「A Last New Year」第二回


 ……麻績子(おみこ)は目覚めた。が、ベッドや布団の上ではない。体の下は埃と煤に汚れた硬い木の床だ。見廻すとあたりは薄暗く、しかもところ狭しと蜘蛛の巣がいっぱいに垂れさがっている。廃屋? そもそもどうしてこんなところに……そこでようやくぼんやりと思い出した。そうだ、藤助(とうすけ)たちと一緒に鎌倉の六合廷(くにがてい)神社に初詣がてら近在地域の取材に訪れ──いやそれは表向きの理由だったが──そこでとんでもない有為転変に巻き込まれたのだった……記憶の最後にあるのは、あの広壮な洋館──葉原(はばら)邸だ。あそこでさまざまな妖怪変化に襲われ、挙句に自分だけ攫われたのだ。その攫った妖怪というのは……?
 ……鵺だ! 果たせるかな、その鵺が目の前数メートル先にいた……バーカウンターのような台の上で胡坐をかいている。人間とは違う角度に曲がった獣のごとき後ろ肢を人間そのままに巧みに組んで。一方前肢は──あの前肢こそが長くのびて麻績子の体に巻きつき攫ったのだが──今は相応の短さに戻り、胸の前で組んでいる──これまたあたかも人間のように。
 両肩の上にわずかに覗いている突起物は、折りたたまれた翼の上端にちがいない。それがあるから獲物を一気に遠くへ運び去ることができるわけだ。蝙蝠のような飛膜ではなくて、羽毛の生えた鳥の翼に似ているが……説話などで語られたり描かれたりする鵺にあんな翼があっただろうか? でも〈ぬえ〉の漢字の部首は鳥だし、事実鳥の妖怪とする説もあったような……
 だが何よりも奇怪なのはやはり顔だ。たしかに日本猿に似ていると言えなくもないが……しかしまばたきしない目といい鱗めいた皮膚といい、見ようによっては爬虫類のようでもあり、あるいはまた口の部分が妙に飛び出している上に角質めき、まさに鳥の嘴を思わせもする。あるいはさらによく目を凝らせば、細かいところで地球生物にはありえない特徴が垣間見えるようで──どこがそうと意識的には特定できないにもかかわらず──ひょっとすると人間の認識力では完全には把握することの叶わない、この世ならぬ相貌であるのかもしれない。恰も神の名が──邪神も含め──人間の表現力では発音も表記も正確にはできないと言われているのと同断に。しかしそうである一方で──
 ──全体の印象からいちばん連想されるものはなぜか人間なのだ。
 すると麻績子がそう思ったまさにそのとき、さながら心理を読んだかのように鵺が話しかけてきた──人間の言葉、それも紛れもなき流暢な日本語で。
「やっと目が覚めたようだな、多海(たみ)麻績子。ここがどこか判るか?」
 声の質には何ともゾッとさせる曰く言いがたい淫猥な調子が濃くあるが、言葉は奇妙なほどはっきりと聞きとれる。ここがどこかと問われて、麻績子はこの場をあらためて見廻すべく、体を起こそうとした──が、何とか起こせはするものの万全に思いどおりにはいかない。今さらに気づいてみると──
 ──両手をロープで縛られているのだった。左右の手首をくっつけ合わせて幾重にもぐるぐる巻きにされた上に、煤と油脂めく汚れにまみれたロープの一方の端がゆるやかに上へとのび、天上の暗がりに消えている。理不尽に攫われてきたのだから逃げられないよう拘束されているのは当然としても、ロープが手近なところに結びつけられているのではなく、はるか上方に繋がれているらしいのが不安を誘う……
 ともあれ、問われるまでもなくこの場所がどこなのかは気になるから、薄闇と蜘蛛の巣と漂う埃の中へ視線を巡らすと、どうやら普通の部屋ではなくて、何かしら店の内部、もっと具体的に言えば、たとえば謂わゆるライブハウスのような施設かと思える。と言うのは、麻績子が囚われている一段高くなったところがステージで、真向いの奥で鵺が坐りこんでいるカウンターが飲食物を提供する一画であり──事実カウンターの背後の棚には少ないながら酒瓶らしきものが埃をかぶって並ぶ──そしてその両方に挟まれた真ん中の広いスペースでは、脚が折れたり板が割れたりしたテーブルや、錆びて曲がったパイプ椅子などが散在し、それらがこの場をライブハウスかと思わせるいちばんの要素になっている。
 そう思ったとき、もやもやとしていた記憶が麻績子の中でカチリと何かに嵌まった。
 ここは他でもない……H・P・ラヴクラフトを記念する邪神忌と聖誕祭が毎年開かれていた場所──阿佐ヶ谷ロフトだ! が……あのロフトがなぜこんな廃屋に?
