「君の名は。」は、ボーイ・ミーツ・ガールな創世神話だった――という話
そうか! これは「創世神話」だったんだ!
映画「君の名は。」を公開2日目に見たときから、これは素晴らしい映画だ! ……と感動したものの、どうして自分がそう感じたのか、じつのところ、その理由がわからないままでした。
でも最近になって、やっと、その素晴らしさの理由がわかりましたよ。この映画が「創世神話」だったからなんですよ!
え? 創世神話? なにそれ? なんか難しいこと言ってるなぁ……と感じた方もいるかもしれません。
でも、みなさんも、これまでたくさんの「創世神話になぞらえたラブストーリー」を見てきているはずです。いちばん多いのが、恋人たちをアダムとイブになぞらえたパターン。つまり「旧約聖書」における創世神話と二重写しになっているラブトーリーです。
恋をして、好きな人と結ばれ、その瞬間から、世界が「これまでとは、まるで違ったものに見える」という物語を、神様が「ゼロから世界を作り出した」という物語と重ね合わせる――という手法で作られた作品です。ある意味、よくあるベタなパターンのひとつといえるでしょう。
映画「君の名は。」も、そのパターンの物語だったんです。
ただし、ハリウッド映画によくある「旧約聖書の創世神話と重ね合わせる」というものとは、ちょっと違います。ベースとなっているのが「旧約聖書」じゃないんです。主人公たちがなぞらえられている男女も、アダムとイブじゃありません。
では、何がベースになっているのか?
「古事記」や「日本書紀」です。
そう。この映画で二重写しになっているのは、日本における創世神話――国生みの物語だったんですよ! つまり、瀧くんと三葉は、アダムとイブじゃなく、イザナギとイザナミだったんです。
という解釈に、自力で到達したわけじゃないことを、ここで正直に告白しておきましょう。
わたしの目を見開かせてくれたのは
『君の名は。』量子論や神話で見えてきた隠された意味とは?哲学研究者にきいてみた(http://world-fusigi.net/archives/8612162.html)
に書かれていた文章です。これ、「君の名は。」に関する論考としては、他より頭3つくらい抜けている秀逸さなので、興味のある方は、ぜひ読んでください。かなりの長文ですが、時間のない方も、最終章の「二人はイザナギとイザナミだった?ラストシーンは日本神話「スサノオ」ゆかりの神社」だけでも目を通してほしいなぁ。
これを読んで、わたし、いろいろな謎が解けました。
そこで、リンク先に書かれている内容と重なるところもありますが、わたしの解釈を、ここから書き綴っていきたいと思います。
第一章・瀧くんと三葉、イザナギとイザナミ
イザナギとイザナミ。
と言われても、あまり知らない人もいるでしょう。このふたりは神様です。イザナギが男子で、イザナミが女子。このふたりが出会い、結ばれて、イザナミがたくさんの島を産み落とします。こうして日本という国が生まれるのです。
これが、日本の創世神話――国生みの物語です。
ただし、最初に結ばれようとするとき、このふたり、ちょっとだけ失敗をしてしまいます。イザナミ(女子)から声をかけてしまったんです。その結果、生まれた子供は失敗作となりました。つまり世界は生まれなかったのです。
なので二度目、今度はイザナギ(男子)から声をかけます。すると無事に子供が生まれるようになり、これを機に、ついに世界は生まれるのです。
映画「君の名は。」は、このエピソードを忠実になぞっています。
最初に「会いたい」と思うのは三葉です。「瀧くんに会いたい」と東京に行きます。そして電車で瀧くんを見かけて「女子のほうから声をかける」のですが、これは失敗します。世界は変わらないんです。恋は始まらないし、彗星の欠片が落ちてくるという運命も変えることはできません。
だけど、次は瀧くんが「三葉に会いたい」と思い、飛騨まで行きます。そして宮水神社の御神体のある山で、ついにふたりは出会います。このシーン、先に声をかけるのは瀧くんです。国生みの物語と同様、ちゃんと「男子のほうから、声をかける」のです。
すると、この瞬間、世界が生まれるんです!
