建築家・隈研吾さん絶賛の隈研吾論、大津若果『隈研吾という身体』から隈さんの原点ともいえる学生時代のエピソードを特別公開


《新国立競技場》《高輪ゲートウェイ駅》をはじめ、国内外で話題の建築を手掛ける建築家・隈研吾氏。その隈氏と隈建築のつながりを、隈氏自身と様々な関係者へのインタビュー等を通じて丹念に追った、ノンフィクション的建築論『隈研吾という身体』が刊行されました。今回はそのなかから、隈氏の原点ともいえる、栄光学園時代におけるカトリック神父との交流のエピソードを公開します。メディアで流布する「華やかなスター建築家」といったイメージとは真逆の、知られざる隈研吾氏に肉薄します。


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「回天」神父との衝撃的な出会い


栄光学園での生活
 カトリック教会の修道会の1つであるイエズス会によって設立された栄光学園中学高等学校は、隈の出身校である。中高一貫制の私立男子校で、全国でも有数の進学校として知られているが、校風は「ほんわか」「のんびり」それでいてちょっぴり「おちゃめ」だという。「卒業生には、豪腕タイプのリーダーというよりも、自然体の人が多いようだ」と林副校長は説明する。ほかにも出身者には、解剖学者の養老孟司さんがいる。養老さんは、「繊細で都会的なものを作る人なのに、本人がどことなく田夫野人風に見えるところが、ホッとする理由である」▼1という隈の印象を持つ。
 1964年に横須賀市田浦から鎌倉市大船へ移転して、約半世紀が経った2017年春、旧校舎が栄光学園70周年事業として生まれ変わった。隈が設計監修した新校舎である。旧校舎は鉄筋コンクリート造三階建てであったが、新校舎は、木造との混構造の2階建て校舎である。3階からわざわざ下りる必要があった旧校舎に比べ、新校舎は、1階はもちろん2階であっても外階段から校庭に近い。外にいる仲間を近くに感じることができる。
 最寄り駅から急勾配の長い坂道の通称「栄光坂」を20分ほど上ると、丘の上に新校舎が見えてくる。11万3000平方メートルもの広い校地にリスやキツツキも生息し、自然環境に恵まれている。中学の生物の授業では教師から「裏山でネバネバした植物を探す」といった宿題が出され、栄光生は裏山を駆け回る。身体を動かすために、2つの体育館、300メートルのトラック、サッカーコート、テニスコート7面、野球場などがある。
 しかし、それだけではない。2限目の授業終了のベルが鳴ると、校舎のなかから上半身裸の男子生徒たちが外に出てくる。教員たちも上着を脱ぐ。腕立て伏せを始める教員もいる。全校生徒が一斉に体を動かす。毎日、2限目と3限目の授業の間に、「中間体操」を行っているからである。15分間、全員で体操する。
 とはいえ、この身体を基本とする教育を行っているのは、なぜだろうか。
「イエズス会を中心とする反宗教改革の運動は、教育と布教を重要視し、同志の結束に重きを置くことで、信仰の共同体を再建しようとしたのです。わかりやすくいえば、プロテスタンティズムの精神主義、個人主義に対し、イエズス会は共同体志向で行動主義、身体主義だったのです」▼2と隈は解説する。
 栄光学園の母体となるのはイエズス会である。イエズス会はスペインの騎士イグナチウス・ロヨラらが創設した組織で、ロヨラは修道生活に入る前に、軍務に就いて各地を転戦していた。宗教改革は、教会が支えていた社会秩序を根底から揺るがし、カトリック教会の内部においても改革が進められ、さまざまな反応を生み出した。その頃、ローマ教皇の認可を受け、イエズス会の宣教師は、ヨーロッパから外へ出て、アメリカだけではなくアジアへ向かった。海を渡り、世界各国に飛び込み、生の教えを国々に説き広めている。イエズス会の創設者の一人であるフランシスコ・ザビエルは、遠く日本までやって来ている。
 栄光学園の後輩たちに、隈は学園生活のことをわかりやすく話している。

