日本人がネットで本名を名乗らない理由

わたしは、いずれ「ネット上に、新しい宗教が生まれる」だろうと思っています。まあ「宗教」と言い切ってしまうと、たぶん、いろいろと誤解を招くのでしょうけれど。

というのも、いまのネット空間でのルールやマナーは、「キリスト教文化圏の価値観」に沿ってるんですよね。これはアメリカやカナダ、欧州などの先進国の人たちの参加人数が多いために起きている現象。それらの国々の価値観が浸透して、ワールドスタンダードになっている。

でも、そんな時代は、いつか必ず終わります。ネット上のルールやマナーは変化するんです。北米や欧州などの先進国は、すでにネットに接続している人が多く、でもネット人口が増え続けているんだから、全ネット人口におけるキリスト教徒の比率は、これからは下がっていくってことだもん。

キリスト教徒は、すべての宗教の中で最大人口を誇りますが、それでも22億人ほどで、全人口の30%くらいです。リアル社会では、それらの国々に「資本が偏っている」から発言力があるけど、ネットのような「誰もが発言できる」空間では、資本力というアドバンテージは小さくなる。

たとえば、ネット上にイスラム教徒(15億人)がこぞって参加してきたら、その空間でのルールやマナーは、いつまでも「キリスト教文化圏の価値観」に準拠したものであり続けるでしょうか? という話です。

となれば、「ひとつの宗教に沿って作られたルールやマナーが、ワールドスタンダードであり続ける」ことはないのだろうな……と、わたしは考えます。そこには「ネット上には、どの宗教にも偏っていない新しいルールやマナー、そして新しい価値観」が生まれ、共有されるようになるはず。

つまり、そこには「新しい宗教」が誕生するんじゃないかなぁと想像している次第です。それは宗教と呼ばれる形をとらないかもしれないけれど、誰もが「まあ、この価値観に従おうや」と納得するようなモノが登場し、それが共有されていくのだろうと予想しているのです。


さて、ここから話は変わります。今回の文章の本当のテーマは、「ネット上での名前とは何か?」ということです。

日本のネット空間を非難する言説のひとつに、「みんな名前を名乗らない! これは無責任だ」というものがあります。たとえばSNS上で、日本人は本名を名乗らない比率がめちゃくちゃ高く、自分の顔写真も載せない人が多い。その事実を指して、無責任だ、と非難の声をあげる人がいます。

でも、こういうことを言っている人は、鼻で笑ってしまっていい。だって、「本名を名乗らないこと」と「責任感の有無」は、基本的には無関係ですからね。そこに因果関係はない。

ためしに、諸外国の人に「日本人は責任感があるほうだと思いますか?」と聞いてみればいい。答は絶対にYESですよ。きっちりと約束を守ることが、いま世界中の人が知っている、一般的な日本人の姿ですもん。(まあ例外もいますけどね)。

名前を名乗ろうが名乗るまいが、責任感ある人もいれば、無責任な人もいるんです。そして日本人は、「名乗らない傾向が強いけど、責任感が強い(と世界に評価されている)」ってこと。名前を名乗らないから日本人は無責任だ、と言われても、あんた、なに言ってんの? という話です。


だから、「日本人は、ネット上で名前を名乗らない! これは無責任だ」と言われたら、まず考えるべきことは、どうして「名前を名乗らないのは、無責任だ」という結論が出てくるのか? ということなんですよね。

そうすれば、これがキリスト教の価値観だあることが、わかってきます。キリスト教においては、名前というのは「神が創りたもうた世界の中で、自分の存在を示すもの」ですからね。いわばIDカードみたいなもの。だからキリスト教の人にとって「名乗らないことは、無責任」に見えるんです。

聖書の冒頭を読んでみましょう。創世記の第一章です。「光あれ」と神様が言ったから、そこに光が生まれました。神は光を「昼」と名付け、闇を「夜」と名付けました。こうして、世界のあらゆるものに「名前をつける」ことが、神様が最初に行った行為です。

