JOKERの感想 -あの映画は、喜劇としてみるべきなのかもしれない-

JOKER見ました。
以下ネタバレ含みます。




始まりは一つの違和感


ホアキン・フェニックスの演技の凄まじさ、貧困層の辛さ、コメディアンを目指すアーサーが、狂ったヴィランJOKERへと変貌する様、圧巻されました。

世間でも話題になっており、「子供に見せてはいけない」やら「精神が弱ってないときに見るべき」、「無敵の人を扱っている」、中には「スカっとした」など、見る人によって感想や受け取ったものが全く違うのが印象的でした。

その中で、「私たちは悪になることもあり得るし、悪を生み出すこともあり得る、そう考えさせられた」そんな意見を見つけました。

それ自体は、普通の感覚です。
『声をあげても聞いてもらえない弱きものが、最後には破壊と暴力により注目される』
映画の大筋はその通りですから、そう思うのは至極まっとうな感覚ですし、自分も最初同じ感想を抱きました。

でも、そんな事件は、現実世界でいくらでも起きています。具体例はあえて言いませんが、声が届けられない、世から見捨てられていると感じた人間による凶行は、昨今、国内国外共によく目にします。

でも、誰もその犯人たちに「今まで辛かったね、可哀そうだったね」とは言いません。
「許せない」「極刑しかない」「口に憚られるような悪口」そんな言葉ばかりが犯人たちに向けて発せられます。
そりゃそうです、何にも関係ない人を、身勝手な発想で殺しているんです。
そりゃ許せません、平穏に生きている人の可能性を奪ったんです。そんな奴はこの世にいない方がいいと思うのは当然です。

じゃあ、なぜみんなアーサーには憐憫の情が起きているのでしょう?
アーサーを「許せない」と思った感想は見つけられませんでした。

彼はとても可哀そうだったから?親から虐待されていたから?
親から相当の虐待を受けていた実在の殺人犯が「可哀そう」ではない?

殺されたサラリーマンたちはアーサーに暴行を加えていたから仕方ない?
でもジョーカーはこう言いました「彼が音痴だったから殺した」
気にくわないから殺しているんです、マレー・フランクリンも、同僚ピエロのランドルも、おそらく、最後に出ていたカウンセラーも。
逆に、同僚のゲリーは「優しくしてくれたから」殺しません。
身勝手に、適当に、殺したり殺さなかったりしています。

なぜアーサーは「可哀そう」で銃を乱射したり通り魔殺人をした人間は「可哀そうでない」のでしょう。

それは、実在の彼らのストーリーが見えないからだと思います。

実在の彼らの方が、ストーリが希薄なんです。
おそらく、アーサーと同じくらいの仕打ちを受け、同じような感情を抱き、同じような凶行に走ったんだと思います。
でも、そこまで誰も彼らの映画は作りません、「面白くない」と思われているのかもしれません(まれに本や映画は出ますが)

実在する殺人犯は許せないが、JOKERはフィクションなんだしいいじゃないか、考えるきっかけになればいい。
そう思うかと思いますが、ではもう一つ感情がわきます。

今JOKERにならんとする人を救うために、何かしますか?


貧困のあまり、環境の劣悪さのあまり、声をあげたくてもあげられない暮らしをしている人達はたくさんいると聞きます。
具体的にどれだけいるか、とか、どういう状況か、なんてのは知りません。
なんとなく、世の中にはアーサーの様な仕打ちを受ける人が結構な割合でいるという事は、世の大半の人が何となく把握しています。
そしてそういう声なき者が、JOKERのようになることも、なんとなくは把握しています。

でも、その人たちがJOKERにならないようにすることは、僕たちは出来ません、いや、しません。

一人ひとり訪ねて仕事を斡旋する?無理ですその人が失敗したら責任でやめないといけなくなるかもしれません。
お金をあげる?月に数万貯金するのも大変なのに?
誰かもっと余裕がある人がやればいいんです。はい、自分より余裕がある人も同じことを言うでしょう、もっと恵まれている人がやればいい、と。
制度はあるんだから、誰かが教えればいいじゃん、自分は面倒なのでやらないけども。

そんなこんな色々言って、結局何もしません、僕も、みなも、だれもかも。
自分が一番大事です。
「悪は私たちが生み出す」それを止めるために何かするわけでもなく、なんとなく感情だけが暴走した状態です。
まぁ、この辺までは、「アーサーが変わってしまった事へのやるせなさ」として感じる人は多いかと思います。

