女性ゲームユーザーの存在を織り込んだ上で読み解く日本テレビゲーム史(その2)


 日本は、おそらく世界でもっとも女性ゲームユーザーの存在感が大きい国です。ならば、それらの女性ユーザーの存在を織り込んだ上で日本のテレビゲーム史を語ってみよう――といった趣旨で書き始めたシリーズの第二弾です。シリーズ第一弾『女性ゲームユーザーの存在を織り込んだ上で読み解く日本テレビゲーム史(その1)』と併せてお読みください。今回は1990年代の家庭用ゲーム機を中心にしたゲームの歴史の話になります。


[4]1990年代・キッズコンピュータPICOが生み出した新しい光景


 1993年。キッズコンピュータPICOというゲーム機が発売されます。

 ご存じない方も多いかもしれません。幼児向けの据え置きゲーム機です。およそ10年に渡ってロングランセールスを記録し、推定される総販売台数は300~500万台。けして無視していい存在ではなく、1990年代を代表するテレビゲーム機のひとつです。

 いろいろな家庭を渡り歩いたゲーム機でもありました。子供が成長すると不要になるため、ゲーム機本体やソフトが、親戚の子供、あるいは近所の子供などに譲られていき、1台のマシンが複数の家庭を渡り歩いたのです。幼稚園や保育園など、多くの子供たちが触れる環境に置かれていたこともあったようです。このため、一般のゲーム機と比較したとき1台当たりのユーザー数が多いと推測されており、キッズコンピュータPICOを体験したことのある方は、おそらく1000万人を超えるでしょう。日本市場に限定するならば、これはPCエンジンメガドライブのユーザー数と比べても、まるで遜色のない数字です。

 このような幼児用テレビゲーム機が、1990年代にロングランセールスを記録したという事実は、日本のテレビゲーム史を語る上での、きわめて大事なポイントです。

 なぜなら、キッズコンピュータPICOは性別を問わないゲーム機であり、男児だけでなく女児もプレイしたゲーム機だったからです。いまでこそ小さな女の子がテレビゲーム(をはじめとするデジタル機器)に親しむことは珍しくありませんが、1990年代の日本では、すでに女児が当たり前のようにゲームを楽しむ光景が誕生していたことがわかるのです。

 また、日本では母親が幼児の世話をすることが一般的であり、自分の子供にどのようなオモチャを与えるかについて母親が決定権を持つ場合が多いでしょう。つまりキッズコンピュータPICOがロングランセールスを記録したということは、1990年代には、1000万人の幼児ユーザーの母親たちが自分の子供たちにゲーム機を与えていたのだ、という事実が浮かび上がるのです。

 それ以前のファミコンの時代は、テレビゲーム害悪論が根強く残っていた時代でもありました。「目に悪い」「健康に悪い」「教育に悪い」といった意見が、とくに根拠もないまま新聞・テレビなどで発信されていました。多くの母親たちは、自分の子供たちがゲームをプレイすることを奨励しなかったし、できればゲームには飽きてほしいとすら思っていることが多かったのかもしれません。

 しかし、1990年代から2000年代序盤までの間に、その風向きが変わっていったことがわかるのです。小さな子供を持つ母親世代の中に、子供がゲームをプレイすることを許容する人たちが、無視できないほどの人数まで増えていったのですね。

 もちろん、それはキッズコンピュータPICOが単体で成し遂げた変化ではありません。「ポケベル」「たまごっち」などがブームを起こし、女性がデジタル機器を楽しむことが一般的になっていった時代の空気が後押しした結果でもありますし、また1990年代の日本のゲーム産業全体が、女性ゲームユーザーを受け入れ、女性ゲームユーザーの心をつかむための努力をした結果でもあるでしょう。

 1990年代というのは、家庭の中で、テレビゲームが女性の心をつかんでいく時代でもあったのです。では、女性ゲームユーザーの心をつかむため、家庭用テレビゲーム機は、どのように変化していったのでしょうか? 次の項から、それを解説していきます。