僕自身、栄光に初めて来た時のことは、よく覚えていますね。こんな山の中で、自然がたっぷりあるし、グラウンドが目の前にあって、勉強と運動の両方ができそうだと感じました。体も使う、頭も使う、それらを両立させるのが、栄光の最高に素晴らしいところです。その後の人生の核となる僕の考えも、体と頭の両方をよく使うことです。
栄光と言うと、進学校みたいなイメージもありますけれど、やっぱり頭でっかちになるな、と躾けられました。▼3

 「頭でっかち」になるのではなく、このように「健全な肉体に健全な精神が宿る」というのは栄光学園のモットーなのだが、これはかなり珍しいものである。というのは、宗教改革が市民社会に及ぼした影響ははかり知れないからだ。カルヴァン主義的道徳観は、遠い日本において、会社主義の企業戦士にまで影響を与えている。従来のキリスト教の倫理が逆転してしまい、富める者はあくまで富を追求することが義務となり、蓄財と吝嗇が道徳的行為となった。こうしたキリスト教的価値観の転換が、近代資本主義の精神と合致しているとマックス・ヴェーバーは結論づけているわけだが、労働に励む禁欲生活を送ることで、ほかの一切の娯楽を遠ざけて、目標達成に邁進する人間が賞賛されていることを疑う人は少ない。だから、隈研吾を「頭でっかち」な建築家であると考える人もいるかもしれない。しかし、どうやら違うようだ。

光と風と神父たち
 緑と木々に溢れた校地に、木の香りが漂う校舎の窓は大きく開かれ、明るく温かな雰囲気に包まれている。栄光生と栄光の教員が異口同音にこう言って、受験勉強に励んでいる。「新校舎は、教室からの眺めが素晴らしいので、外の景色が目に入ってくることがあります。授業中なのにね」▼4。エアコンが完備されたが、実は、まだ1度もエアコンを稼働させていない。風が通り抜けるからである。新校舎は、丘の上にある、風通しの良い学校となっている。
 栄光らしい工夫がほかにもある。職員室の壁が取り去られたのだ。この職員室の隣がラーニングスペースとなる。そこはトップライトが開けられ、光が射し込んでいる。自習したり、教師に質問したり、話し合うなかで深いところにある答えを探り出していくこともある。さらに、寝そべったまま本を読む生徒もいた。それは木からつくられた床だからこそ可能なことでもある。隈はこう明かす。

僕が小学校4年生の頃、突然、小学校の校舎が鉄筋化しました。校舎が木造校舎から鉄筋コンクリート造に変わったことは、僕にとっては残念な思い出です。床一面に塩ビシートが貼られ、寒々しい校舎になってしまった。それに対して、木造校舎は、床の質感が抜群でした。床のあの木の質感を、今でも覚えています。▼5

 こうした建築家の記憶は、栄光の後輩たちによって書き加えられている。
「一学年の生徒数は少なく180名程で、栄光学園の特徴と言えば、教師と生徒の関係が密接で、家庭的な雰囲気があるところです。昼休みも放課後も、教師のもとに生徒がどんどん来る」と林副校長は教えてくれた。開園当時から少人数制の学校であり、神父たちが教員となって各教科を担当した。神父たちは面倒見が良く、いろんな相談事にも応じた。隈が通った1970年代初頭、教員として世界中からやって来た神父たちが勢揃いしていた。

ドイツ人、スペイン人、アメリカ人、メキシコ人と、多彩でした。彼らは十分すぎるくらいに人間臭くて、弱点だらけの、愛すべき人達でした。僕の家にも、しばしば神父様が遊びにきてくれました。一生独身を貫き、神に人生を捧げた人達というと恐ろしげですが、彼らは、実に愛すべき、楽しい人達でした。ビールを飲んで、母の家庭料理を食べて、最後は僕の家の小さなお風呂にまで入っちゃうのです。▼6

