野安の電子遊戯工房 ~トークイベント「ゲームと文学」についての補足~
先日、「ゲームと文学― 『1973年のピンボール』から『レディ・プレイヤー1』まで」というトークイベントに登壇いたしました。
小規模なものとはいえ有料イベントなので、その内容をここに書くことはできないわけですが、一人当たりの持ち時間が短かく、伝えきれなかったことも多々ありますので、補足的なことをここに書いておきます。
テレビゲームは、どのようにして文芸の中で語られてきたか?
といったことを解説するのが、このトークイベントのざっくりとした趣旨でありまして、わたしのように30年にわたってゲーム出版物に関わってきた者は、その過程をリアルタイムで知っていますし、出版社内でそれらの出版物が作られていく様子も見ていますので、語り手として登壇することになった次第です。
わたしが担当したのは1990年代のゲーム文学。
「1973年のピンボール」「ノーライフキング」など、小説の中にテレビゲーム(だけじゃないけど)が取り入れられるようになった作品の後に登場した、「パックランドでつかまえて」「1999年のゲーム・キッズ」の2冊が、わたしの担当でありました。
テレビゲームが「それまでの日本にはなかった異文化」として小説内で取り扱われる地代が終わり、ごく自然にテレビゲームに接してきた世代の人たちが「テレビゲームが存在する日常」を描くようになった時代が、1990年代に到来していたんですよ――といった内容の話を、トークイベントの場では説明しました。
もう少し整理して解説すると、
・ゲームを異文化として扱う視点
・ゲームを日常にあるものとして扱う視点
・その双方を繋げるように、ゲームのテクノロジーを翻訳する視点
という、テレビゲームを語るうえで考えられる3つの視点が、すでに1990年代には出そろっていたんですよ、という話をしたわけです。
映画「レディ・プレイヤー1」でさえ、テレビゲームは生活に苦しんでいる人たちの逃げ場であり、企業にとっては強制労働を思わせる仕組みで労働者たちを投入する場であり、ラストシーンではヴァーチャルワールド全体を週休2日になり、ゲームではなくリアルな日常を楽しむことが大事だというメッセージとともに映画が締めくくられることかるもわかるように、そこには「ゲームを異文化として扱う視点」が色濃く残っています。
2018年に日本で公開された映画でさえ、そのような視点が色濃く残っていることを考えると、1990年代に、そのような視点からの即品を過去のものと位置づけ、ゲームを日常そのものとして描く視点の文芸作品が登場していた日本という国は、ちょっと独特なんですよね――みたいな話まで踏み込もうかとも思っていたのですが、さすがにイベント内で語るには時間が足りなかったので、ここで補足しておきます。
これは、週刊少年ジャンプという雑誌の功績でもあります。
週刊少年ジャンプは、子供から大人までの数百万人が読む国民的週刊誌です。こんな雑誌メディアを持つ国は日本だけです。
その国民的雑誌に「ドラクエ」などのゲーム情報が、ごく当たり前のように掲載されていたことの意義は、ものすごく大きかった。だからこそ、わたしたちは、テレビゲームという文化をサブカルチャーとしてではなく、ごく当たり前にみんなが楽しむ存在なのだと認識したんです。ゲームが好きか嫌いかは別にして。
アメリカには、このような雑誌はなかった。
ヨーロッパにもなかった。
だから全世界的には、テレビゲームはサブカルチャー的な文脈で位置づけられたまま現代にいたっているという側面がありまして、つまりは「好きな人は好きだけど、世の中のメインカルチャーとしては認めないよん」といった空気が、日本以上に色濃く残っているんです。またゲームユーザー側も「理解のない奴には、わかってもらえなくてけっこう!」というスタンスに立ちがちなんですね。
じつは、e-Sportsが、これまで日本で普及しにくい要因のひとつも、ここにあるんですよ。「ゲームって、ふつうの日常の中にあるものだよね」という受け止め方をする日本では、「わからないヤツには、わかってもらえなくていい」的な立ち位置からのイベントが巨大ビジネスになったという側面を持つe-Sportsは、うまく馴染みにくいといいますか。このあたり、きちんと論考するには文字数がたくさん必要なので、ここには書きませんけど。
でもまあ、そういった「ゲームが、どのように世の中に受け止められているか」という点における国ごとの違いが、ゲームと文学(あるいは出版)というテーマから、読み解けたりするんだと、わたしは思っております。
以上、トークイベントの補足でした。
(2018/06/20)
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