 すると鵺がまた心理を読んだらしく口を開いた──牙のような鋭い歯の並ぶ淫怪な口唇を。
「ふふふ、そう、ここは阿佐ヶ谷ロフトだ。この店は小賢しい邪神忌や聖誕祭を性懲りもなく続けすぎたのがまずかったな。ラヴクラフトという作家はわれわれCCDにとって決して好ましい存在ではない──いやそれどころか、われらのことを徒に人心に知らしめすぎた愚かで邪魔なやつだった。それゆえにわれらの仲間によって秘かに始末された──もちろんおまえたち人間の歴史上ではそうは記されていないはずだがな。とにかくそんな男を神のごとく崇める邪神忌や聖誕祭などをいつまでも漫然とやらせておけると思うか? 他ならぬこの鵺が昨年八月の聖誕祭に、ここを一夜にして蜘蛛の巣だらけの廃屋に変えてやった──もちろん、あの森瀬と朱鷺田という許しがたい主催者どもをはじめ、中沢・吉田・木口・青木・鷹木・海野・佐藤(和)といった哀れな参加者どもも一網打尽にして、二度と生きては出られぬ狂気山脈奥地の奈落の底に閉じこめてやったわ。この国では平成とやらが終わる時節だそうだから、大掃除代わりになってちょうどよかっただろうよ、ふははははは」
 そうか、昨年後半から何だかクトゥルフ神話界隈が沈滞化したと思ってたけど、そういうことだったのね──と麻績子は思った。尤も彼女自身はある事情があってこの前の生誕祭には参加できなかったが、皮肉にもそれが幸いしたことになる。もしあのときここに来ていたら、今頃は中沢たちもろともにショゴスの餌食にされていたところだった。
「ふははは、まあそういうことだな。だが本当に幸いだったかは疑問だぞ──たった今こうしてこの鵺によって囚われの身となるよりは、ショゴスに喰われたほうがまだしもと悔いることになるだろうからな、くっふふふふ」
 それほどの悍ましい死よりももっとひどい目に遭わされるというの? 麻績子は少しでも時間稼ぎをするために、いや実のところそれ以上に内に秘めた本当の目的のために、話題を変える手に打って出た。
「そんなことより、あんたさっきたしかCCDと言ったわね? それってクトゥルフ眷属邪神群すなわちクトゥルフ・サイクル・ディーアティーズ、つまり言い換えれば旧支配者=グレート・オールド・ワンズのことよね。あんたはその世にも気味悪い姿かたちからして、日本古来の妖怪〈鵺〉のように見えるけど、鵺が旧支配者だなんて聞いたことないわ。いい加減なことを言って自分を大きく見せようとしてるだけなんじゃないの?」
「ふっふっふ、案の定気の強い女だ。そんな苦境に陥ってもこの鵺さまに鎌をかけてくるとはな。いいだろう、教えてやる。鵺の字はこの国ではもともとは〈や〉と読み、夜中に気味悪い声で啼く謎めいた野鳥を意味していたが、それが『平家物語』などに出てくる名前のない怪物に結びつけられ、そちらを指す字となった。そこになぜ〈ぬえ〉という読みが充てられたかと言えば、地球人には未だ知られざる旧支配者の一柱ヌ=ヱを表わすために、伝承の中にその名を秘かに紛れ込ませたがゆえなのだ。そしてこの俺さまこそがそのヌ=ヱの正体だというわけさ」
「へーえ、ヌ=ヱね……その話が仮に本当だとしても、きっととてもグレートとは言えない、さして力のないサブ・オールド・ワンズといったところなんじゃないかしら?」
 麻績子が敵を苛立たせるだけでしかない台詞を吐くのは、しかしただの強がりではない。黙ったまま恐れをあらわにすればこちらの弱みを見せるだけになり、ますますそこに付け入られるだろう──何をされるにせよ。それよりは少しでも相手の気持ちを乱れさせるほうが、些少の隙なりとも掴めるかもしれないと考えてのことだ。
 鵺はもちろんそんな麻績子の作戦までも読みとりはしたはずだが、にもかかわらず目の隅がピクピクと引きつるのを止められなかったようだ。
「くっふふふ、相変わらずいい度胸だな。だが俺を怒らせても何にもならないことを、いやそれどころかますます苦い悔いの涙を流さねばならなくなることを思い知らせてやる」
 鵺はそう声を軋らせると、バーカウンターの上にさがる長い紐をぐいと引っぱった。
 作動レバーの役目を持つものとおぼしく、麻績子の両手首を縛るロープがずずず、と引きあげられはじめた。汚れた床にしどけなく横たえられていた上半身それから下半身が、ロープの上昇につれて徐々に起こされていく。ぐるぐる巻きにされた手首が痛むだけでなく、頭上へまっすぐのばされた両腕の付け根となる腋の下やその下方の脇腹にまでも、筋や肉が張り詰めるせいで鋭い痛みが走る。やがて両脚が直立の姿勢になり、ついには左右ともに足裏が床を離れて宙吊り状態になった。いちだんと強まる痛みにたまらずきつく眉根を寄せ、思わず脚をバタつかせた。膝丈の巻きスカートがよじれ、切れ目からむっちりとした太腿がちらちらと顔を覗かせる。
 それを予期していたに相違ない鵺は、醜い目にいっそうの卑猥な光を帯びさせると、下半身の力強い筋肉を使ってカウンターの上からパッと跳躍し、翼を使う要もないまま数メートルの距離を雑作もなく翔んでステージに降り立った。そして屈み込み気味に麻績子の股間を見あげる形になった。
 と思うと、蛇の鎌首の形をした尾がさっと振りあげられた。蛇の口先からふた又に岐れた赤い舌がちろちろと突き出る。尾は空中でくねりながらゆらりと傾き、麻績子の片方の太腿にぴたりと貼りついた。
 その感触の気色悪さに、ううっと低く呻きながらさらに脚を振るが、蛇形の尾は離れることなく、肌を撫でるように細かくうねりながら上へと這い進んでくる。
「あっ、あっ」われ知らず艶めかしい喘ぎ声を洩らしてしまった。
 腿をしっかり閉じ合わせて蛇の進行を阻もうとするが、ぬらぬらとした鱗の滑りは防ぎようがなく、閉じれば閉じるほど左右の肌をもろともに愛撫されることになり、悍ましくも被虐の電流が全身に駆け巡らずにいない。
「くっくっくっ」期待していた光景を眺められていよいよ喜悦を高めたかのように、鵺は淫猥な忍び笑いとともに舌舐めずりした。「生娘でもあるまいに何をあらがう? 減るもんじゃなし、この際覚悟を決めてお互い楽しもうじゃないか、え? くっくっくっくっ」
 冷たい脂汗が麻績子の額にあるいは頬に滲む。いくら生娘でなくても、こんな物の怪に貫かれたらその瞬間からもうまともな人間ではいられなくなるだろう。まして鵺の仔なんか孕ませられでもしたら、ラヴィニア・ウェイトリーの悲劇を身を以て味わわさせることになるかも……
「ぐっはははは、心配するな。この鵺さまはおまえの体を使って子孫を増やそうなんていう姑息な考えは持ち合わせていないさ。ただ純粋に人間の女を楽しみたいだけでな……」
 何が純粋よ、薄汚い化け物のくせに!──麻績子が脳内で罵った瞬間、それを読みとった鵺の尾が鎌首をぐいともたげ、股間の奥の中心へと狙いをさだめた。そして一気に──
 ──「ぎゃあああああああああ!」そう叫びながら体を蛇に貫かれたのは、しかし麻績子ではなく鵺自身だった!
