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いき 美意識

「あなたはいき(粋)だね」「いきなことをするね」などと言われたら、かなり上級の誉め言葉だと思っていい。最近は使われなくなったかもしれないが、”いき”は日本人独特の美意識を表す言葉だ。江戸時代に生まれた。対義語は野暮、無粋。

九鬼周造(哲学者:1888年 - 1941年)の定義によると、”いき”は「意地」「色気」「諦め」によって構成される。いきを外国語に訳すのは困難だが、九鬼の書籍である「いきの構造」は”The Structure of Detachment”と訳される場合もある。Detachmentは”超然”を意味する。

いきな人とは、どこか達観していながら、根底には意地があり、艶っぽい人。イメージとしては、高倉健、松田優作あたりか。半沢直樹の中野渡頭取(北大路欣也)も、まさにこの線を狙っていたのだろう。あくまでイメージであり、実態は知らないが。

いずれにせよ、”いき”は美意識であり、作為的である。ある程度の”やせ我慢”が求められる。”いき”の世界では、「意地」と「諦め」が共存する。自分の思想、譲れない価値観、姿勢を大事にしつつも、「もはやこれまで」となったときには、すっぱりと諦める。ここに、得も言われぬ「色気」が生じる。

”やせ我慢”というと、偏狭で頑固な印象を受けるが、実際のいきは「偶有性」を重んじるのだという。自分なりの「意地」をトコトン追究するために、瞬発力を持って見切り・損切りを早くするということなのだろう。”素直で愚直な組織人”とは真逆の人物だ。身近にいきな人がいると、周りは振り回されて大変かもしれない。

最近は、”いきな人”は見当たらなくなった。逆に「意地がない割に、諦めが悪く、臭気が漂う人」が増えている気がする。意識しないと人は劣化する。

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