 昔も今も、彼らの面倒見が良いことは確かであるが、神父たちと隈は、より打ち解けた間柄になったようだ。隈は、彼らのおかげで、言葉の壁を乗り越えることができたし、キリスト教に対する違和感を持たずに建築家の道に入ることができた。
 新校舎の竣工祝賀会の壇上に立つ隈は、栄光の卒業生や神父たちに囲まれている。喜ぶ気持ちを隠しきれない隈の、うつむいて口を尖らせる少年のような姿があった。

黙想の家で死に向き合う
 栄光学園には、もう1つの体験がある。隈は、次のように回想している。

人生のこの時期に、イエズス会というユニークな宗教に出会えたことは、とてもありがたいことでした。なかでも、自分にとって貴重だったのは、高校1年の春の、「黙想の家」での体験です。▼7
ポカラの大木神父と一緒に過ごした3日間は、僕の一生の財産です。▼8

 栄光生たちのたわいないトピックスのなかに「黙想は極めつけだ」という話があった。この話を聞き、隈は、上石神井にあるイエズス会修道院の「黙想の家」で、大木神父が説教する黙想会に参加することにした。それは修道院の高い塀のなかで、隔絶された静かな3日間である。3日間は、ずっと黙っていなければならない。口を開くことは禁じられている。しんと静まり返って、物音一つしないなか、大木神父の底知れぬ声が響き渡る。「人は必ず死ぬ」という内容である。
 「10代の日常に、死と向き合うことなんてほとんどない」にもかかわらず、「死の話をがんがんされて、「ああ、俺、もう、死ぬんだ」という気持ちになる。いよいよ怖くなった」▼9そうなのだ。10代の若者が死ぬことを考えるのである。
 「その声を聞いただけで、この人は本気なんだ、生命をかけて、このどうしようもない幼稚な子供達に何かを伝えようとしていることが伝わって」▼10と隈は、さすがに見抜いている。しかしそれだけではなく、隈は戸惑っている。隈が戸惑うのはなぜだろうか。
その人の背景を知ることで、これらの手がかりとしよう。太平洋戦争末期、人間魚雷「回天」の特攻に志願した若者が、栄光学園で倫理の教科を担当した大木神父である。

海軍に入ったとき、私は死ぬつもりでした。自分に神様からの召し出しがあるとは確信できなかった。だから、一番危険なところに身を置いて、それでも生きて帰ることができたら、これは召し出しの証だ。神様は私を使おうと思って導いてくださったんだと、そう考えようと心に決めたんです。ちょうどその頃、教会の中でも特攻隊のことが話題になっていました。▼11

 戦局が日増しに悪化した1944年夏、入隊先である広島の海軍潜水学校で、大木青年の前に一基の魚雷が横たわっていた。それが「回天」だった。特攻兵器「回天」は魚雷を改造し、魚雷のなかに人が入り、潜水して敵艦に近づき、体当たりする兵器である。上官が「お前たちは幸せだ。一億円もする棺桶に入れるのだからな」と言う。それからは死と隣り合わせの日々である。
「「行く覚悟のある者は申し出よ」と言われ、私は「これだ」と思いました。神父になれないのなら天国に行くんだ、と本気で志願しました」▼12と大木神父は当時を振り返る。優秀な隊員から出撃搭乗員に選ばれ、「回天」を載せた潜水艦で作戦海域へ向かった。訓練中に同期生が命を落としても、「もったいない」と思うだけで、悲しむ気持ちはない。選抜されないと本気で残念に思った。そして終戦を迎えた。
 終戦時の思いは複雑である。出撃できなかった無念と、解放されるという思いが交錯した。「しかたがない。神父になるんだ」と決意した。玉音放送の後、基地内で銃声が聞こえた。何人かの隊員が「回天」の前で銃口を頭に当て、自殺していた。復員後、イエズス会の神父となった大木青年は、栄光学園と広島学院で、倫理の教師として教鞭を執った。その後、ネパールに渡って、約30年の間、ポカラというヒマラヤ山脈の麓の町で障害者のための教育施設を運営し、障害者の自立を助けている。ポカラの彼は、貧しい人々のなかで暮らした。2009年に帰国し、6年後に帰天した。その生涯は激動のなかにある。
 栄光学園時代には厳格な教育を行い、生徒たちにかなり恐れられる存在だったという。大木神父による生活指導を「反動的だ」と反発した者もいる。自らのキリスト教に関する関心の源泉だと考え、ネパールまで会いに行った栄光の卒業生もいる。ポカラで神父と面会し、初めて実践神学の見地から彼が解放の神学のシンパであったことを知り、イエズス会の内部では異端的な立場だったことを了解した生徒もいる。こうしたシャルダンの進化論や「死海文書」までも中学生に紹介した神父から、隈少年が感じたことは何だろうか。正確なことはわからない。しかし、1つのエピソードがヒントを与えてくれる。
 終戦が間近に迫るなか、大木青年は出撃命令を待っていた。死ぬことを自分なりに受け入れていた。同じく出撃命令を待つ若い隊員は400名程だった。そのうち、出撃を志願しなかった者は6名である。「この6人は、志願した我々よりも偉大だったことが後になって分かってきました」と神父は語る。