 ステージ上に立つ鵺の腹部から、大蛇の胴体のごとき太く長い物体が生えていた──否、生えているのではない、鵺の尾とは比べ物にならない長大な蛇体が腹に喰らい込み、一挙に穿ち抜いたのだった。時を置かず大蛇がぐわっと腹から頭を引き抜くと、その口には引きずり出された鵺の内臓のすべてが咥えられていた──胃腸から肺から心臓に至るまで。そしてその口を具える蛇体の頭部は……巨大な豚の顔を呈していた。
「ぶ……豚蛇……きさま……」腹部にぽっかり大穴を空けられ瞬時に体内を貪り喰われた鵺は、瀕死の声でそう呟くと同時に、抜け殻となったようにもんどりうってステージ上から転げ落ちた。
「ふふふ、迷わず成仏しろよ鵺。この女は俺がちゃんと面倒を見てやるから。ふっふふふふ」
 豚蛇は鵺にもはるかに勝る卑猥な声でそう嘯くと、モンゴリアン・デスワームかはたまたクトーニアンかとも思わせる長大な蛇体をうねくらせ、悪辣きわまる邪豚(やとん)さながらの顔を麻績子の下半身へと近づけていく。
「な、何なの、一難去ってまた一難ならぬ、鵺去って豚蛇ってわけ? いくら生娘じゃないと言ったって、あんたのそんなぶっとい蛇の胴体がわたしの中に入るわけないじゃないのよ!」麻績子が必死に金切り声をあげる。
「ふふふ心配するな、いくらガバガバのヤリ○ン女でも、俺さまのこの胴体が入るなんて思っちゃいないさ。これをよっく見るがいい」
 すると豚蛇の口からカメレオンのごとく細長い舌がするするとのびた。
「ななな何なのよ! まったくあんたたちって、尻っ尾だろうが舌だろうが何でも触手にさえすりゃいいと思ってるんでしょ! そういうのを馬鹿ならぬ邪神のひとつ憶えって言うのよ!」
「ふふふ、まったく可愛げのないところが珠に瑕の女だ。カラダは艶めかしいくせに、口から吐くことは蓮っ葉この上ない。まあそこがいいってやつかもしれんがな、ふふふ。それでもたまには、嘘でもいいから『あれーやめてーお嫁に行けなくなる―』とか何とか、TPOに合った台詞を言ってみちゃどうだ?」
 豚蛇はそう茶化すと、長い舌をさらに長くのばし、麻績子のむっちりした左右の太腿に代わるがわるくるくるくるくると巻きつけた。そして鋭く尖った先端が股間の中心にぴたりと狙いをつける。
「ややややめろこのヘビブタ! そこから先ちょっとでも変な動きをしたら絶対許さないわよ! その頭を酢豚にしてその胴体を蒲焼にしてやるから覚悟しなさい!」
 するとそのときどこからともなく甘い薔薇の香りがふわり、と漂ってきた。
「おっ。ふふふそんな憎まれ口を叩きながらも、おまえの大事なところからはちゃんと男を誘う淫香が湧いてきてるじゃないか。それでいいのさ。鵺も言ってたが、どうせ減るもんじゃなし、この際お互いたっぷり楽しもうぜ、ふふふふふふふ」
 ところが次の瞬間には、香りのみならず薄桃色をした薔薇と人を併せたような細長いものの群れがふわりふわりと漂ってきて、豚蛇と麻績子の間の視界を半ば閉ざした。
「あっ、こ、これはまさか!」
 豚蛇がそう呻くのと同時に、宙に漂う人薔薇の群れの中からひときわ美しい一体がゆらりと進み出た。それは妖艶可憐な女人の容姿と顔貌を具え、身に纏うゴシック風の薄衣のフリルや裾を絶えずゆらゆらと微風に靡かせている。
「そのまさかよ、豚蛇。この人薔薇たちはRosa、そしてわたしは彼らを束ねるユラRosa──と言っても、葉原邸でこの麻績子さんに名付けられたからとりあえずそう名乗ることにしたまでだけどね。あなたといい鵺といい、抜け駆けをして自分だけ人間の女性を犯そうなどともくろむとは、地球征服の大望を前に団結しなければならないCCDの風上にも置けないわね。そんな不届き者はこうしてやるわ!」
 ユラRosaがしなやかな右手をすっとあげると、それを合図として無数のRosaの群れが一斉に豚蛇の長大な胴体といわず豚形の頭部といわず纏わりついていった。
「うわああああああっ、ばっ、ばっ、薔薇の香りがきつすぎて窒息するううううう!」
 人の形をしていたRosaたちが今や薔薇色の不定形の物体に変じ、豚蛇の口や鼻孔や耳の穴から体内へと侵入しはじめ、あるものは目にまで突き入って眼球を薔薇色に変えた。さらに他のものたちは胴体に巻きつき絞めあげはじめた。
「ぐえええええええっ!」
 豚蛇が長い舌を宙に振りあげて苦悶の声を吐くと、ユラRosaが今度は両腕を目の前でぐるぐると廻すように動かしはじめた。するとその円運動の中心から何か巨大なものがドオッ!と出現し、パックリと大口を開いた。それは葉原邸でも現われた巨大な蠣(かき)だった! 開いた蠣の殻はRosa軍団が絡みついたままの豚蛇の頭にカブッと咬みつくと、内部の肉塊状の蠣の身をぬめぬめと動かして、豚蛇の顔をでろでろと舐め廻した。
「ひ、ひえええええ気持ち悪いいいっ! やめてくれえええ生蠣が食えなくなるうううう!」
 本音とも咄嗟の冗談ともつかない豚蛇のそんな嘆願にかまうことなく、巨大蠣は長大な蛇体をずるずるずるずるっと丸呑みにしていく。そうやって豚蛇の全身をたちまちのうちに平らげてしまうと、少しだけもぐもぐとやったのち、店の出口へとゴゴゴゴッと移動していった。そして嘗てはイベント受付場所だったこれまたバーカウンター付きのロビー風の一室──ここも今は蜘蛛の巣だらけの廃空間と化している──を通り抜けて階段をあがっていき、ついには阿佐ヶ谷ロフト店外で長いアーケード街をなすパールセンター通りへと抜け出していった──蠣の殻の中に閉じこめた豚蛇をもろともにして……
 バタン、バタン! 階段下の出入口ドア、そしてロビーと店内を繋ぐドアがともに独りでに閉じられ施錠された。
 店内には麻績子とユラRosaのみが残された。ユラRosaが両手を胸の前で何やら儀式的に精妙に動かすと、麻績子を天井から宙吊りにしていたロープがするすると引きおろされ、両手首のいましめまでもするりとほどけた。
 麻績子はステージ上にしどけなく倒れ込んだ。手首にはかすかに痣ができているが、体にさしたる傷はなくて済んだ。そうと確かめられて安堵の息をついたのも束の間、すぐあとには目の前に立つ異形の女人へ鋭く視線を投げずにはいられなかった──一見助けられたような形にはなったが、このユラRosaなる女怪もCCDの一柱にはちがいないのだ。