違和感はその先にありました。
これ、なにかに似ているなって思って、作中を思い返したんです。


劇中で「モダン・タイムス」の映画を見ていた富裕層に近いんですよ。


「資本主義への風刺」が金持ちに消費される

劇中ではチャップリンの「モダン・タイムス」をきらびやかな劇場で上映されるシーンがあります。


モダン・タイムスって資本主義を風刺した映画なんです。
それを、富裕層が「上品な笑い」として消費し、笑っているんです。
このシーン自体がかなりの皮肉なシーンだと思うんですが、僕らはこの金持ちたちと、まったく同じことをしているんです。


「声なき者の変貌」を僕らは消費していた

ある人は言います「この映画は色々考えさせられる」
でも何をするわけでもありいません。「いい映画を見た」と思って終わりです。

アーサーの生きざまを、消費しておしまい。
モダン・タイムスを見て拍手する金持ちたち、アーサーを嘲笑ったテレビスタジオと同じことをしているだけ。
映画の端々まで詰まった比喩や表現を思い返すと、どこもかしこもそういうたとえがちりばめられていた気がしてきます。

「なんだかんだえらそうな考察するけど、やっていることはチャップリンを見ている金持ちたちとやっていること変わらないよ」
監督が作品からそう伝えているようにしか思えなくなっていました。


映画を見て暴力に酔えた人たちも「消費するピエロの群衆」にすぎない

JOKERの挙動や、演説に爽快感を覚えた人もいるでしょう。
でも、そういう人たちも作中では描かれています。
ピエロの面を被った群衆です。

彼らにとってアーサーは「自分の代わりに富裕層に一矢報いたヒーロー」です。自分たちの感情を代弁してくれてスカっとしているだけです。

観客である僕らから見れば、JOKERという映画が「富裕層を殺すカタルシスを与えてくれた」に過ぎず、同じようにスカっとさせてくれただけです。


結局誰も、僕ら観客ですらアーサーを見ていない

ゴッサムシティの人たちも、僕ら観客ですら、アーサーを消費しているだけでした。アーサーのためにしてやれることなんてありません。
そりゃあ、これは映画です。映画の中に入ることはできません。でも、多分現実世界も特に何か始めるわけでもありません。こんなにも感情に揺さぶられながらも、映画「JOKER」は、アーサーはエンタメにすぎないんです。

作品の最後にアーサーは言います。
「理解できないさ」
はい、僕らは、彼の何も理解できていないことを思い知るのです。

「どんなに考えたふりをしたって、どんなに喝さいを浴びせたって、お前たちは映画を見て何かをするわけでも、生まれ変わるわけでもないんだ、ゴッサムの奴らと、所詮は一緒だ」そう、JOKERの声で語りかけてきます。

この映画自体が「JOKER」そのものです。多くの人が戸惑い、考えたふりをし、称賛しながらも、誰一人として変わる事も変えることもない、そう嘲笑います。

入れ子になった「感想を持てば持つほど作品から遠ざかる」メッセージ性。
かがみ合わせをのぞき込み、端を探す様な徒労感。

僕がそう感じた時、発作を起こすアーサーの、彼と同じような乾いた笑いがこみ上げてきました。

結局はこの映画は喜劇、笑えばよかった

映画の最後は、病院関係者との追いかけっこで終わります。優しい光の中、チャップリンのスラップスティックの様なさわやかな、ドタバタした中で終わりを告げます。

僕らが、この映画で延々と勝手に悩み、囃し立て、祭り上げる中、たった一人、アーサーだけは、ずっと笑い話に戻そうと奮闘しているのに気が付かされました。

だから、この映画は喜劇なんです、彼が、アーサーが、JOKERが、唯一望んでいる事は、この映画を、アーサーが笑わせようとする事を見て、笑う事。


終わりに

妄想がひどいのではないかと思われるかもしれませんが、僕にはこう見えました。長文となりましたが、読んでいただきありがとうございます。












そういや、一人だけ、見ていた奴がいた

JOKERがどんなことをしても、追いかけて、にらみつけて、ぶん殴ってる奴がいました。

ブルース・ウェイン。彼だけが、アーサーの救いなのかもしれません。



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