【補足】2018年現在、就学前の子供たちがスマホを楽しむ光景は、まるで珍しいものではなくなりました。子供たちを行儀よく静かにさせるため、積極的にスマホを活用している親も多いです。そうした年齢の子供たちにデジタルなコンテンツを与えるという行為の原点は、25年前に発売されたキッズコンピュータPICOにあったと考えることもできるでしょう。さらにいうと、いま子供たちにスマホを見せている20代後半~30代前半の母親たちは、1990年代に子供時代を過ごしていて、「ポケベル」「たまごっち」などのデジタル機器を女性が楽しむ姿を物心ついた時から当たり前のものとして見てきた初の世代にあたります。そして、ちょうど1990年代から2000年代初頭まで現役マシンであり続けたキッズコンピュータPICOをプレイしていた世代でもあるのです。


 


[5]1990年代・プレイステーションは街に飛び出し、女性の心をつかんだ


 1994年。プレイイステーションが発売されます。

 これは家庭用ゲーム機では史上初となる、街に飛び出したゲーム機でもありました。

 それまでのゲーム機は、オモチャ屋やゲーム専門店、大型量販店などで購入する商品でした。ゲームファンにとっては当たり前のように目にする存在でしたが、一般の人たちは、ふだんの生活の中でまるで目にすることのない存在だったのです。

 しかしプレイステーションは、従来のテレビゲーム産業が使用していた玩具流通ではなく、音楽流通を介して販売されたことにより、日本全国にあったCDショップの店頭にも並びました。それまでゲームに興味を持っていなかった人たちの目に見えるところに出現したのです。

 1990年代は、音楽CDの黄金時代です。765万枚という日本歴代トップセールスを記録した宇多田ヒカル「First Love」を筆頭に、CDアルバムの売上ランキングトップ10は、すべて1990年代半ば~2000年代序盤に集中しています。シングルCDの年間最多販売記録は1億6782万7000枚(1997年)、CDアルバムの年間最多販売記録は3億291万3000枚(1998年)であり、ともに1990年代に記録しています。まだネットを介してのダウンロードもなく、ネット通販もほぼ存在しない時代ですから、これらの膨大な音楽CDはすべて店頭で販売されたのです。

 この膨大なセールスを支えるため、都市部の駅前には、ひとつのビルをまるごと使用した巨大なCDショップが林立していました。そこは老若男女を問わず誰もが足繁く訪れる場所であり、音楽シーンの最先端に触れられる場所であり、そして最先端の情報発信基地でもありました。ひとりのアーチストのファッションスタイル・ライフスタイルが全国レベルでの知名度を持つにいたり、「アムラー」という言葉が1996年の新語・流行語大賞の入賞を果たしたことからも、当時の音楽シーンの影響力の巨大さを感じ取ることができるでしょう。

 プレイステーションは、そんな音楽CDショップに突如として出現したゲーム機でした。そして、それまでテレビゲームを目にすることのなかった人たちにテレビゲームの存在感を見せつけ、テレビゲームは音楽CDと同じように大人たちが楽しむ格好いい娯楽なんだよ、そこに境界なんかないんだよ――というイメージを定着させることに成功するのです。プレイステーションを、ふだんは音楽CDの再生機器として使用して、ときどきゲームも遊ぶというスタイルで利用している人も、当時はたくさんいたのです。

 こうしてプレイステーションは、多くの一般ユーザーを獲得し、そして多くの女性ユーザーの獲得にも成功します。1990年代は、「ポケベル」「たまごっち」によって、女性が街の中でデジタルな機器を楽しむようになりつつある時代でもありました。女性ユーザーがテレビゲームに触れるまでのハードルは、すでに押し下げられていました。だからこそ街の中に出現したプレイステーションは、多くの女性ユーザーの獲得に成功したのでしょう。