ふたりは、ついに気持ちが通じ合います。互いに「忘れちゃいけない人」だと思うようになるのです。ふたりにとって、新しい世界が始まるのです。
そして、SF的にいうならば「彗星の欠片が落ちてきて、糸守町が全滅してしまうという世界」が終わり、「みんなが避難して、みんなが救われる」という、新しい世界(パラレルワールド)が誕生するんですね。
イザナギとイザナミが出会い、男子のほうから声をかけたことによって、世界が誕生した――という物語を、「君の名は。」は、驚くくらい忠実に踏襲しているのです。
なお、イザナギとイザナミは結ばれるまでには、ある決められた手順が定められています。
このふたり、まだ陸も海もない混沌とした世界にある、唯一の島(オノゴロジマ)に天の御柱(てんのみはしら)を建て、その周囲を「イザナギは左回りに、イザナミは右回りに」進み、出会ったところで結ばれるんですね。
「君の名は。」は、この手順も、ちゃんと踏襲しています。
山の上で、ふたりが出会うシーン。宮水神社の御神体から見て、瀧くんが左回りに、三葉が右回りに走っていたはずです。そしてふたりが重なった瞬間、「かたわれどき」が訪れる。そしてふたりは出会い、新しい世界が始まるのです。
そして、ラストシーン。
大人になったふたりは、ついに東京で出会います。
階段で出会ったとき、いったん三葉は声をかけようとしますが、そこで言葉を飲み込みます。名前も、顔も、彗星が落ちた日の記憶まですべてを失っているのに、「女子から声をかけてはいけない」ことだけは、心のどこかでおぼえていたのでしょう。
瀧くんも同様です。すべてを忘れているのに、「男子から声をかけなくてはいけない」ことだけは、心のどこかで覚えていた。だから、あのシーン、瀧くんから声をかけるんですね。
こうして、瀧くんから声をかけた瞬間、また新しい世界が始まります。結ばれるべき「自分のかたわれ」と歩む日々が始まるのです。
そして、この瞬間、踏襲すべき儀式は終わります。もう新しい世界は誕生しました。だから、ふたりは、声を揃えて聞くことができるのです。「君の名は?」――と。
第二章・ティアマト彗星とスサノオ
このラストシーンで、ふたりが出会った場所にも意味があります。
あそこは、東京の四ツ谷にある須賀神社の前の階段です。イザナギの子であるスサノオを祀った神社です。じつは、このスサノオという神にも、この映画のストーリーに関わる、大きな意味が隠されています。
映画「君の名は。」は、イザナギとイザナミによる国生みの物語の二重写しである――と、ここまで書いてきました。
だけど、それだけじゃないんです。もうひとつの物語が、ここには重ねられています。それは、ラストシーンでふたりが出会った場所――須賀神社に祀られているスサノオの物語です。
スサノオ。
と言われても、やはり知らない方も多いでしょう。イザナギの子であり、もちろん神様のひとりです。もっとも有名なエピソードは、大蛇であるヤマタノオロチを退治したことでしょう。
映画「君の名は。」は、このエピソードも、きっちりと踏襲しいます。
――え? でも、この映画に大蛇なんか出てこないよ? と思った方もいるでしょうが、いやいや、そんなことありません。頭上に、夜空を覆いつくすような大蛇がいたはずです。その名は「ティアマト彗星」。ティアマトというのは、メソポタミア神話に登場する蛇身の神ですね。
つまり「君の名は。」は、スサノオがヤマタノオロチを倒して世界を救ったように、ふたりがティアマト彗星という大蛇による災厄から世界を救う物語でもあるのです。
ちなみに、スサノオは、水をつかさどる農耕の神です。ヤマチノオロチも、水を支配する大蛇です。
だから、この映画、とにかく「水の描写」が多いのかもしれません。糸守町は湖に囲まれていて、登場人物の背景として、しょっちゅう画面に映っています。宮水神社の御神体の周囲も水がありますし、宮水家の近くにも水が流れています。他にも、ちょっとした「季節をイメージさせるだけのカット」にも、水を流れる葉っぱのシーンが挿入されるなど、水を印象付けるシーンが多い。
瀧くんが、御神体のある山へ向かうシーンもそうですね。映画の中では、それまで晴天続きだったのに、あのシーンだけ雨が降ります。そして蜘蛛の巣に水滴に光るカットなどが、さりげなく挿入されます。
そもそも、登場人物の名前もそうですよね。
なにしろ、主人公のふたりが”瀧”くんと宮”水”三葉ですからね。水にまつわる名前になっています。こんなことからも、この映画が、水の神・スサノオの物語の二重写しになっていることも、ほぽ間違いないでしょう。
さて。
こうして、ひとつずつの要素を書き出してみると、ほんと、自分の馬鹿さ加減に腹立たしくなるばかりです。
どうして気付かなかったんだろう?
