ろうとした文章は、さほど多くないように感じます。このゲームに込められた革新性があまりに多岐にわたるためなのかもしれません。それらをひとつひとつ書き記していくと、分厚い一冊の本が書きあがることになるでしょうし、そうやって本を記したとしても、開発者の方々からすると「込めたアイディアの10%くらいは解明されちゃったかな」ていどにして思ってもらえないはずです。そのくらい、このゲームに込められたアイディアの量は尋常ではなく、深く考察すればするほど、おいそれと語れないことに気付かされるのです。

 それでも、ゲーム業界の片隅で、文章を書くことでゲーム産業に関わっている者として、ほんの少しずつでもいいから、その革新性について語っていこうと思っております。それは巨大なピラミッドを支える一片の石塊についてのみ解説するような行為であり、焼け石に水とでも呼ぶべきものなのかもしれませんが、一歩ずつ、ドン・キホーテのような無謀さで、巨大な風車に立ち向かってみようと思っているのです。

 そこで今回は、「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」が、いかにして成功者バイアスを無効化しているか――というテーマに絞って、ちょっとだけ語ってみようと思います。




 これを語るための前準備として、まずは時代を30年ほど遡ってみます。

 1980年代後半。テレビゲームに、ひとつの革新的な発明がもたらされました。ロールプレイングゲームのような、物語を追っていくタイプのゲームにおいて、ちょっとした発明があったのです。

 いまとなっては、ごく当たり前の技法ではあるのですが、この時代から「自宅のベッドにいるシーンから物語を語り始める」というオープニングが一般化していくのです。大作ゲームとしては、1988年発売の「ドラゴンクエスト3 そして伝説へ」が有名ですね。これは1991年の「ゼルダの伝説 神々のトライフォース」、そして1996年発売の「ポケットモンスター」へと、大衆向けゲームのオープニングでも受け継がれ、ひとつのフォーマットとして定着していきます。

 それまでのゲームは、唐突にゲーム世界に放り込まれたところから物語が始まるのが通例でした。「スペースインベーダー」は、いきなり敵と戦うシーンから始まりますし、「パックマン」は迷路の中にいるところから始まります。「スーパーマリオブラザース」は城の前に立っているところから始まりますし、「ドラゴンクエスト」は王様の前に立っているシーンから始まります。自分は誰なのか? どうしてそこにいるのか? それらの説明がないまま、プレイヤーはいきなり物語の中に放り込まれるのです。

 いま、ネット上にある膨大なテキストの中から、わざわざこのコラムを読みにきている貴方にとって、それは違和感のないオープニングだと感じるかもしれません。むしろ逆に、無駄な説明がないまま、すぐにゲームが始められるのだから、優れたオープニングだと感じるかもしれません。

 でも、それは「成功者バイアス」であり、じつのところ、ゲーム産業の発展をせきとめてしまう要因のひとつでもあるのです。




 成功者バイアスというのは、たとえば100歳の元気な高齢者が、いまなおぷかぷかと煙草をくゆらせながら、「わしの健康の秘訣は、こうして煙草を吸うことさ」と語るような状況を指します。たしかに100歳を過ぎても煙草を嗜みながら健康なのだから、いまとは違って昔の人は頑健であり、煙草を吸ってもさほど健康に影響がないのかもしれないなぁ、という結論を出しそうになってしまいます。

 しかし、冷静に考えてみれば、その高齢者は煙草を吸っていたから健康になったわけではなく、頑健で健康な肉体を持っていたから煙草を吸っても長生きできただけのことです。他の平均的な肉体の持ち主は、喫煙したことにより寿命を縮め、すでに亡くなっているのです。しかし死んでしまった人の話を聞くことはできませんから、いざ生き残っている人の話だけを聞くと、昔の人は煙草わ吸っても健康に大きな害がないのかも、といった間違った結論が出てしまいそうになるわけですね。

 これは、テレビゲームも同じです。

 「いきなりゲーム世界に放り込まれる」というオープニングを、とくに問題ないと感じてしまっているのは、貴方がそのようなゲームをごく自然に楽しめてしまう才能の持ち主だったからなんです。世の中のすべての人が、貴方と同じ才能を持っているわけではなく、「いきなりゲーム世界に放り込まれる」というオープニングに遭遇して、そこで何をすればいいのかわからず、どうやって楽しめばいいのかわからず、ゆえにゲームに没頭することなく投げ出してしまった人も、たくさんいるのです。

