野安の電子遊戯工房 ~話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」を読んでみた・その2~


 昨日に引き続き、いまネットで話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」について、思うところを書いてみます。

 たくさん発見できる事実誤認についても、いろいろと書きたいことはあるのですが、それらはいったん横に置くとして、ここではゲームを捉えるときの全体的な視点に関する違和感について書いておきます。

 ものすごく気になったのは、テレビゲームというコンテンツを、かなり偏った視点から取り扱っていることです。まるで小説や映画のように個人がテクストと対峙する形式のコンテンツと同じように、テレビゲームという文化を捉えようとしているといいますか。

 そこには、モニターの前に複数のプレイヤーが集い、ゲームを楽しむという光景への洞察が希薄です。テレビゲームが持つ、みんなが楽しむパーティーグッズ的な側面は、ばっさりと切り捨てられている。そちらに注ぎ込まれた開発者たちの労力は無視されている。

 これが、個人的なゲーム評であるというのなら、そのような視点からゲームを語ることに問題はないのですが、この本は違います。昨日と同じ個所を、もう一度引用しておきますと、

 (前略)単にコンピュータゲームの盛衰を社会現象として辿るというものではなく、かといってゲームプレイの魅力を個人の経験に基づいて語るというものでもなく、ゲームという新しい技術あるいはメディアの登場がいかに二一世紀を生きる私たちの生と認識を規定しているか、その連関を探る~(後略) [P.006]

 となっておりまして、このように宣言した上でテレビゲームという文化と対峙するなら、モニターの前で大勢でゲームをプレイするという光景は、きわめて大切な要素として取り扱われるべきだと、わたしは考えます。それこそが、ゲームというコンテンツが持つ特性であり、小説やコミックや映画やテレビドラマなどのコンテンツとの決定的な違いであり、テレビゲームだけが生み出せる光景なのですから。

 ファミコンの登場時に、ふたつのコントローラが標準装備されました。以降の家庭用ゲーム機では、モニターの前に兄弟がいる光景、友達たちといる光景、親子でいる光景、そして恋人同士や夫婦で楽しむ光景などが生まれ、そこからさまざまなゲーム文化が育まれました。にもかかわらず、そういった光景に対する論考が薄く、そういった光景を生み出すためにゲーム開発者たちが費やした労力に対する敬意が希薄であることは、きわめて残念だなぁと思うのです。

 



 

 だからなのか、この本、Nintendo Switchの登場以降の任天堂ソフトに対して、きわめて冷淡です。

(前略) 全世界のゲームメディアが選ぶ「The Game Awards」という賞がありますが、一七年度は『BOW』がGame of the Yearを獲った。そればかりか『スーパーマリオオデッセイ』(任天堂、一七年)までノミネートされていて、さすがにおかしいと思いました。 [p.069]

 「BOW」というのは「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」のこと(通常は「BOTW」と略されるが、この本では「BOW」となっている)で、つまりは全世界でヒットし、ここで紹介されている「The Game Awards」のみならず世界中のゲーム関連の賞を総なめにしたソフトについて、賞を獲ったことがおかしいのだ、と感想を述べています。

 賞を獲ったことが、どうしておかしいのかという理由については、 

要はトップレベルの海外オープンワールドのゲームを遊びやすく作り変えたものを日本で売った。[P.068]

 と、ごくシンプルに説明し、

実際のところ「BOW」はふつうのオープンワールドゲームですよ。[P.069]
結局は英語圏のメディアがーで活躍しているライターの好みがモロに反映される点数になるわけです。そして彼らのほとんどは任天堂とゼルダが大好きです。[P.070]