 それは、以前からテレビゲームを楽しんできた女性ユーザーにとっての福音でもありました。プレイステーションが多くの新規女性ユーザーを獲得し、女性がゲームを楽しむことが一般化したことにより、テレビゲームをプレイすることは、もはや隠しておくべき趣味ではなくなっていったからです。堂々と「趣味はゲームです」と口にできる時代が、やっと訪れるようになったのですね。

 こうして女性ゲームユーザーが増え、その存在が次第に可視化されるようになると、そこに大きな顧客層がいることを認識したゲーム産業は、ゲームを製作するにあたり、女性の存在を意識した味付けを施すための努力を行うようになるのです。そして、女性ゲームユーザーがゲーム文化に大きな影響を与える時代がスタートするのです。

【補足】「街に飛び出したゲーム機」であるプレイステーションは、ユーザーの手による持ち運びが想定されていたゲーム機でもあったことも付記しておきましょう。本体がコンパクトで、突起の少ない四角四面な形状をしているのは、それがA4サイズの封筒に入るよう設計されているためです。自宅で遊ぶのみならず、友達の家、恋人の家などにゲーム機本体を持ち運ぶことが想定された、「いろいろなところでゲームを楽しんでね」という思想が込められていたゲーム機だったのです。いまでこそNintendo Switchが「持ち運べる据え置きゲーム機」として、その革新性を高く評価されていますが、それよりもはるか昔に発売されたプレイステーションこそが、世界初の「持ち運ばれることを想定して設計されていた据え置きゲーム機」であることは、もっと知られてもいいでしょう。




[6]1990年代・3DのCG技術は、ポップなキャラクター作りに利用された


 プレイステーションは、3Dのコンピュータグラフィックスの能力に優れたゲーム機でした。

 そこで、ちょっとだけ時間軸を巻き戻して、プレイステーション発売直前の日本における3DCGとポップカルチャーの関係について語りはじめることにしましょう。

 1992年。「ウゴウゴルーガ」という伝説的なテレビ番組が放送を開始しました。CG技術を活用した実験的番組であり、カルト的なテイストを漂わながらも、小さな子供たちを熱中させた奇跡的な番組でした。ポップであり、同時に不条理さとアナーキーさを併せ持つチープなCGキャラを登場させたこの番組は、その強烈なインパクトとともに「ポップなCGキャラ=カワイイ」という感覚を誕生させました。1994年まで続いた「ウゴウゴルーガ」によって、日本におけるCGカルチャーは「男の子が楽しむ格好いいモノ」にとどまらず、「子供、そして女性が楽しむポップで可愛いモノ」でもあるよね、という定義されたのかもしれません。

 プレイステーションは、そんな時代の空気を、あざやかに掬い取ったゲーム機だと評することもできるでしょう。3DCGを使用したポップで魅力的なキャラクターを用意したゲームを次々に生み出し、増えつつあった女性ユーザーの興味を引くことに成功するのです。

 その代表格が「パラッパラッパー」(1996)でしょう。街中のゲームセンターで一台ムーブメントを巻き起こした音ゲーに属するゲームであり、そこにポップで洗練させたキャラクターを配置し、楽しいストーリーを織り込むことで大ヒットを記録します。それまでのゲーム市場の主流だった子供が遊ぶゲームの延長線ではなく、またゲームマニアが楽しむタイプのゲームの延長線でもない、性別を問わずに楽しい気持ちになれるポップなゲーム、という市場が生み出されるのです。

 他にも、3Dアクションゲーム「ジャンピングフラッシュ」(1995)ではマスコット的な存在としてムームー星人が登場していますし、シンプルなアクションパズル「XI[sai]」(1998)にも、可愛いキャラクター・アクイが主人公として設定されるなど、女性に愛されるポップな3DCGのキャラが、当然のようにゲーム内に登場する時代が到来するのですね。

