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「死女の唄」コアイメージ − 音楽が生きている −

ここはどこ?
ねえ、
わたしをうたっているのは、だれ?

2019年8月9日に初演される「死女の唄」、この作品は音楽の内部に人格・魂がある、というシチュエーションを含む連作歌曲であるが、その核となるコンセプトは「限りなくクラシック・コンサートに近い儀式」であり、演奏表現を客観視するレディ・メイド的な発想が隠されている舞台表現である。

クラシック音楽のコンサートは20世紀よりほぼその形を変えずに続いており、さながら数百年前よりの名曲の空気を静かに演者と観客の間で追体験する独特の空間となっている。それは見方を変えればさながら霊を呼び寄せる「いたこ」のようである。名曲はすでにこの世にいない作曲家の想いでもあるからだ。

ここまで考えてみて、ふと、そもそも歴代の作曲家だろうと現代の作曲家だろうと、作曲された音楽自身は聴取の時点で「死んでいる」のかもしれないということを考えた。なぜならば舞台上に上がる前にすでに譜面上の作品として完成しており、演奏による肉付け以外の発展がないからだ。調理された肉が死体であるのと同じように、仕上げられた音楽は死んでいる。即興演奏でも無い限り音を生きたまま踊り喰いをすることなどできない。

「死女の唄」はもしも音に感情や自我があったとしたらと仮定したときに、その作曲された作品は死んだ魂のことばであり、一つ一つの曲が人の姿を借りて舞台上でそれぞれ何か観客に訴えかける、そんな音楽である。

もし彼らが自分を聞いてくれる観客に一目会いたいと願ったとしてもそれが叶う事はないだろう。できることといえば自らの存在を観客の記憶に残しそれを増殖する事だけなのだ。しかしそれこそが、音楽の持つ作用の一つでもあるのだが。

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