 ところがユラRosaはにっこり微笑むと、「心配しなくていいわ。わたしはあなたの味方よ、麻績子さん」
「味方ですって? そんな陳腐な常套句に簡単に騙されると思う? 葉原邸ではあんたも豚蛇やZephyrosや這い寄るアンズやMaや向イ林や鵺と一緒にわたしたちを襲ってきたんじゃない! どうせ下級CCDの足の引っ張り合いでしょ。そんな些末事に付きあってる暇はないのよ!」
 するとユラRosaの笑みがいちだんと妖しいものに変わった。
「ほんとにひと筋縄ではいかない人みたいね、ますます気に入ったわ。でも味方だと言ったのはほんとのことなの、そしてそれには深い意味があるのよ。まあいいわ。とにかくこのままここにいてもまたいつやつらが襲ってこないともかぎらないから、安全なところに移りましょう」
 そう言ってユラRosaがまたも片手を一閃させると、薔薇色のRosa軍団がわさわさわさっ、と迫ってきて麻績子の体をぴたりととり巻き、宙に浮かせた。
「ななな何をするのよ! あんたこそこの変な人薔薇どもにわたしをマワさせようっていうんじゃないでしょうね?」
 そう悪態をつくうちにも、麻績子の体はRosa軍団によって目にもとまらぬ速さで空中移動していった。阿佐ヶ谷ロフトの廃屋から瞬時に脱して、人けのない深夜のパールセンターを猛然と駆け抜け、あとはふた昔前のテレビの砂嵐の画面のように風景の判然としない超高速移動状態に入った。……

 ……気がつくと、まったく別の場所に来ていた。またも屋内だが、今度は少しも見憶えのないところだ。やはりバーカウンターがあって、わきの壁ぎわにはテーブルがふたつありそれぞれに椅子が並ぶ。こちらは廃屋ではなくて現役の店らしく、蜘蛛の巣などはひと筋もなくどこも綺麗だ。尤も新しい店というわけでもなく、あちらこちらに古雅な雰囲気を醸す趣味が表われている。そういう場所で麻績子は止まり木のひとつに腰をおろし、バーカウンターに顔を突っ伏した姿勢で気を失っていたのだった。
「お目覚めのようね」
 そう言ってカウンター内の奥のほうから近づいてきたのは、あのユラRosaだった。薔薇色系のいでたちだった阿佐ヶ谷ロフトのときからは服装が替わって黒系のゴスロリ風衣裳だが、女怪めいた妖しいオーラは薄れ、より人間味あるいは実体味が増している。そう思うと麻績子はわれ知らず些少ながら安堵を覚えた。
「これをお飲みなさい。いちだんとスッキリするわよ」
 ユラRosaがカウンターに置いたのは、淡い薔薇の色と香りを湛える液体の入ったワイングラスだ。
「大丈夫、毒とか自白剤とかは入っていないから。うちの幽雅くん特製のローズティーよ」
 ユラRosaがちらと流し目を送った先のカウンター内の奥では、黒ずくめの細身の人影が厨房仕事をしているところのようだった。幽雅くん……と呼ばれたその人影は肩越しに半ば振り向きこちらへ視線を投げたが、店主の女人とはまた異なる妖しい美貌を具えたその人物は、一見したところでは男とも女とも判別しづらい──が、〈くん〉と呼ぶからには男性に相違あるまい。
 ともあれ、ひどい喉の渇きが続いていたことを思い出した麻績子が、恐れも忘れてグラスの液体を呷ると、意外なほどの爽やかな潤いと芳香が口中から喉に至るまでを瞬時に満たした。
「……たしかにいくらかはスッキリしたみたい。で──ここはいったいどこなの? と言うより、初めはあいつらと一緒に襲っておいて最後に助けるとは、あんたはいったい何者?」
 ユラRosaは手慣れた所作でグラス拭きなどをしながら、苦笑らしく唇の端を歪めた。
「そうね、葉原邸では悪かったわ。でもあそこではああするのが最善だったのよ。あなたたちを襲ったあいつらは本当のCCDではなくて──鵺は不遜にもそう僭称していたけど──実体は下級の卑しい使い魔どもにすぎないの。いざというときには戦力として役立つこともあるからあそこで飼ってはいるけど、何かというとすぐ勝手な振る舞いをする困った連中なのよ。それでも何とか手懐けておかないといけないから、わたしも一緒になってあなたたちを襲うようなふりをしてみせなければならなかったというわけ。その点は一応お詫びしておきましょう──と言っても、もとはと言えばあなたたちのほうが勝手に侵入してきたのが原因なのだから、不本意なのはお互いさまな面があるのだけど、まあこの際そんな無駄な繰り言はよしにして、前向きな展開にしたいものよね。
 ……というところで、ようやくあなたの質問に答えましょう。ここは《哲学者の薔薇園》と言って、わたしが人間の姿を帯びているときにときどきやっている特殊喫茶店よ。但しこの場所自体は人さまが経営する《喫茶怪奇》というお店兼レンタル空間で、月に一度だけわたしが借りて看板をかけ替えるの。なかなかいいお店でしょう。地理上でも隠れ家的なところにあるし、店内もご覧のとおり広く、そっちのテーブル側の壁の向こうには別室があって、ちょっとしたイベントもできるようになっているのよ──わたしが専門とするオカルト方面の朗読会とか儀式会とか……」
「ふうーん」と麻績子は疑念と不審を隠さない表情をこれ見よがしにあらわにして、「何だか自分だけは他のやつらと別格だと言いたいみたいだけど、そんなこととてもアラそうですかとは真に受けられないわね。だいいち、さっき『人間の姿を帯びているとき』とか言ったけど、ってことはあんたもあいつらと同じ人外の存在だと認めてるじゃないのよ。使い魔であれ何であれ、化け物にはちがいないでしょ──そもそもあんな薔薇人間軍団を操ってわたしをこんなところまで運んできたのが何よりの証拠よね」
「そうよ、べつに隠すつもりはないわ」とユラRosaは開き直るように──と言うより誇らしげに胸さえ張って、「では、これでどうかしら?」
 そう言ってフリルの多いゴスロリ帽子をふわりと脱ぐと、まとめあげていた長い髪がさらさらっと肩下まで降り、ハッと息を呑ませる新たな美貌があらわになった。美貌……あるいはその知性美の伴う可愛らしさは、一瞬にして麻績子の記憶のスイッチをバチンと弾き入れるものだった。
「あっ、あんたは……伊藤……いえ、イドラ……つまりイドラ講の崇める主神に他ならないじゃないのよ!」
 何と……このユラRosaこそが、当初病院の事務員伊藤を名乗っていた女性、而(しか)してその正体はカルト教団を配下に従える本物のCCD=旧支配者の一柱だったのだ!