 1990年代後半。多くの女性たちがCGキャラに親しむようになると、傑作ゲーム「どこでもいっしょ」(1999)が誕生します。ポケピと呼ばれるキャラたちの会話を楽しむゲームであり、液晶画面つきの「Pocket Station」という小型外部機器でのプレイが可能。街の中で遊べるゲームとして高い女性人気を獲得します。その主人公・井上トロは、いまなおプレイステーション文化を象徴するキャラクターとして生き残っていますね。余談ですが、当時の広報さんから「女性ユーザーが30%を越えてるんですよ!」と内部資料を見せていただき、それを強く報じてほしいと依頼されたことを、いまでも強く覚えています、

 こうして代表的なソフトをいくつか列挙するだけでも、女性ユーザーの存在が意識されるようになった1990年代に、プレイステーションがいくつもの女性に愛されるポップな3Dキャラクターを生み出していったことがわかります。それは間違いなく女性ユーザーが増えつつあった影響を受けて生まれたゲーム文化でしょう。それらの女性ユーザーの要望に真摯に応えたからこそ、プレイステーションは大衆衆的人気を獲得し、大成功を収めることができたのです。

【補足】1990年代は、3Dのコンピュータ・グラフィックスが一気に発展する時代でもありました。この技術は、女性ゲームユーザーの存在感が強い日本では「ポップなキャラを生み出す」ことに使用され、他国にはない独自のゲーム文化を花開かせました。一方、女性ユーザーの存在感が薄かったアメリカでは、3DCG技術は「男の子が楽しむ昔ながらのゲーム」を発展させる方向に強く利用され、「DOOM」(1993年)を皮切りにして3D空間で攻撃しあうFPS文化を花開かせ、巨大ジャンルを誕生させるのですね。これらの海外の話は後の項で説明しますが、1990年代に、国や地域によって別々のゲーム文化が育まれたのは、きわめて興味深いところです。それが、その後のゲームに大きな多様性が生み出す要因になったことは、ゲーム史を語る上でのきわめて重要なポイントのひとつでしょう。




[7]1990年代・テレビゲームに少女マンガの文法が持ち込まれる


 1990年代におけるテレビゲームの3DCGについて語るならば、「ファイナルファンタジー7」(1997)にも注目しなければなりません。

 1987年から人気RPGシリーズとして君臨してきた「ファイナルファンタジー」は、7作目から舞台をプレイステーションに移行。それまでのイメージを一新し、美男美女なキャラを3DCGで描き、その魅力を前面に押し出す路線へと舵を切ったのです。

 当時は、ゲームユーザーの中に、ゲーム原理主義者とも呼ぶべき人がそれなりに存在しました。豪華なムービーとか、綺麗なグラフィックスとか、そういったものに高い価値を見出さず、それらの要素を除いたところに感じられる魅力こそがゲームの本質であると考え、その本質的なところを「ゲーム性」という言葉で形容し、その良し悪しによってゲームの優劣をつけるような考え方をする人たちです。極論であることは当人たちも承知の上で、「ゲームが面白ければ、キャラなんて〇や△といった記号でもいいんだ」という主張をすることもありました。

 「ファイナルファンタジー7」は、そのような人たちに堂々と反旗を翻したゲームでした。美麗なムービーを大量に用意し、豪華なサウンドを鳴らし、美しい映像表現でユーザーの心をつかみにきたのです。もちろんキャラたちは記号化されることなく、格好いい男性キャラクター、魅力的な女性キャラクターを3DCGで描くことに注力されていました。そして、そこにほんのりとした恋愛感情を匂わせながら、その人間関係を軸にしたみずみずしい冒険物語を紡いでみせたのです。これによって女性ユーザーをはじめとする多くの新規ユーザーを獲得し、いまなお高い人気を誇るシリーズとして君臨していることは、もはや説明するまでもないでしょう。

 それは、従来のテレビゲームの多くが少年マンガ的(少年ジャンプ的)な冒険フォーマットに沿って作られていたことに抵抗するかのように、若い男女の人間関係の機微を大事にする少女マンガ的な文法を持ち込んだ初のゲームだったと評することもできるでしょうし、2018年現在では「推し」とか「尊い」といった言葉で形容される感情を、ゲーム内のキャラクターたちに感じてくださいね! そのためにあらゆる努力を尽くしますよ! という姿勢を貫いてみせた世界初の大作ゲームだったと評することもできるでしょう。