 そのようにしてゲームから去ってしまった人の話を聞かず、いまゲームを楽しめている人にだけ話を聞くと、「いきなりゲーム世界に放り込まれる」というオープニングに問題がないように錯覚してしまうのですが、これは間違った結論なんですね。

 テレビゲームが大衆的な娯楽として普及させるためには、より多くの人をゲームの愛好者になってもらう必要があります。ゲームを投げ出してしまった人を、ちゃんと引き込む必要があるのです。「いきなりゲーム世界に放り込まれる」というオープニングには、改善の必要があるのですね。

 だからこそ「ドラゴンクエスト3 そして伝説へ」「ゼルダの伝説 神々のトライフォース」「ポケットモンスター」といった、幅広い年齢層のユーザーを獲得した大衆的ヒット作は、のきなみ「自宅のベッドにいるシーンから物語を語り始める」というオープニングを採用することになったのですね。いきなりゲーム世界に話売り込むのではなく、ゆっくりと手順を踏みながら、プレイヤーをゲーム世界へと誘導していくための、それはきわめて優れたフォーマットだったのです。




 それは、幼児向けの絵本の多くが、どれも同じ定型句から始まっていることと、ある種の共通点を持っていると説明することも可能でしょう。

「むかしむかし、あるところに~」

 子供向けの昔話や童話は、そんな定型句から始まります。これは日本の本だけの特徴ではなく、全世界的に同じです。英語の童話も、その多くは「Once upon a time~」といった定型句から物語が始まります。

「~おじいさんとおばあさんが暮らしていました。いつものように、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に~」

 冒頭の定型句の後、たいていは、このように物語は続いていくことになるのですが、よくよく読んでみると、ここまでの一連は文章は、きわめて合理的であり完璧な文章なんですね。優れた文章を書くためのチェック法として「5W1H」というものがありますが、それを当てはめてみると、この文章の完璧さがわかります。


 いつ(When)・・・むかしむかし

 どこで(Where)・・・あるところ

 だれが(Who)・・・おじいさんとおばあさんが

 なにを(What)・・・柴刈りと洗濯

 なぜ(why)・・・(たぶん、それが日課)

 どのように(how)・・・いつものように


 音読にすると10秒ていどの文章の中に、「5W1H」が過不足なく含まれていることがわかります。完璧です。長年にわたって採用されてきたの文章というのは、やはり凄いなぁと脱帽せざるを得ません。

 もし、このような定型句がないまま、

「どんぶらこ、どんぶらこと、川上から桃が流れてきました」

 といった描写から物語がスタートするような急転直下型の「桃太郎」があったとしたら、きっと子供たちは大パニックになるでしょう。これが現代の話なのか過去の話なのか、どこで起きた話なのか、流れてきた桃をみつけたのは誰なのか、その人はどうして川にいたのか、この文章はなにひとつ説明してくれません。子供というのは、ちょっとした疑問があるだけで、「なんで?」「どうして?」と質問をぶつけてくるものですから、この絵本を読み聞かせ始めた途端、次々に質問が浴びせられ、物語を読み聞かせるのが困難になること間違いなしです。

 そのようなパニックを起こさないためには、まずは世界の説明が必要となるのです。そのためにも、「5W1H」を完璧に説明する「むかしむかし、あるところに~」という定型文から物語を始めるのは、きわめて正しいフォーマットであることがわかるのです。





 テレビゲームも、まったく同じです。

 いきなり「桃が流れてきた」というシーンから物語を始めるとパニックを起こしてしまう子供たちがいるように、いきなりゲーム世界の中にプレイヤーを放り込んでしまうと、何をしていいかわからず、困惑する人が出てきてしまうのですね。

 これを避けるためにも、このゲームで描かれるのは、このような世界だよ。こんな主人公がいるよ。こんなことができるよ。――と、ひとつひとつ手順を踏んで、次にやるべきことを教えていくというオープニングが採用されるようになっていったのです。それに適したフォーマットを探していくうちに、自然と「自分の部屋のベッドの上から物語を始める」という形に辿り着き、多くの大衆向けゲームで採用されるようになったのです。

