不登校の学校に「行かない」のか「行けない」のか問題について

不登校について社会が寛容になっていく感じや、学校に行かないことへの議論が交わされていることは、当事者たちへの理解や、周辺の構えや型を変えていく動きにつながるので、とてもいいことだなと思っている。

「死にたくなるほど嫌な学校になんて行かなくていいじゃん」というのがぼく自身の考え方だ。だけど、いつか社会に出ていくために所属と学力は失わないようにしたいよねと、支援者として付け足しておきたい。

で、不登校と一言で言っても、その状況は十人十色なわけで、それを「嫌な学校なんて行かなくていいじゃん」と言い捨ててしまうのはあまりにも無責任だと思う。

ぼくが中退予防を行っていると言うと、行きたなくない学校に行かせるのはどうかと思うと批判されることがあるけど、ちょっと待ってよと思うのだ。

支援者側から見て不登校をざっくり二つに分けると「行かなくなった」子たちと「行けなくなった」子たちになる。「行かなくなった」子たちは、それなりのサポートがあればその後もなんとかして行くんじゃないかとぼくは思うので、楽観して見守りたいと思うし、中にはある種の希望を感じさせる子もいたりする。

そんな子を「行きたなくない学校に行かせる」気なんて、ぼくにはさらさらない。まあ、ぼくはそういう人たちとはほぼ出会わないんだけど。ぼくが出会うのは「学校に行きたかったけど“事情”があって行けなくなった」元子どもだった人たちで、その後、多くはひきこもりを経験している人たちだ。

注意しなければならないのは、「学校に行きたかったけど事情があって行けなくなった」子たちが、しばし「(主体的に)行かなくなった」子のように擬態すること。ここが見抜けないと支援のアプローチが違って来て、最終的にどんでん返しを食らうことになる。

「行けなくなった」子たちが「行かなくなった」子たちに擬態するのは、簡単に言えばカッコつけだ。大人になると、「働けない」のではなくこんな腐った社会では「働かない」んだと拗れてくる。こうなる手前で、込み入った“事情”に寄り添える関係=信頼貯金を貯めつつ、介入していくことが予防支援の肝要なところだと思う。

このことに触れずにこの話題を語ろうと思っていたんだけど、どうも語らずには落ちなそうなので最後に触れておきたいと思う。

例の賛否が割れている小学生Youtuberの子のこと。彼は「行かなくなった」子なのか「行けなくなった」子なのかという点を蔑ろにして、賛否(するのもどうかと思うけど)は語れないよなって思う。

ぼくの感想としては、お父さんのプロデュースにより巧妙に「行けなくなった」子が「行かなくなった」子になっているんじゃないかと思うし、本人もそういう暗示の中にいるんじゃないかと思う。

そういった意味で、ポジティブに生きて欲しいと願うお父さんの戦略は間違っていないんだと思うけど、戦術としては難しかったのかもしれない。しかし、ここまで来るとなにが起きるかわからないので、学校に行かない彼がハッピーな人生を歩める、そんな社会になればいいなと願う。

なんて、ぼくもポジション・トークをしてしまう大人の一人なのでした。

すべての人をフレームイン!

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