つまり、この世界はすべて「神様が創ったもの」であり、「神様が名付けたもの」である。……というのがキリスト教文化における世界観なんですね。おおざっぱに言うと、すべてのものと、すべての名前が、「神様という巨大サーバ」に一元管理されている、みたいに考えるといいのかな。

わたしたちは、「名前」というのものを、つまりは呼び名だと考える。人との関係性(あるいは世間との関係性)において意味のあるもの、と考えるわけです。でもキリスト教では、「名前」というのは、世界(それを創った神様)との関係性において意味のあるもの、と考えるんですよ。


だからキリスト教において、「名前」というのは、神様が創ったこの世界の中で、自分が自分であることを示すためのID(アイデンティティー)みたいなものなんです。前述したように、すべての名前は神様に一元管理されているから、名前こそが「世界の中での自分の存在証明」になるんです。

ちなみに、アイデンティティという言葉の語源は、ラテン語のidemで、これは「神との一体化」みたいな文脈で使われる言葉だったりもするんですよね。この言葉を日本語で説明するのが難しいのは、そのためです。日本語の中には、うまく置き換えられる言葉がないのです。

すべてのキリスト教徒が「神の天地創造を信じてる」わけじゃないし、信じてる人は少数派です。でも、そのような考えのもとに西洋の文化は生まれ、いまなお昔ながらの価値観は脈々と受け継がれている。「名前というものを、どのように認識するか」の根っこは、あまり変化していない。

だから契約書を結ぶとき、キリスト教文化圏では「署名」するんだよね。あれは「名前を記すことで、神のもとに、契約を守ることを誓う」という意味。自分が自分であることを神との関係性の上での照明された証である「名前」を書くことが、契約を順守する覚悟がある、という証明になるわけ。

アジア諸国などの非キリスト教文化圏では、契約には印を使うことが多い。「偽造されにくい」というセキュリティー面を考えれば、印を使ったほうが安全だからね。でもキリスト教文化圏では印を使わない。それだと神の前で約束したことにならないからです。

だから、「ネット上で名乗らないのは、無責任だ」と欧米の人たちが口にするのは、そういった宗教的価値観を、自分たちだけが持つ独特のものではなく、「すべての文化圏に通用するスタンダードな考え方だ」と信じているからなんだよね。まるで引け目を感じる必要はないのです。


ネットにおける「匿名」と「実名」を考えるときは、それぞれの文化について考えないといけないのです。よーするに「そもそも、名前とは何か?」という話ですからね。

日本人にとって、名前というのは「どう呼ばれるか」というレッテルみたいなものです。だから「名前を変える」ことに対して、とくに背徳感を持ちません。成長とともに名前を変えていくのは、日本以外のアジア諸国でも、よく見られる光景です。

たとえば、木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉とかね。同じ人物が、どんどん名前を変えていくけど、「名前を変えるなんて、無責任だ」と感じる人はいないわけですよ。いまでも落語家とか、歌舞伎役者とか、力士とか、昔ながらの職業では、どんどん名前を変えていきますよね。

また、日本では、行為によっても名前を使い分けます。とくにコンテンツを発信するときがそう。いわゆる雅号ってやつね。いちばんわかりやすいのが、俳句を詠むときに名乗る「俳号」でしょうか。何かを発信するとき、こうしたペンネームを名乗るのは、昔ながらの日本の文化のひとつ。

だから日本人は、たとえばツイッター上でも「そのための名前」を名乗ったりするわけです。それが「悪いこと」だとか、「変なこと」だとかいう意識を、わたしたちは。まったく持ってない。自分たちの文化に沿って、ごくふつうに行動しているだけのこと。

なのに、「本名を名乗らないのは責任感がない」とか言われても困るわけですよ。それじゃあ夏目漱石の「漱石」も、森鴎外の「鴎外」も、勝海舟の「海舟」も雅号だけど、彼らがその名前で発信した意見などは、すべて無責任なのか? という話ですもん。


いま、ネットが世界的に普及したことによって、このように「宗教的あるいは文化的な価値観」が、ちょくちょく激突し始めている。ネット上の名前表記ひとつを見るだけで、そんな時代であることがわかります。では、これがどんな事態を引き起こしているのか? それは後編に続きます。


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