 こうしてプレイヤーがなにもできない状態からゲームをスタートし、まずは目覚め、移動し、それからボタンを押し、すると色々なことが起きるんだよ――という手順を踏むことで、ゲームになじんでもらうようにしていったのですね。

 こうして、およそ30年前に、テレビゲームは、それまでゲームをを投げ出してしまっていた人たちをゲームの世界に引き込むための、さまざまなノウハウを積み重ねていく歴史をスタートさせます。ゲームがマニアのためのものではなく、誰もが楽しめる大衆的な娯楽として歩みだすためのスタート地点は、この時代にあったのだと、わたしは思っています。




 さて。ようやく「ゼルダ」の話に入ります。

 「ゼルダの伝説」シリーズは、30年維持用の歴史を持ち、なおかつ世界的に愛され続けているという稀有なゲームであり、こういったオープニングのフォーマットの進化の歴史を知るための、きわめて優れた文献のようなものだと考えていいでしょう。

 これはアクションゲームです。かなり複雑な操作を要求する、マニアを唸らせるゲームでもあります。にもかかわらず、大衆的ヒット作であり続けているのは、つねにゲームに慣れていない初心者をゲーム世界に彦き込むためのノウハウを惜しみなく投入してきたからに、ほかなりません。

 そのため、「ゼルダ」は、複雑な操作方法をひとつずつプレイヤーに教えていく、いわばチュートリアルと呼ぶべきパートに心血を注ぐようになっていきます。ひとつひとつのボタンの意味を教え、たくさんの武器の使い方にいたるまで、丁寧に教えていくというゲームの作り方をしていくのです。だからこそ「ゼルダ」は何10年にもわたってヒットゲームであり続けたのですが、この作り方は、じつは諸刃の剣でもあったのです。

 基本操作を覚えるための、いわばチュートリアルと呼ぶべきパートは、シリーズを重ねるたびに増えていき、膨大になっていきました。個人的な感想を述べますと、「トワイライトプリンセス 」「スカイウォードソード」あたりから、なかなか本編がスタートしないかのような気分になり、ちょっとイライラした記憶が残っております。

 はじめてゲームをプレイするような人でも投げ出さないよう、手順を踏みながらゲームになじんでもらうための配慮に心血を注いだ「ゼルダ」シリーズは、シリーズをプレイし続けているマニアにとって、いまさらこんな説明は不要だよ! と感じさせてしまう、そんなシリーズへの道を進むことになってしまったのですね。




 すでに、ゲーム人口は膨大な人数になっています。日本だけでも2000~3000万人ほどと推定されていて、世界的には数億人のゲーム人口が存在すると言われています。

 となれば、初心者を無視してしまうというのも、ひとつの選択としてアリなのです。初心者をゲームに引き込むためのゲームは別に作るから、こちらのゲームは上級者向けにチューンナップしちゃったよ! といったゲームを作ったところで、世の中に怒る人はいないでしょう。

 いま、世の中にあるアクションゲームの多くは、そういったスタンスで作られています。初心者のために必要なチュートリアルのパートをあるていど削り、ゲームに慣れている人を引き込むように設計しているのです。これは運転に慣れた人のためのスポーツカーなのだから、若葉マークの人は買わないでね! というスタンスをとるようなものかもしれません。

 しかし任天堂の看板タイトルである「ゼルダ」には、そういった道は許されません。ゲーム初心者も引き込む丁寧さを維持したまま、すれっからしのマニアを唸らせ、もちろんイライラさせることなく楽しませなければならない、という高いハードルがあるのです。ここまでゲームが複雑化・高度化した現在、その両立は、そろそろ不可能であるかのように思えるほどです。

 しかし任天堂は、そんな不可能と思えるチャレンジを、多くの人が予期していなかった方法で実現してしまいます。

 それこそが、「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」というゲームに秘められた最大の革新性であり、このゲームが熱狂的に愛された最大の理由のひとつなんだろうな――と、わたしは思っています。

 それは、どんな革新性なのか?

 といったところで、やっと「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」についての具体的な話ができるところまで論が進んできましたが、いくらなんでも長くなりすぎたので、いったんここで切ることにしましょう。続きは明日書きます。しばしお待ちを。

後編はこちらです

(2018/07/30)

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