 と、ここまで高評価なのは選考者たちが「ゼルダ」を好きなことが理由であり、ここまで絶賛されるには値しないはずなのにね、と位置付けるのです。

 ゲームをどのように評価するかはプレイヤーの自由ですし、わたしの個人的な趣味で言うならば、「オレが楽しいと感じなかったから、これは凡作だよ!」といった、ロジカルじゃないけど熱量のある主張を聞くのは大好きではあるのですが、ゲームという新しい技術あるいはメディアの登場がいかに二一世紀を生きる私たちの生と認識を規定しているか、その連関を探ることを宣言した書かれた本で、それをやっちゃいかんです。

 全世界でヒットし、絶賛されたソフトならば、プレイヤー個人の好き嫌いとは別に、大切な分析素材として扱うべきでしょう。

 その革新性に気付かなかったのなら、詳しい人に聞けばいいのです。そうすれば、徒歩で横断すると数十分かかるほどの広大なワールドが、じつは枯山水のように、ひとつひとつの地形そのものにゲーム的な意味を持たせた「広大な箱庭」として機能していて、その地形そのものが3D空間内にいるプレイヤーの視点を無意識のうちに誘導し、プレイヤーのモチベーションを持続させていくという、これまでのゲームでは見たこともない超絶技巧が込められていることくらい、誰か教えてくれたと思いますよ。

 わかりやすく説明すると、マップを歩くだけで、「気になるもの」が視界に飛び込むように緻密に計算されていて、それを追いかけていくことで広大なマップを走破したくなるという仕組みなんですよ。これが、とんでもなく革新的なんです。

 ここに気付くと、気になったところに向かってみるというモチベーションを軸にしてゲームそのものが設計されていて、その行動が無駄足だったと感じさせないためにこそ、ワールド内に数百ものコログが隠れていることにも気づくでしょうし、マップの端には視点を誘導する地形が置きづらく、端まで走破するモチベーションが起きにくくなるため、そこに「ゼルダ」シリーズではお馴染みではないドラゴンを回遊させ、それを追いかけたくなるというモチベーションを発生させていることにも気づき、とことん緻密な設計に舌を巻くことになるんですよ。

 こんな設計をしたゲームは、たぶん過去に例がなく、だからこそ全世界が絶賛し、驚愕したんです。こういうソフトこそ、ゲームという新しい技術あるいはメディアの登場がいかに二一世紀を生きる私たちの生と認識を規定しているか、その連関を探ると宣言した本で、きちんと論考すべきだと個人的には思います。




 さらにいうと、マップを歩くだけで「気になるもの」が視界に飛び込むように緻密に計算されているというゲームデザインは、モニターの前に複数の人間がいるときに、きわめて大きな意味を持ちます。

 テレビゲームがプレイされるとき、モニターの前にいる人間がひとりだけとはかぎりません。背後からプレイを眺める人の存在があることは、珍しいことではありません。

 ゲーム開発者たちや、わたしのようにチームを組んでゲーム攻略本などを多数書いてきた者は、プレイヤー以外の人間がゲーム画面を眺めているときに、ひとりでプレイするよりも楽しい空間が出現するゲームが存在することを、体験的に知っています。

 テレビゲームには、背後にギャラリーがいるとき、その会話が弾みやすいゲームというものが、確実に存在するのです。そして大作ゲームを作るクリエイターたちは、自覚的に、そのような楽しさが発生する仕組みを、作品の中に組み込んでいるのですね。

 「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」における、マップを歩くだけで「気になるもの」が視界に飛び込むように緻密に計算されているというゲームデザインには、そういう側面もあるのですよ。「あ。何か見えた」「あそこに行ってみようよ」といった言葉を、背後にいるギャラリーたちから誘発しやすい仕組みになっている。

 たとえば、それはまだゲームの技術がない子供たちが、ゲームが上手いパパの背後から、ナビゲーター気分で冒険に参加しやすい仕組みだと言い換えることもできるでしょう。画面に映る「気になるもの」を指摘するだけで、楽しくゲームに参加できるのですね。気になるものに向かって進むと、そこで何か楽しいことが起き、アイテムなどのご褒美が得られる、というサイクルを体験できるからです。