6人は、みんなが寝た後で呼び出されるんです。そして士官室で、「貴様、それでも日本人か」と殴られて、蹴飛ばされる。……みるみるうちに顔が丸くふくれていきました。ボールみたいに腫れて、目の白いところまで黄色になっていった。それでも彼らは「平和日本の再建のために生き残らなければなりません」と言い、屈しなかった。その時期に、その言葉を使ったんですよ。「平和日本の再建」と言ったんです。そして最後まで頑張った。最後というのは、8月4日。原爆投下のすぐ前でした。▼13

 広島の原爆投下で被ばくした大木神父は、こう話している。

彼らは、特攻を志願した我々よりも、ずっと崇高な心を持っていたと思いますね。我々は破れかぶれだった。▼14

 しかし、彼らも行くところがなかった。故郷に帰ることもできない。戦後になって、この6人の行方を調べるように、大木神父はわざわざ新聞社に頼んだが、結局のところ、何もわからなかった。大事なことの意味は、ずいぶん後になってからしか、わからないのかもしれない。   
神父の生涯は、まさしくそれを明示している。
 隈研吾は15歳の春に「黙想の家」で大木神父と3日間を過ごした。それは12歳から18歳までの多感な時期の中高一貫教育である。なぜ「中間体操」を行うのかとの質問に、「最初はやっていることの意味がわからなくても、毎日参加するなかで、そこに自分で意味を与えることが大切なのだと生徒に説明する」と林副校長は応じた。栄光生は新校舎でそれを少しずつ学んでいる。隈は母校への思いをこう明かした。

人間同士は、お互いに響き合うところがあります。こちらが相手に優しくすれば、相手も自分に対して愛情を持って対面する。そんな感情が、他人から押し付けられたものではなく、自分の中から自然に出てくるような感じがします。それを学べたのは、栄光時代でした。▼15


▼1 養老孟司、隈研吾『日本人はどう住まうべきか?』新潮文庫、2012年、6頁
▼2 前掲、隈『僕の場所』、153頁
▼3 栄光学園による隈研吾へのインタビュー
▼4 著者による栄光学園へのインタビュー(2017年7月27日)
▼5 隈研吾、基調講演「つなぐ建築」(more trees シンポジウム「都市と森をつなぐ」、2017年12月26日)
▼6 前掲、隈『僕の場所』、150頁
▼7 同前、156頁
▼8 同前、158頁
▼9 養老孟司、隈研吾『日本人はどう死ぬべきか?』日経BP社、2014年、203頁
▼10 前掲、隈『僕の場所』、157頁
▼11 大木章次郎語り下ろし製作委員会『大木神父 奮戦記』小学館スクウェア、2011年、35-36頁
▼12 同前、39頁
▼13 同前、39-40頁
▼14 同前、40-41頁
▼15 栄光学園による隈研吾へのインタビュー

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