 「ファイナルファンタジー7」の成功は、その後の日本ゲーム界に巨大な影響を与えました。より魅力的なキャラクターたちを作ろう! その人間関係をきっちりと描こう! といった作品が次々に作られるようになり、そこに大きな市場が誕生するのです。

 なお、「ファイナルファンタジー7」が発売された1997年は、映画「もののけ姫」の公開年でもあり、スタジオジブリのアニメ作品が初めて興行収入100億円を突破した年でもあります。いまでこそ国民的アニメとして知られるジブリ映画ですが、それ以前はアニメファンのための映画、子供たちが楽しむ映画という位置付けでした。しかし1997年を機に、ついに老若男女がなにひとつ恥ずかしがることなく劇場に足を運ぶ国民的映画としての座を獲得。この勢いを受け、2001年の「千と千尋の神隠し」で、日本映画史上最高の興行収入300億円越えという数字を叩き出すことになるのです。

 「もののけ姫」の公開により、アニメ映画を子供のためのものではなく、マニアのためのものでもなく、老若男女が楽しめる存在へと引き上げられたのと同じタイミングで、それまでのゲームにはなかった人間関係を描くことで新規ユーザーを獲得した大作ゲーム「ファイナルファンタジー7」が発売されたのは、きわめて興味深いところです。1997年というのは、アニメ作品やゲーム作品が閉ざされたファンたちだけのものではなくなり、広く一般に認知されるようになった記念すべき年なのかもしれません。ふつうの女性たちが、それまでオタク文化と呼ばれていたものを、とくに身構えることなく楽しむ時代が、ついに到来したのです。

【補足】ゲームライターとしての思い出話をさせていただきますと、「ファイナルファンタジー7」の登場を皮切りに格好いいキャラが登場するゲームが多く作られるようになり、それにともないゲーム攻略本の作り方は変化しました。それまではページを開いた時のデザイン的格好良さを優先し、キャラクターイラストの上に(前に?)キャッチコピーなどを重ねるのが一般的だったのですが、このあたりから、キャラクターの上に文字を重ねないことが一般的になっていくのです。これはコスプレを楽しむ人が目に見えて増え、とれわけ女性コスプレイヤーが増えたこともあり、キャラの可愛い服装を隠すことなく掲載するための配慮です。1995年にはコスプレ専門ショップ・コスパ(当時の店名はコスチュームパラダイス)が開店するなど、ちょうどコスプレ文化が一気に拡大した時代でもありました。以降、コスプレ文化は拡大を続け、2003年には名古屋で世界各地の著名なコスプレイヤーを日本に招いて「世界コスプレサミット」も開催されるようになり、cosplayという和製英語は英オックスフォード辞典にも載るほどの世界的な文化へと成長していくのです。

(つづく)



[第二回目のあとがき]……宇多田ヒカル安室美奈絵「ウゴウゴルーガ」「もののけ姫」。よくあるゲームの歴史を語る文章には出てこないワードが頻出しましたが、テレビゲームは大衆向け娯楽産業ですから、ゲーム以外の文化から強く影響を受けているのは当然のことであり、ならば当時のテレビゲーム以外の流行について触れることなくテレビゲームの歴史を語ることはできないのです。上記の4つのワードは、すべて「女性が、自分が共感するものに強く興味をいだき、堂々と自分の趣味を前面に出すようになった」ことを象徴するものだと考えることも可能ですし、そんな時代の空気がテレビゲーム産業にも影響を与えたということは、けして無視してはいけないポイントでしょう。というわけで、1990年代の家庭用テレビゲームの話の前半部は、これで終了となります。次回は後半部、女性ユーザーとファミリー層向けゲームの関係についての話になります。

【続編・女性ゲームユーザーの存在を織り込んだ上で読み解く日本テレビゲーム史(その3)】

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