風に恋う|番外編|栄冠は誰に輝く|02

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「雨漏りがなあ、凄いんだよ。手伝ってくれる人がいてよかった」

 そのつもりで音楽準備室に来たわけじゃなかったんだけどな。錆び付いた脚立を両手で押さえながら、堂林は天板の上に立つ瑛太郎を見上げた。

 千間学院高校吹奏楽部のコーチに四月からなったばかりの不破瑛太郎の横顔は、小学生の堂林がドキュメンタリー番組で見た頃とほとんど変わっていない。

 テレビの向こう側にいたはずの瑛太郎が音楽室に現れて、三ヶ月近くたつ。彼に部活の指導をされるのも、彼のことを「瑛太郎先生」と呼ぶのにも慣れたはずなのに、ときどき「どうしてこの人が目の前にいるんだろう」と思うことが堂林にはあった。

「明日の午前中に大雨が降るって天気予報でやってたから、やばいかなって思ってさ」
「それで、今日は部活がないのにわざわざ学校まで来たんですか?」

 今日は学校全体が部活動の休息日だから、生徒達は授業を終えたらさっさと下校してしまう。堂林もそのつもりだったのだけれど、帰り際に音楽室のある特別棟へ入っていく瑛太郎の後ろ姿を見かけて、こうして追いかけてきた。

「三好先生、よく雨漏り対策を忘れて忘れて雨の日に大騒ぎしてたから」

 天井には、茶色い雨漏りの染みが扇の形に広がっていた。年輪のように幾重にも重なった雨漏りの跡を見上げて、堂林は「私立なのに……」とぽつりとこぼす。自分が通っていた中学は公立だったけれど、もう少し練習環境はよかった気がする。

「私立っていっても、金のある学校ばかりじゃないからな」

 本当にそれだけだろうか。
 もし、瑛太郎が現役の吹奏楽部員だった頃のように千学吹奏楽部が強豪だったら――強豪のままでいられたら、こんな雨漏りはすぐに直してもらえたんじゃないだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えていたら、長い指が印象的な掌が、堂林の目の前に降りてくる。

「ガムテープ取って」

 言われるがまま近くのテーブルの上にあったガムテープを、瑛太郎に渡してやる。

「初めて雨漏りしたのが俺が高一のときだったんだけど、まさかまだ直してもらってないなんて思わなかった」

 ゴミ袋を雨漏りがしている場所にガムテープで貼り付けて、一箇所だけ穴を開けて、どこかから見つけてきたホースを繋いで、端っこをバケツへと放り込む。万が一雨漏りがしても、雨水はホースを伝ってバケツの中に溜まるはずだ。

「俺、明日の朝練来ると思うんで、朝来たら確認しておきます」
「お、それは助かる」

 本当に雨漏りのために学校に来たようで、脚立を畳んで担いだ瑛太郎は、すぐに準備室を出て行こうとした。え、先生、そんなに暇なんですか? そう声に出そうになって、大きなお世話だよなと思い止まる。

「あの、瑛太郎先生」

 自分が何のために瑛太郎を追いかけたのかを思い出して、堂林は瑛太郎の名前を呼んだ。

「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

 準備室の戸に手をかけた瑛太郎は、脚立を床に置いて首を傾げた。一瞬だけ視線を天井の方へ泳がせて、「ああ」と声を上げる。

「もしかして、オーディションのことか?」
「……どうしてわかるんですか」

 そんなにわかりやすい顔を、態度を、自分はしているだろうか。自分の頰を小指の先で掻いて、堂林は唸った。

 コンクールメンバーを決めるオーディションが行われてから、まだ一週間もたってない。

『お前、俺を馬鹿にしてんのかっ!』

 部長である茶園基をそう怒鳴った池辺先輩の声を、まだはっきりと覚えている。他の二、三年生達の苛立った息遣いも、熱く濁った視線も。

 そりゃあそうだ。
 ただでさえ、一年生部長という存在を、みんな腹の底では穏やかに見ていないのだから。三年生なんて特にそうだ。生意気だ、調子にのってる、先輩を見下してる……そう思って当然だ。これまでだらだらと活動してきた自分を棚に上げて勝手に苛立って、勝手に怒っている。

 正直、自業自得だと思っていた。
 オーディションで、基が自分自身の演奏を平然と「納得がいかなかった」と言うまでは。

「瑛太郎先生は、あれでよかったと思うんですか?」

 基には「あんまり気にすんなよ」と言った。それは間違いなく本心だった。
 でも、心の底から彼の言動をいいと思ったわけじゃない。

「俺は、一年を部長にした先生の判断は正しいと思います。それに対して先輩達が茶園に腹を立てるのは筋違いっていうか、怒る対象が違うだろって思うんで。だけど、オーディションのときの茶園のセリフはちょっと……」

 どう考えたって喰われるに決まっているのに、猛獣のいる檻に飛び込んでいくようなものだ。
 それも、「え? 何が危ないの?」という顔で。
 これは、苛立つな、という方が無茶だろう。

「茶園じゃなくて俺を部長にすれば、もっと上手くやるのにって?」

 瑛太郎の言葉に、堂林はハッと顔を上げた。すぐさま、「ごめん、意地悪な質問だったな」と瑛太郎は笑う。

 オーディションの数日前に、自分は瑛太郎に「どうして部長を茶園にしたんですか」なんてあからさまなことを聞いてしまった。隠したって、逆に格好悪いだけだ。

「多分、そういうことです」

 きっと、俺はこの人に――小学生の頃に憧れた「千学吹奏楽部の不破瑛太郎」に、自分を選んでほしかったのだ。

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風に恋う|額賀澪|番外編

『風に恋う』(文藝春秋)の番外編です。作者が自由気ままに書いていますが、出版社を通していないので誤字脱字など未校正の部分がありますことをご了承ください。
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