 そしてそれは、また動画サイトなどでの「プレイしてみた動画」の人気が出やすい理由でもあります。今回の「ゼルダ」は、画面内の情報を見るだけで、視線が誘導され、なにか楽しいことが起きそうな予感のする設計になっているがゆえの現象なんですね。





 本書では、そればかりか『スーパーマリオオデッセイ』(任天堂、一七年)までノミネートされていて、さすがにおかしいと思いました――と、けんもほろろに切り捨てている「スーパーマリオオデッセイ」も、マリオと帽子をそれぞれ別個に操作するという2Pモードが用意されていて、つまりは2人の主人公を別々に操作するアクションゲームという新機軸に挑戦していることに、もっと注目しなくちゃいかんです。

 そこでは、ゲームが上手くない人も、ゲームが上手い人と組んでプレイすると心地よいゲームプレイ体験が味わえるように設計されていて、こちらもモニターの前に複数のプレイヤーがいる光景を想定し、ちゃんと成熟されたゲームとして完成していることに気付くはずです。これって凄いことなんですよ。革新的なんですよ。きちんと書くと長くなるから書かないけど。

 こういったことに、ひとつひとつ注目していけば、モニターの前に複数のプレイヤーがいるときに楽しさが発生する仕組みを、Nintendo Switchで、任天堂が意図的に組み込んできていることに気づくはずです。みんなで対戦するゲーム、2人で協力もできるゲーム、そしてギャラレーとして参加しても楽しいゲームなど、モニターの前に複数の人間がいるさまざまなシチュエーションに合わせたソフトを、発売1年くらいの間にひととおりそろえているんですよ。

 たぶん、それはスマホという個人用モニターが全世界的に普及した時代における、テレビという巨大モニターを使用する娯楽のありかたはこうであるべきだ、という任天堂が出した答えです。モニターの前にみんなが集まり、みんなで楽しむという祝祭空間こそが、据え置きゲーム機が提供する価値のひとつである、と再定義しているんですね。だからこそ、テレビCMなどでは、みんなでゲームを楽しむ(ときおり、眺めているだけの人もいることに注目!)様子を、何度も何度も流しているのですよ。

 ほんと、こういったところまで踏み込んだ洞察こそが、ゲームという新しい技術あるいはメディアの登場がいかに二一世紀を生きる私たちの生と認識を規定しているか、その連関を探るという視点からの論述をする上で、舌なめずりしたくなるほど魅力的な題材だと、わたしは思います。誰もが個人用モニターを持てるテクノロジーが普及した時代において、巨大モニター上で遊ぶテレビゲームはどのように変化していったのか。そんな分析をするための要素がてんこもりですよ。

 なのに、この本では、まるで小説や映画のように個人がテクストと対峙する形式のコンテンツと同じように、テレビゲームという文化を捉えようとしてしまった。モニターの前にひとりで座り、プレイしたときに得られるたゲームの感想をベースにして、このゲームはこういうものだ、と分析しようとしてしまった。そして「ゼルダ」や「マリオ」を、ありきたりのゲームだと断じてしまった。

 それでは、2018年現在のゲームを分析することはできないですよ。アプローチの方法が20年くらい古いですし、カバーできる範囲が狭すぎます。市場が全地球規模にまで拡大し、あらゆる国で小学生から高齢者までのユーザー層をカバーするようになっている、現在のゲームの遊ばれ方の多様性を舐めんなよ、って話です。




 というわけで。

 長々と書いてしまいましたが、きりがないので、このへんでやめておきましょう。今後読み進めていくちに、また書きたいことがあったら、なにか書くかもしれませんけれど。

 なお、ゲームについて、これまでにない視点から分析しようとした言葉が出てくるのは素晴らしいことだと思うので、ぜひとも第二弾を期待していることを、最後に付け加えておきます。がんばってください。

(2018/06/22)

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