誰がどう見たって、これはイザナギとイザナミの国生みの物語ですよ。そして同時に、スサノオのヤマタノオロチ退治の物語ですよ。公開2日目に見ていたのに、それから数十日が過ぎるまで、こんなシンプルな答えに、わたしは気付きませんでした。
答は目の前にあった。こんなにも堂々と、ヒントは提示されていたんです。なのに王道なボーイ・ミーツ・ガールの物語としての完成度が高すぎて、その裏に重ねられていた「古事記」や「日本書紀」の物語に、まるで気付かなかったのですから、ほんと完敗です。
でも、わたしを含め、この映画を観た人は、心のどこかで気付いていたのかもしれません。
これ、ただのエンタメな恋愛映画とは、なにかが違うぞと。
ふたりが声をかける順番。山頂を走る方向。国生み神話を踏襲していたシーンのひとつひとつが、うまく言葉では説明できないけれど、なぜか心に残ったのです。だからこそ、この映画は、多くの人の心に響いたんだと思います。そして、こんなにもヒットしたのでしょう。
とはいえ、わたしが本日になるまで「古事記」や「日本書紀」の物語が秘められていたに気付けなかったのは事実であり、なんか悔しい気持ちが残ったままなので、最後に、せめて一矢報いたいと思います。
なので、ここからは、「この映画の、真のエンディング」を妄想しちゃおうと思います。
第三章・ヒノカグツチと変電所爆破
この映画、監督や出演者のコメントでも明らかにされていますが、途中でエンディングが変更されているようです。
これは珍しいことではありません。作り始めてみてから、「こっちほうがいい」というストーリーを思いついたら、どんどん変えていくのが映画作りというもの。いまのエンディングにした結果、こんなにもヒットしたのだから、変更は大成功だったのでしょう。
とはいえ、じゃあ当初のエンディングはどんなものだったのか? それが気になるところでもあります。
だったら、勝手に妄想してみましょう。
たぶん、それは「糸守の人たちは、みんな助かった。だけど三葉だけが死んでいる」という結末だっただろう――と、わたしは思っているのですが、いかがでしょう?
なぜなら、イザナギとイザナギは、仲睦まじいまま生涯を終えたわけではないからです。
イザナミは島々を生み、日本という国を誕生させます。こうして世界が始まる――というのが、日本の国生みの物語です。イザナミは、その後もたくさんの神を産み、最後に亡くなってしまいます。
妻を失い、悲しんだイザナギは、どうしたか?
なんと、死んでしまったイザナミに会うため、黄泉の国(死後の世界)へ向かうのです。とはいえ、もちろんイザナミが生き返ることはなく、最終的に、イザナギだけが黄泉の国から戻り、ふたりは別々の場所で生きることになるのです。
「君の名は。」は、このエピソードも忠実になぞっています。
瀧くんは、三葉がすでに死んでいることを知ってもなお、彼女に会うために行動します。
そして、御神体に向かうため、その周囲の水を越えます。このとき、瀧くんは、ちゃんと「ここから先は、あの世……」と口にします。そこが黄泉の国(死後の世界)であることを自覚した上で、足を踏み入れているのですね。
こうして、黄泉の国に行くというエピソードまで踏襲しているならば、この映画の本来あるべき結末は「糸守町のみんなは無事だった。唯一、三葉だけが死んでしまう」となるのが、もっとも自然な形だろう――と、わたしは思うのです。イザナギが「国を産み落とし、世界を作った」代償を払うように死んでしまったように、三葉も「糸守町を救った」代償として死ぬべき存在だからです。
では、そのときの三葉の死因は何か?