「ほほほ、今までまったく気づかずにいたとは、有象無象のような他の同行者たちとは一味違う眼力を持つ女性だと睨んだわたしの読みが甘かったのかしら? でもまあ、あんな鵺とか豚蛇とかの卑しい使い魔どもに犯されかけてパニックに陥っていたことを思えば仕方ないかもね。そうよ、わたしはあなたのことをとても見込んでいるのよ麻績子さん」
 ユラRosa──いやイドラ──はだしぬけにカウンター越しに身を乗り出したと思うと、麻績子の両頬に左右の掌をさっと素早く且つ優しく添え、愛らしい顔を近づけて目をじっと覗き込んできた。そしてあまりの唐突さに驚き震える麻績子の唇に触れるほど近づけた口で囁いた。
「実はね、麻績子さん、あなたを助けてここに連れてきたのには大切な理由があるの。この伊藤という女性──つまり今現在わたしが人間としての容貌を借りている人──は実在の病院事務員で、勝手に創りあげた架空の存在ではないの。本来のわたしはイドラ講の人々に信仰される女神でいればいいわけなんだけど、それだけでは人間たちを従えていろいろなことをするのにどうしても都合が悪いから、伊藤という女性に憑依してその体を操って行動したり、あるいはまたときにはこういうゴスロリの格好をして《哲学者の薔薇園》でオカルトを実践することにより人々に秘かに教義を広めたりもしなければならないのね。でも架空の人格をでっちあげてしまっては、役所の手続きとか銀行借り入れなど〈れっきとした人間〉としての存在証明を必要とする行為ができなくなっちゃうから、それで相応しい知性にも美貌にも秀でた伊藤という信頼できる女性を選ばなければならなかったわけ。でも近頃になってこの女性の両親とか周囲の人たちに不審な挙動を怪しまれるようになってきたから、そろそろ憑依人格の換えどきかなと思うに至ったの。でもわたしは決して悪い女神ではないので、この人の知らないうちにとり憑いたりしたんじゃなくて、ちゃんと本人に話を持ちかけ了承を得た上で人格を借りたという経緯なのよ。だからこの人の肉体から抜け出すときも、邪悪なCCDたちのように依り代にした人間を口封じのために殺したりするのではなく、先行きの安全まで図って生存させ続けるつもり。
 とにかくそんな事情で、この〈伊藤さん〉の代わりになる人材を探していたところだったの。そこに折しもあなた──〈多海麻績子さん〉という相応しいにちがいない人──が現われてくれたから、渡りに舟とばかりに接触させてもらったわけなのよ。葉原邸で襲いかかったわたしたち妖物に次々と適切な呼称をつけていったあたりにもあなたの並々ならない知性が窺えたし、鵺と豚蛇という名うての〈好き物〉使い魔たちを色情に狂わせた女としての魅力からしても、まさにこのわたしイドラの〈容れ物〉に相応しいと見てとれたわね。そこで、どうかしら、あなたに決して損はさせないから、この〈伊藤さん〉の代わりに、次期なるわたしの依り代になってくれない?」
 長広舌にじっと聞き入っていた麻績子は、懸命必死高速に考えを巡らし、叶うかぎり素早く口を開いた──迂闊に逡巡を見せては付け込まれるだけと思えたから。
「いきなりそんな話を持ちかけられて、それは結構ですね判りましたどうぞ心置きなく──なんて簡単に承知できると思う? あんたの依り代になって損はしないってどういうことなのか、いやそもそもそんなものになったらどんな境遇になって何をしなきゃいけなくなるのか、いえ何よりもまずあんた──女神イドラ──とはどういう存在なのか、数いるCCDの中でどんな位置にある邪神なのか、それを聞かないことには、承知するとかしないとか以前に、お話にも何にもならないと言うしかないわね」
 そんな要求に人類の敵CCDが応えられるはずがないと踏んだからこそ威勢よく切れた啖呵だったが、豈図らんや、イドラはまたも莞爾と微笑むと、カウンター内の奥で厨房仕事が片づいたらしくタオルで手を拭いている幽雅と呼ばれた人影のほうへ顔を向けた。
「あなたのことだからそう来ると思っていたわ。いいでしょう──幽雅くん、あなたから話してあげてちょうだい、わたしことイドラとはどんな神なのか、そしてその依り代となった人間は何をしなければならないかをね」
 すると幽雅がくるりとこちらへ振り向き、音もなくすすすーっと──足を動かさずまるで幽霊さながらに宙を浮いてくるかのように──カウンターのそばに立つイドラに迫り寄り、そのわきにすっと寄り添った。
 麻績子にとって初めて間近に見た幽雅は、息を呑むような美青年なのだった。体は驚くほど細身だが決して軟弱そうではなく、むしろ何かしらの強さを窺わせる凛とした佇まいを具えている。
「判りました──イドラ姫とは如何なる存在かというところからお話ししましょう」イドラ姫という呼び方が如何にもさり気なかったことからして、この二人はまさに姫と従者のような関係であるらしい。「まず何よりも大事なのは、ここにおわしますイドラ姫こそ、地球のすべての命の母たる豊饒の女神であらせられるということです。地球誕生のはるか前より存在し、この星が生まれてよりのちはそこに棲む人々を守りつづけてきました。世界各地でさまざまな形で信仰され、その局地性から往々にしてカルトと呼ばれますが、実はそれぞれの土地の豊作豊漁を支えてきたため、世界のどこでも信者たちが離れていくことはありません」
 麻績子は例の古本屋《慧依梵(エイボン)堂》で買った古書『素芭酉苦楼楼(スファトリクルルプ)大神信仰』を読んでいたからその程度のことならすでに知っていたものの、そうとは明かさずじっと耳を欹てていたが──不意に口を挟んだ。
「ちょっと待ってよ。ユラ──いえ、イドラ姫、あんたさっきたしか、自分で自分のことをCCDだと言ったわよね。CCDと言えばすなわち旧支配者。神々のくせに悪逆非道を働いたために善神軍たる旧神たちの怒りを買い、宇宙や地球のさまざまな辺境に幽閉されたものたちでしょ。でも幽雅くんの今の話からすると、地球人を守ったり豊饒の女神と呼ばれたりと、少しも悪神らしいところがないじゃないの。いいことばかり言って人を誑かそうなんて、やっぱり怪しいカルトの神だからこそとしか思えないわね」
「幽雅くんを今のうちからわたしと同じように気安く〈くん〉呼ばわりはしないで欲しいものよね。でもまあ近々そういう立場になってもらうんだから、大目に見ましょう。それより幽雅くん、今の質問にも答えてあげてちょうだい」
 イドラにそう促されて、幽雅がまた説明を続ける。
