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生きて人を助け、何かを残して死ぬ

今日、戸塚の妙法寺の月一回開催されている浄心道場へお邪魔させていただきました。目的は友人の松島靖郎住職が代表理事を務める、おてらおやつクラブの活動の講和が本人からあるという事で、久しぶりに直接会えるまたとない機会と思い、衝動的に訪問してしまいました。
そこで、自分の死生感ややりたい事が見えてきたので、脈略がないですが思ったことを徒然とここに綴ります。

  1. おてらおやつクラブとは
    私の友人でもある奈良県にある安養寺の松島靖朗住職が代表理事を勤めるNPO法人でお寺に持ち寄られた食料や日用品などのお供えを今この時助けを必要としている子供がいる家庭へお裾分けするという活動を宗派を超えて全国のお寺に呼びかけ活動しています。
    みなさんもぜひできる範囲でサポートをお願いします。
    ふるさと納税でも参加することができます。
    https://otera-oyatsu.club/

  2. 南無妙法蓮華経
    日蓮宗のお寺なので、浄心道場の中の読経で南無妙法蓮華経というフレーズが出てきましたが、自分も唱えている間に子供の頃帰省した際に毎朝聞いた祖父の南無妙法蓮華経の読経と数珠の擦れる音が鮮明に蘇りました。どうして信心深く毎朝唱えているのかと祖父に生きているうちに聞くことはありませんでした。想像するに、佐渡島で生まれてからの習慣というのもあったかと思いますが、祖父は太平洋戦争でフィリピンへ従軍した経験もあり、その時の想像を絶する体験から救いを求めているのかと想像もしました。宗教にはどうにもできない個々の思いを救うインフラなのかもしれません。誰でも仏様は救ってくれます。特に今のような自己責任論で突き放されたり、公助も受けるのが難しいこの世の中であれば、誰でも救ってくれる宗教は心の拠り所になってくれるのかもしれません。

  3. 松島靖朗住職
    松島住職と出会ったのは大学生の頃で、彼は世襲でお寺を継ぎたくないので東京の大学に出てきたインターネットに精通した学生でした。
    仲間とネット上のショッピングモールを作りたいと原宿の店を訪ね歩いた事に同行した事もありました。もしかしたら楽天みたいに成功していた可能性もあったかもしれませんね。
    そんな、お寺に縛られずに普通になりたいと言って東京に出てきたのですが、世の中を変える事を志す憧れる人は皆普通ではなかった。そこで、お寺で生まれた事に意味を見出し、最終的に僧侶になる道を選んだという人です。
    彼と私が繋がったのも彼が同年代の人たちはどのような人たちがいるのか興味を持って始めたメーリングリストに参加したことで、昔から誰かと誰かを繋ぐことが生業だったような気がします。
    妙法寺の住職とも話をして松島住職は宗派を超えておてらおやつクラブの活動を繋ぐすごい人だと仰っていました。
    おてらおやつクラブもお供え持っているお寺と持っていない家庭を繋ぐ活動です。どうやら、松島靖朗という人物はあらゆるもの繋ぐことで世の中に化学変化を起こすために仏様から現代に遣わされた存在なのかもしれません。
    「助けてといっていいんだよ。」
    という今日の講和のタイトルでしたが、この言葉で自分の気持ちも少し救われたような気がします。
    裏話として松島住職とはオンラインで話す機会は度々あったのですが、実は直接会うのは何十年ぶりなので、誰だお前?と言われるのではないかと思っていたので、実はお寺の前で来て最後まで入ろうかと躊躇していたいましたが、「えいやっ」と中へ入って、直接話しかけて気づいてくれたので助かりました。。。
    なんか自分の性格をよく示している情景です。
    後先考えないで行動するのですが、いざとなると躊躇する、最後の躊躇だけなんとかしたいと思って生きてます。。。

  4. そもそも無信心なんです。
    と、このトピックはお寺という入り口で始まりましたが、私は特に信じている宗教もなく、死すれば無に還るとしか思っていないので、徳を積んで極楽浄土でという思考もなく、人間に生まれ変わるという都合の良いこともないと思っています。
    寝て次の日起きないのが「死」で、自分がいない世の中がそのまま続いていくものなのだと最近そう思うようになりました。
    だからなのか、生きているうちに人の為に何かを成すということは必要だと思っていて、世の中は共助が必要、自分もどこかで助けをうける場面もある可能性があるので、今できる範囲で支援して困っている人の力になりたいとは思っています。
    もしかしたら宗教にすがらなければならないほどの辛い思いをしたことのない幸せな人間の戯言かもしれませんが、ただ誰も助けてくれなくなった場合、最後には宗教があると気がついたので、宗教は心のセーフティーネットなのかもしれません。今は信じていないけどなにかあったら信じられるものがあるというのが、無意識的に心の安定を生み出してくれているのかもしれません。
    昔の人は自分が生きるのに精一杯だったり、戦などでいつ死ぬかわからない世の中だったので、共助という考えは極楽浄土という考えを与えてモチベートしないと引き出せなかったのかもしれません。そう考えると日本の歴史における宗教というのはものすごく重要なファクターなんだと改めて気付かされました。

  5. 何か残したい。
    死んだら基本は何も残らないと思っていますが、人としてこの世の中生まれたからには何か生きた証を残したいという煩悩はあります。物理的に残すのはアーティストではないので難しいですが、考えだったり、自分と関わってよかったと思う後進を育てていきたいというのが今の想いだったりします。自分の名前は残らないかもしれませんが、なにか脈々と受け継がれるエッセンスの中に自分の想いが紡がれるような事をしたいと思います。
    ただし、死んだ人が生きている人を縛ってはいけないと強く思っています。個人的には生きている人をお金も時間も縛るお墓は不要で、時々こんな人がいたと思い出すくらいでいいと思います。思い出さなければそんな人だったということでしょう。

  6. 死者と対峙する
    一方、この前落合陽一さんがアーティストは死人が残した作品と展示場所を競うので大変だと言っていました。アーティストは生きている間は評価されないが死後評価される事が多いですよね。死ぬ事によって価値が出て、その価値を享受できず死んでいく。これもまた真実。

うーん、読み返すと何が言いたいのかわかりませんが、今日、脳でこれは言いたいという事を吐き出しました。

誰にどこまで伝わるかわかりませんが、世の中捨てたもんではないという事です。自分のできる範囲で世の中がちょっとでもよくなるように手助けしたいと思います。

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