見出し画像

考えているようで何も考えていない

お疲れ様です!
自問自答(自学自習)ガールズ、のざです!

連日、自問自答ファッション教室のレポがnoteにアップされていて、受講者でない私はその一端をおすそ分けいただいている気分です。
ひとりひとり、必ずどこかに気づき、開眼する箇所があり、そしてそれが全然違うんだろうなあ、とレポを拝読しては、うんうん頷いております。

いや、そんなにレポ楽しく読んでるなら、自分でも申し込めよ!
って思うじゃないですか?
ぐうの音も出ない正論なんですけれども、どうしても私は、誰かに向かってあれこれと自分の考えを口頭で話すのが、得意ではない。
一対一でもちょっとな、なんですが、グループとなると一層気が引けるのであります。

思えば小学校のとき、(なぜか)シンポジウムみたいな討論会みたいなところに「行け」と言われて(あれっていったいなんだったんだろう)(福祉系のなんかだった記憶)、意見を言うときになぜか泣いてしまったりしていたので、その頃から変わりない。

もちろん、私が訳のわからんところで泣いたとしても、あきやさんを始めガールズの皆さんが引いたり責めたりしないことはわかっているし、「うわ……」と内心引いたとしても、少なくとも表には出さないだろうことはわかっています。
(人間なので、どうしても合う合わないはあるから、みんながみんな絶対引かない、受け入れてくれる! という妄信はしない)

お喋り自体は好きなんですけどね。
今は亡き父から、
「家族で外交的なのお前だけだな」
という評価をもらっていて、自分でも「そうなんだろうな」と思っていましたが、どうも違うらしい……?
アッパー系のコミュ障とでも言いますか、雑談や一方的な音声配信(stand.fmで毎週配信をしております)はできても、真剣な討論となると、なんだか気が引ける。

先日、「ミステリと言う勿れ」を再読していて、「双子(仮)の家庭教師になる話」で、
「議論中、相手はあなたの意見に反対しているだけであって、あなたの人格を否定しているわけではない」
という旨の整くんの持論を見て、それで泣いてるんかな~、と考えてみたけれど、どうも答えは半分しか合わない感じ。
確かに、「自分の意見を否定されたらどうしよう」という恐怖は感じるものの、妄想の中の自問自答ファッション教室では、絶対に否定されないということがわかっているのに、どうしても泣いてしまうビジョンしか見えない。

たぶん、自分の底の浅さを思い知らされるのが嫌なのかな、と思う。
先述のシンポジウムに連れていかれたときもそうだけど、私はおそらくとても早熟で、ひたすらお勉強ができたため、
「賢いからきっと、イイ感じにしてくれるだろ」
という期待をされてきた。
けれど、実際の私は、あんまり何にも考えていない。
自分自身、「私は頭がいい」と思っているからこそ、思慮深く見せかけてきた。

これも前にどこかの記事で書いた気がするけれど、中学高校時代の友人に、
「のざは、頭がいいかもしれないけれど、賢くはないよね」
と言われたことがある。
二十年以上経っても、いまだに心の中にしこりとして残り続けているのは、それが芯を食った指摘だったからなんじゃないか、と。

真に賢い人になりたかったんだろうな。
東大行っても、ゼミであれこれ議論をするでもなく、サークルの合評会でも「でへへ」と笑って逃げた結果が、この底の浅さよ。


この記事で「かっこいい」だけなんだかこだわりが強かったり、あんまりピンと来ていないしエピソードが弱いのは、
「賢い」「頭いい」
という、一番言われ慣れている褒め言葉と最も近い形容詞だからかもしれない。


ちょっと今はまだ、対面で自分の空虚さを見せるのが怖い。
文章なら平気なのにね。
書き言葉は、いくらでも飾れるから、きっとこの記事そのものも、まだまだカッコつけているし、本心をさらしているようで、実はあれこれ隠しているんだろう。
無意識のうちに。

もしも、自分の空っぽなところを受け入れ、みんなの前で、
「実はここに来たけど、なーんにも考えていないし、いろいろ突っ込んで聞かれても本音を言えるかどうかわからない」
という自分を見せてもいいかな……という日が来たら、自学自習を卒業できるのかもしれない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?