「今のご質問ですが、麻績子さん、僕はまだひと言もイドラ姫がCCDだとは言っていませんし、姫ご自身もご自分のことをそうだとはおっしゃっていませんよ──『鵺や豚蛇らは本物のCCDではない』とご指摘されただけで。事実、姫は当初からあのような下等なものたちと同類ではないのです。彼らよりも古くから宇宙に存在し、彼らより前から地球に関わってきた神なのですから。でも近年になって事情が変わってきました。信者以外でイドラ姫に着目し、姫を題材にして小説を書く作家が現われてからのことです。その名をウォルター・C・デビル・ジュニアというアメリカの怪奇幻想作家で、CCDをテーマとした小説世界すなわちクトゥルフ神話の祖とされるH・P・ラヴクラフトの影響下にあってその雰囲気や手法に依拠した作品群を著わしながらも、必ずしもクトゥルフ神話専属の題材や用語に拘泥することなく、むしろ独自の神格キャラクターや設定などを積極的に生み出している異才ですが、このデビル・ジュニアが自作の小説群にイドラ神を登場させ、と同時にその容貌や設定を実際のイドラ姫にかなり忠実に即して書き表わしているのです──具体的には「Where Yidhra Walks」「What Lurks Among the Dunes」「Predator」の三短篇がその該当作になります(但し日本語版ウィキペディアの「イドーラ」の項ではもう一篇「The Barret Horror」も挙げられていますがそれには登場していないように思われます)。しかもそれらの小説の出来がよくて、批評家たちに褒められたり怪奇ファンの間で評判になったりしたため、作中のイドラ神のキャラクターも徐々に人気を得て、ついにはクトゥルフ神話系のゲームにまで採り入れられるようになりました。そのせいで実際のイドラ姫もクトゥルフ神話の神格、つまり旧支配者=CCDの一柱と見なされるに至ってしまったわけです」
「ちょっと待ってよ」とまた麻績子が口を挟む。「『見なされるに至った』って、見なされただけなんだったら、あんなCCDの使い魔みたいな連中と一緒に行動するなんていう紛らわしいことしなくてもいいんじゃない? そんなことしてたら悪神の一味と見なされて、信仰を広める妨げになるだけじゃないのよ」
「たしかに形だけにもせよCCDと結託するようなそぶりを見せねばならなくなったことには、姫は忸怩たるものをお持ちでした」と幽雅が言い訳がましく答える。「ですが、クトゥルフ・ゲームのブームによってイドラ神=CCDという誤った認識がここまで広まってしまった以上、何とかしてそれを逆利用するしかありませんでしたし、実際のところひとたびそうやってCCDのごとく振る舞ってみたところ、あの愚かな使い魔どもがまんまと引っかかって配下に加わってきたので、これ幸いと使役することができるようになったし、何よりもクトゥルフ・ブームのお陰で信者数が──これまた人間たちの勘違いによるにせよ──飛躍的に急増しイドラ講の財務状況を潤わせることができたので、もうあと戻りできなくなってしまったのです。それに、旧支配者たちは地球征服を最終目標に掲げていながら、長い歳月をかけても未だその到達に成功していません。つまり彼らは悪神であるとはいえ、実は世に言われるほど恐れるべき存在ではないことが徐々に判ってきた──もちろんイドラ姫の強大な力に比せば、という範囲でのことではありますが──ので、これはしばらく共存関係を保っても、地球にとって且つ又イドラ講にとってさほど害にはなるまいと判断されたためでもあります。つまりすべては姫の尋常ならざる善意慈愛と深謀遠慮があってこそのことなのです」
「ずいぶん都合のいい善意慈愛と深謀遠慮もあったものね」と麻績子は鼻で笑い気味に、「とにかく今の説明だけでは、イドラ講とは善と悪の狭間で危うく成り立っているカルトだという認識を改めるまでには至らないから、いくら巨大な教団を率いる地位に就けるなんていう甘言を弄されても、ハイそうですねと簡単にリスクを背負うわけにはいかないわね。とは言えわたしもオカルト・ライターになるぐらいだからその方面に強い関心があるのは否定できないので、もっと確実に安全と利益享受を保証される要素を提示されれば、まったく考えてあげないってこともないではないわ。どう、こんなわたしを納得させられるだけの説得材料が、まだあんたたちに残っているのかしら?」
 するとそこでイドラがひとつため息をつき、ようやく再び自ら口を開いた。
「まったく抜け目のない人ね。でもそこがあなたを見込んだ理由のひとつでもあるから……いいわ、もっと決定的に惹かれざるをえなくなる条件を提示してあげましょう。つまりこういうことよ──イドラ講を率いる女神の地位に就けば、至高教典『ブラック・スートラ』をわがものとすることができるの」
「ぶらっく・すーとら? 何なのそれは?」と麻績子がすかさず問い返す。
「だからイドラ講の最高教典よ。宇宙の至上の為政者としてのイドラ神の最奥の秘密が記されているだけでなく、その書自体に強大な力が宿っており、持っているだけで世界を変えられるほどの無尽蔵の営為を行なうことができるようになるの。だから時には魔道書扱いもされるけど──とくにCCDと関連付けられて以降はね──事実はそれとは真逆の善道書なの。それによってこそイドラ神は──つまりはわたしのことだけど──大地に豊饒をもたらし人々に幸福を与えることができるというわけ」
「へーえ。で、その教典とやらはどこにあるの? 慧天寺?」と麻績子がたたみかける。
「いいえ、あそこは葉原邸に近くて、例の使い魔たちがわたしの目を盗んでどんな悪さをしないとも限らないから、敢えて置かないようにしているの。実はこの《喫茶怪奇》にさり気なく保管してあるのよ、オーナーさんにも気づかれないほどの何気なさでね。いちばん見つからないところはいちばん目につきやすいところ──『盗まれた手紙』の原理よ」
 そう言うとイドラはくるりと後ろを向き、カウンター内の壁ぎわの棚に並ぶ酒瓶類の間にまさにさり気なく挿まれている──恰も店内の装飾の一環風に──数冊の洋書らしき本のひとつを抜き出した。
 くすんだ黒褐色の古々しい布装の書物の外側には何も書かれていないが、イドラが丁寧に表紙をめくると、そこにはたしかに英語アルファベット文字で『Black Sutra』と記されていた。
「これは正確には原典の英訳書だけど、書かれている内容は同一だから、持つ力も同じだけ──」
 イドラが言い終わらないうちに、身を乗り出し鋭いまなざしで覗き込んでいた麻績子が、セーターのVネックからわずかながらあらわになっている──あの鵺や豚蛇らを惹きつけた部分のひとつでもあるだろう──胸の谷間にすっと右手をつっこんだと思うと、素早く何かをとりだし、さらに目にもとまらぬ速さでその何かをイドラの手にピシャリと突き当てた。
 アッと叫んだイドラはひるんで書物をとり落とした。その黒表紙がカウンターに触れる前に、麻績子の左手がさっと掻っ攫っていた。
 そのまま麻績子の体は忍者も斯くやという身軽さで後方へ高々とジャンプし、隣室を隔てる壁のきわのテーブル上にすっくと降り立った。
「なっ、何をするの? どういうつもり?!」眉間も険しくイドラが叫ぶ。〈何か〉を押し当てられた右手が痛むのか、左手で手首を押さえている。
 主神の突然の苦境に色めき立った幽雅が、こちらもまた忍びの者のごとくカウンターにパッと跳び乗るや、さらにテーブルめがけて跳びかからんと身構えた。が──麻績子がまたもすかさず〈何か〉をぐいと突き出すと、距離があるにもかかわらず幽雅もひるんだように跳躍を思いとどまった。
 麻績子が右手でかざすものとは、旧神の印(エルダー・サイン)──魔除けの五芒星を刻んだムナール石──に他ならない!