きっと火事でしょう。
イザナミの死因は火傷です。火の神・カグツチを産んだことにより、イザナミは死んでしまうのです。
では「君の名は。」で、火のシーンはあったか?
あります。町を停電させるために爆薬が使用されます。あのエピソード、かなり唐突ですよね。高校生が軽々しく爆薬を使えるのか? 管理が甘すぎないか? そもそも変電所を爆破する必要があるのか? 停電を起こすだけなら送電線を切るだけでいいじゃないか! ――といったツッコミが入りまくるようなエピソードです。
でも、そんなツッコミが入ることを覚悟の上で、新海監督は、あそこで「爆発するシーン」を必要としたんじゃないかなぁ――と、わたしは想像しているのです。イザナギとイザナミの国生み物語を踏襲するためには、この映画にも「火が産まれるシーン」が必要だからです。
そして最後に「糸守町のみんなは無事だった。唯一、三葉だけが死んでしまう」という結末を用意してたんじゃないかなぁ。あの変電所の爆破を遠因とする、火災などの事故によって。
これを裏付ける傍証もあります。
映画の終盤。糸守町が奇跡的に救われた――というニュース報道のシーン。アナウンサーのセリフとして「ほとんどの人が無事で~」と流れます。そして画面には「死者0人」と表示されるのです。
おかしいですよね。
死者0人だったなら、アナウンサーのセリフは「全員が無事で~」となるべきです。このシーン、映像と音声が合致していないんですよ。
どうして、こんなズレが起きたのか?
最初の脚本を書き終えた後、あるいはセリフを収録した後に、「誰も死ななかった」という方向へとストーリーを切り替えたんじゃないかな? そして映像だけは「死者0人」と描き替えたんじゃないかな? ――と、わたしは妄想しています。
この妄想が正解なら、もともとの脚本では、誰かが死んでいたことになります。ならば、これはイザナギとイザナミによる国生み神話をなぞった物語なのですから、黄泉の国に行くべき人物はひとりだけ。イザナミ=三葉です。
(あるいは、死んだことすら歴史から消え、「三葉が存在しなかった世界」になったのかもしれません)
最終章・四葉と真のエンディング
ならば、本当のラストシーンは、どんなものだったのか?
三葉はいないのですから、瀧くんは三葉には会えません。
とすると、最後に会うのは四葉だったのかもしれません。三葉そっくりに成長していた四葉です。
わたしがそのように妄想したのは、四葉には、この映画の中で「大きな役割」が与えられていなかったからです。ヒロインの妹という重要な役なのに、「おねえちゃん、変やよ」と訝しがるだけの役割しか与えられていない。
ならば、四葉は「当初、想定されていたラストシーン」のために存在していたんじゃないかなぁ……と思ったりしたのです。
物語の中の四葉は小学4年生で、瀧くんの世界の時間軸だと中学1年生です。すると瀧くんが就職活動をする時期(あれから5年後。大学4年生のとき)に、ちょうど高校生になってるんですよね。あまりにもピッタリとハマる年齢設定であることは、偶然じゃないような気がしている昨今です。
もし、そんなラストシーンだったとしたならば、そのとき四葉は、瀧くんを見て、どう思うのか?
瀧くんの隣にいる奥寺先輩を見て、「お姉ちゃんが生きていれば、あのくらいかな」と思ったりしたのかもしれませんね。(時間軸がズレているから気付きにくいけど、三葉と奥寺先輩はほぼ同世代です)
……とまあ、最初はそんなエンディングが想定されていたんじゃないかなぁ、と妄想しているわけですが、いかがでしょう? たぶん、こんなもんは、まあ正解ではないでしょうけれど(笑)。
というわけで、いまのエンディングに大満足した方にしてみれば、不愉快に感じる文章だったかもしれません。でも怒ったりせず、この映画が国生み神話をベースにしていることにすら気付かなかった愚か者による、ただの妄想だと笑い飛ばしていただければ幸いです。
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