風に恋う帯無し

風に恋う|序章|01

序章 凍てつく夜に『夢やぶれて』

「なあ、茶園(ちゃえん)、本当に吹奏楽やめちゃうの」

 杉野が隣から、基(もとき)の顔を覗き込んできた。

「そうだね」

 ステージ袖の暗闇で指を順番に動かしながら、茶園基は自分の掌に向かって呟く。ステージから聞こえる華やかな音色に包まれながら、指の先端まで血を行き渡らせている。

「やめるよ」

 およそ半年前の西関東吹奏楽コンクール。基のいる大迫第一中学校吹奏楽部は目標だった全日本吹奏楽コンクールに進めなかった。三年間、一度も。このまま、基は中学を卒業する。

「燃え尽きたっていうか、やりきったって感じがするし、高校はのんびり帰宅部かな」
「もったいないな」

 杉野の言葉に、基は応えなかった。ネックストラップの位置を直すと、皮膚の薄いところが擦れて痛みが走る。ぴりりとした熱を首筋に感じながら、基は抱えていたアルトサックスの表面を撫でた。こうしてネックストラップで自分の体と繫いでいると、本当に体の一部のように思えてくる……はずなのに、今日は自分達の間に薄い壁があるような気がした。

 しょうがないじゃないか。思わず声に出しそうになったとき、基達を包んでいた音楽が終わった。客席から拍手が聞こえる。

 袖に集まっていた三年生が、足音を忍ばせて一箇所に集まる。それぞれの手には楽器がある。

 みんな、コンクールが終わると同時に吹奏楽部を引退したが、部では毎年三月上旬に定期演奏会を開催する。受験を終えたばかりの三年生がクライマックスで演奏するのが恒例なのだ。練習期間は一週間もない。だから、やはり緊張する。

「半年もほとんど練習してなかったのに、一週間で元に戻せるわけないじゃんね」

 一人がそう言うと、ステージから声が聞こえてきた。司会を担当する二年生のものだ。

「それでは次が、いよいよ最後の曲です。この曲は、三年生の先輩方と一緒に演奏します」

 言葉尻が震えたように聞こえた。多分、ちょっと涙目になっているんだろうなと思った。
 基に涙の気配はない。コンクールのときに散々流したから、体が「何を今更」と思っている。

「それでは聴いてください。定番中の定番です。明るく三年生を送り出したいと思います。真島俊夫編曲、『宝島』です」

 曲名がコールされるのと同時に基達はステージに出て、それぞれのパートの場所へと散った。

 保護者や関係者ばかりの客席からは、割れんばかりの拍手が響く。拍手が、基の中に巣食っていた緊張を消す。本番とは、いつもそういうものだ。

 顧問が譜面を捲めくり、「最後だし楽しく行こうか」と破顔した。練習ではよく怒るし、ねちねちと同じ場所を何度も吹かせる人だけれど、今日ばかりは清々しい笑顔をしていた。顧問が指揮棒を構える。基はアルトサックスのマウスピース部分を口に含んだ。舌が木製のリード部分に触れる。この感覚が、結構、好きだった。楽器が自分の中に浸透していくのが。

 指揮棒が振られ、アゴゴベルのリズミカルな音が響く。会場である市民文化ホールの壁や天井に、金色の粉が舞うようだった。ドラムやシンバルやタンバリンの音が、入り乱れる。

『宝島』は吹奏楽では定番中の定番。基も小学四年で吹奏楽を始めてから、幾度となく演奏してきた。演奏会のクライマックスに相応しい、音のお祭り騒ぎだ。

 冷たかった指は温かくなり、胸に残っていた寂しさを覆い隠してくれる。ここまで賑やかなら、寂しいとか悲しいとか、そんな気持ちを感じずに済む。

 ソロパートが回ってきて、基は立ち上がった。十六分音符の複雑な運指に、真鍮製の黄金色をしたアルトサックスから、端正に編み上げられた音があふれてくる。サックスの姿は、植物のようだ。神様が精密に丁寧に、愛を込めて作ってくれた。折れ曲がった円すい管も、蔦のようにそれに絡みつく音を操るためのキーやレバーも、朝顔の花のように広がるベルも。すべてが完璧で、完成されていて、美しい。

 そんな愛する楽器との《最後のステージ》が、サックスのソロがあり、吹奏楽に関わる誰からも愛される『宝島』っていうのも、素敵だ。頰をわずかに緩めながら、基は低音から高音へ一気に駆け上がる。高く高く、どこかへ続く階段をのぼるみたいに。その先に何があるかわからないのに、とにかく全力で、走る。
 愛を振り切って、別れを告げる。




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