「ふっほほほほほっ。女神ともあろう者が、〈これ〉をすぐそばにしていながら気づかずにいたのは迂闊にすぎたわね!」麻績子が高らかに哄笑する。
「くっ……あなたはいったい……何者?」イドラが唇を噛みながら問う。
「ほっほほほほほっ、わたしの正体は何を隠そう、CCDの魔手から地球を守るべく設立された対邪神組織──すなわち名にし負うウィルマース財団(ファウンデーション)のエージェントよ! 今回あんたたちの本拠に乗り込んでいった目的は、他でもないイドラ講を壊滅させるため、その最も大切な宝物であるこの『ブラック・スートラ』を奪いとることだったのよ!」
「な、な、何ですって!?」イドラは依然右手首を押さえたまま、自らもカウンターを跳び越えんとするがごとく身を乗り出す。が、またも突き出されたエルダー・サインに阻まれ、たじろがざるをえなかった。
「語るに落ちたわねイドラ! この旧神の護符を恐れてしまうのは、さっきみたいなわけの解らない言い訳をどんなにしようが、あんたがやはり紛れもない旧支配者の一柱であることを示す何よりの証拠よ!」
「そ、それは違うわ! 誤解よ、麻績子さん──」
 だがイドラが弁明を言い切るよりも前に、後方にいた幽雅が率然と叫びを発した。
「おのれ、われらの姫に何をするか! ものども、かかれ!」
 幽雅の号令一下、麻績子が立つテーブルの背後の壁がバリバリバリッと破られ、五、六体の奇怪な怪物群が出現した。芋虫あるいは百足(むかで)のような長く節だらけの胴体をくねらせ、下半身にのみ具わる無数の肢をわなつかせて蠢きあるいは飛び跳ね、目のない頭部を占める不気味な口腔をカッと開いて襲いかかってきた。だが麻績子は少しも慌てず──
「出たわね、イェクゥブ人ども。おまえたちがイドラ講に関わっていることは、慧天寺の本堂にあの光る球体が潜んでいるのを見たときに察したわ。そうよ、あの球体こそおまえたちが崇める神ジュク=シャブなのだから!」
 そう言い放って麻績子がエルダー・サインを後方へ振ると、怪物たち=イェクゥブ人は目に見えぬバリヤーに激突したように弾き返され、ぶざまに店の床にゴロンゴロンと引っ繰り返った。
「う、うぬ、どうしてそんなことまで?」問い質しながら幽雅が両手を激しく振って再攻撃を促すが、旧神の護符に恐れをなしたイェクゥブ人たちは躊躇し身じろぐばかりだ。
「ほっほほほ、幽雅くん、あんたは知らないでしょうけど、慧天寺でウルタールの猫がテレパシーで言ってたのよ、あの球体がイェクゥブ人の神であるとね。でもその程度のことは教えられるまでもなくわが財団の者なら知ってて当然だし、だいいち、国書刊行会の『真ク・リトル・リトル神話大系』第2巻に翻訳収録されているラヴクラフトやR・E・ハワードらによるリレー小説「彼方よりの挑戦」を読めば誰にだって判ることよ──尤もジュク=シャブという名前は誰かがあとで勝手につけたものらしいけど。それにこの『ブラック・スートラ』についても、邪神忌や聖誕祭に参加したときその道に詳しい吉田仁さんから聞いてすでに知ってたわ──あんたが自慢げに言ってたウォルター・C・デビル・ジュニアの作品集のタイトルにその書名が使われてるってことに至るまでね。とにかくあんたたちはカルトの神格にしてはちょっと迂闊すぎってこと。わたしがこれまで質問を繰り出してきたのは、全部あんたたちを油断させるための目晦ましだったのよ!」
 麻績子はそう言い捨てるや、再び忍者のごとく高々とジャンプして、イェクゥブ人が空けた壁の大穴から隣室へと跳び移り、一画を占めるグランドピアノの上にふわりと降り立った。
 だが森閑としていたと思われた隣室では、三方の壁ぎわの中空に何やら奇妙な物体群がゆらゆらと浮かんでいた。どれも相似形のまん丸いものだが、赤や青や黄などそれぞれさまざまな色を呈しキラキラと煌めいている。
「えっ? この球体の群れって……ジュク=シャブ?」闘いの構図となって以降で初めて麻績子が戸惑いの声を発した。「ど、どうしてジュク=シャブがこんなに沢山? ……ええい、どうってことないわ。いくつあろうが、これがあれば同じことよ!」
 そう言って球体のひとつひとつへ向けてエルダー・サインを突き出した。が──五芒星が放つ善の波動を受けてもジュク=シャブ軍団はビクともしない。それどころか、各々が赤や青や黄の炎熱光線を発し、グランドピアノの黒い表面をジュクジュクシャブシャブッと焼き焦がした。麻績子は慌てて跳びすさったが、脚の肌や着衣にかすかな火傷や焦げ目を負わざるをえず、バランスを崩して床に転がり伏した。
「ど、どうしてエルダー・サインが利かないの?」
「ふっはははは、馬鹿め、それらは本物のジュク=シャブではないのだ!」早くも勝ち誇ったような哄笑とともにそう吠えたのは幽雅だった。「豚蛇を憶えているだろう? そう、阿佐ヶ谷ロフトでおまえを襲った──と言っても僕は見ていなかったので姫から聞いただけだが──あの使い魔が、ジュク=シャブを模してその玉の群れを作ったのさ! ああ見えて意外と造形技術に秀で、レジンでフィギュアを作るのを趣味としているやつだからな。本物じゃないのでエルダー・サインは利かないし、それでいて人間が作ったフィギュアと違って霊魂が吹き込まれてるから、威力は本物に遜色ないという優れ物だ」
「あんな手も足もない蛇体のくせに、いったいどうやってそんなものを作れたのかしら?……豚蛇、使い魔にしておくには惜しい恐るべきやつかもね」
 麻績子がそんな呟きを独りごちるうちにも、擬似ジュク=シャブ軍の光線がまたも放たれた。間一髪体を転がしてかわし、炎熱は床板を焦がした。だが結局部屋の一隅に追い詰められる形になってしまった。
「ふっははは、たばかり者め、これまでだな!」
「だめよ、幽雅くん! 殺してはいけない!」イドラが懸命に制する。
「しかし姫、この女はイドラ講撲滅を命じられて放たれたエージェント──謂わば命知らずの刺客も同然です。情けをかけられて使命を諦めるようなタマじゃありませんよ。今のうちに潰しておかないと百年の悔いが──」
 幽雅がそう言い終わらないうちに、ドドドドッ! と物凄い音が轟いた。何事かと三人がピアノのある別室の床を見やると、擬似ジュク=シャブ軍がなぜかすべて落下し、シャブシャブジュクジュクと瘴気をあげて溶けはじめていた。
「こ、こ、これはいったい!?」呻く幽雅の声と同時に、いつの間にか侵入して両室の間の戸口に立つ人物に三人とも視線を惹きつけられた。
 それは何と藤助だった! しかも彼の手には奇妙な芳香を放つ液体の入ったガラス瓶が握られている。どうやら擬似ジュク=シャブ軍はその液を浴びせられたせいで落下し溶けはじめたらしい。
「あ、阿島(あじま)くん! あなたどうしたっていうのよ? それはいったい何なの?」麻績子が夢中でわめく。
「麻績子さん、もう心配要りませんよ。僕も今はウィルマース財団のエージェントなんです。実はあの使い魔どもから何とか逃げたあとで、ウルタールの猫に見込まれてリクルートされ、急遽財団に加入したんです。この液は猫から貰った木天蓼(またたび)酒──その実体はウルタールの老神官アタルの聖水で、エルダー・サインのようにCCD本体をやっつけられるほどじゃないけど、下等な使い魔や兵器──レジン製の邪神クローンなどはまさにそれなので──には効果を発揮するんです」
「蜂蜜酒なら聞いたことあるけど、木天蓼酒って……?」と麻績子が眉根を寄せる。「でもそれより、ウルタールの猫が財団の味方だったなんて、もっと聞いたことないわね。何か騙されてるんじゃない?」
「そんなことはありませんよ」と藤助が反駁する。「ウルタールには猫が沢山いるんですが、あの猫は人間以上に知能が高くテレパシーも使える特別な一匹──いや〈匹〉じゃ失礼だな、一猫かな──で、文豪夏目漱石の名作『吾輩は猫である』のモデルにもなったんだそうです。彼が発信する好意的なテレパシーを麻績子さんも聞いたじゃありませんか。ウルタールのあるドリームランドはランドルフ・カーターやクラネスの影響で人間に親しみを持つ世界になっていて──もともと人間の夢の中にある世界なんだから当然とも言えますが──あの猫のようにウィルマース財団に協力するものまで出てきているんです」
「ええい、何をごちゃごちゃそっちで勝手に言い合ってるんだ、時と場合を考えろ! 今は僕らと闘ってるんだろうが!」幽雅が憤然と怒鳴った。「ようし、そっちが木天蓼酒なら、こっちはこれだ。喰らえ!」
 カウンタ―内の棚から掴み出してきたものは、何やら怪しげな素材と液の入った酒瓶だった。ラベルには《杏酒》と書かれており、中に入っている橙色の丸いものはたしかに杏の実のように見えなくもないが、しかし幽雅がその瓶を力任せに投げつけると──壁にぶつかって砕けたガラスの中から飛び出した〈それ〉はたちまちのうちに巨大化し、しかも橙色の表皮から数多の緑色の偽足が突出し──まるで天然の色とは思えない、蛸の肢に絵具を塗りたくったような毒々しい深緑色だ──しかもそれらがうねうねと長くのび、もはや偽足と言うより触手群と呼ぶべきものに変わった!
「こ、これは……葉原邸で襲ってきた使い魔どもの一匹〈這い寄るアンズ〉じゃないの!」と麻績子が叫ぶ。「でもあのときはあんな長い触手じゃなかったけど……これが正体だったのね、なんて悍ましい化け物かしら。そう言えば北関東でこれに似た妖怪がしばしば目撃されると、財団に報告が入ってたわ」
「でもあの深緑色の触手は、蛸焼きに入れたら鮮やかで美味しそうですね」と藤助が変なことに感心する。
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! ああ、触手の群れがこっちにのびてくるわ! 阿島くん、は、早くその木天蓼酒を〈這い寄るアンズ〉にぶっかけてよ!」
 変なB級グルメ心で舌舐めずりしていた藤助がわれに返り、慌てて聖水の瓶を振りかぶったときには、しかしすでに一刹那遅く──
 数多の気色悪い緑色の触手が麻績子の両脚に絡みつき、たちまちのうちに股裂き状に大開脚を強いていた。艶めかしい太腿の奥までがあらわになり、そこへめがけて格別に太く長い触手がギュゥーーーンッと迫り──
「あ、あれえええええっ、や、やめてええええっ、お嫁に、お嫁に行けなくなるうううううっ!」
 ──嗚呼、哀れ多海麻績子嬢の運命や如何に?……

                       (第三回へ続く)

※参考文献
Walter C.DeBill,Jr. "The Black Sutra"
H・P・ラヴクラフト他「彼方よりの挑戦」(『真ク・リトル・リトル神話大系』2 /〈新編〉同大系2 or電子版2 所収)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?