風に恋う大ラフ

風に恋う β版|第1章|13

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「昼休みに悪かったな」

 音楽準備室は実質吹奏楽部の顧問の部屋だ。さほど広くない部屋の中には長机が置かれ、本棚からは楽譜がなだれ落ちそうだった。

 基と堂林に椅子に座るように言った瑛太郎は、部屋の隅の冷蔵庫から取り出したペットボトルの麦茶をグラスに注いで、基達の前に置く。

「君達に聞きたいことがある」

 自分の分の麦茶を手に、瑛太郎は窓ガラスに寄りかかってこちらを流し見た。麦茶に手をつけることなく、基と堂林は姿勢を正す。

 それを見た瑛太郎が、くすりと笑った。

「君等が初めて音楽室に来たときから思ってたんだけど、そんなに俺が怖い?」

 基は慌てて首を横に振る。

「いや、怖いんじゃなくてですね。瑛太郎先生のことはテレビで見たことがあるし、何より全日本に行ったことのあるOBがコーチだなんて、みんな緊張してるんだと思います」
「……そんな気はしてた」

 麦茶を一口飲んで、瑛太郎は苦い顔をした。それは、吹奏楽部のみんながそれだけ全日本コンクールを遠いものと思っていることに対してなのか。それとも、昔テレビに出ていた自分に対してなのか。

 近くの机から取り上げた書類らしきものに視線を落とし、瑛太郎は堂林を見た。

「堂林慶太。春辺二中で全日本コンクールに三年連続出場。中三のときは部長もやってた」

 突然名前を呼ばれて、堂林が「はい」と短く頷く。一枚書類を捲って、瑛太郎は今度は基を見る。

「茶園基。大迫一中で去年は西関東大会に出場」
「ダメ金で、全日本には行けませんでしたけど……」

 言い訳のように付け足す。吹奏楽コンクールには、都道府県によってシステムに多少の違いがあるにしろ、どこも地区大会、県大会、支部大会と数多くの予選がある。各大会で上位大会に進むためには推薦団体に選ばれる必要がある。金賞の受賞は越えるべき一つのハードルだ。金賞を受賞しても推薦団体になれない場合もある。それが《ダメ金》という奴だ。

 去年の九月。基のいた大迫一中は激戦の埼玉県大会を突破し西関東大会へ進んだ。西関東大会で春辺二中は金賞を受賞し全日本の推薦団体に選ばれた。基達は《ダメ金》で、金賞は受賞したものの全日本へは進めなかった。

 ぽっきりと、自分の中で何かが折れて、燃え上がっていたものが燃え尽きて、燃えカスになった瞬間だった。

「君等はさ、全日本に出場したり、全日本まであと一歩まで行った人間なわけだけど、千学の吹奏楽部をどう思う?」

 麦茶のグラスをテーブルの上に置き、瑛太郎が基達の向かい側に回り込んでくる。

「千学は、全日本コンクールに行けると思うか?」

 テーブルに両手をついて、こちらを見下ろす。獲物を見定める獣のような目だった。瞳の奥で、こいつ等は自分が狩るに足る存在なのかどうか、吟味している。

「駄目だと思います」

 気がついたら、そう口が動いていた。

「瑛太郎先生が来て、みんなやる気が出たみたいに見えました。でも朝練に来る人は十人ちょっとです。今が一番モチベーションが上がっているはずなのに、朝から吹こうって人があの程度しかいないって、駄目だと思います」

 堂林がちらりとこちらを見た。どうせ他に人がいないのだから、いいやと思った。

「全日本に行こうって部の目標を掲げてますけど、とりあえず掲げてるだけっていうか、全日本に行くために何をしたらいいかを考えてないように見えます。僕は先輩達から『今日は絶対にここを吹けるようになろう』っていう気概みたいなものを、一度も感じたことがないです」

 今、自分は先輩を非難している。部長として部を運営する玲於奈を遠回しに非難している。でも、ただ、この人には――不破瑛太郎には、失望されたくなかった。

「俺もそう思います」

 ガラス玉みたいな目を細めて、隣で堂林が静かに頷いた。

「朝練に来てる人等も集中して練習してるとは言えないし。来るだけで満足してるのが丸わかりで毎日苛々してたんで」
「俺も、あれなら来ても来なくても同じだなと思う」

 瑛太郎の言葉を嚙み締めながら、オレンジ色の花模様の入ったグラスを見つめた。何故、自分達がここに呼ばれたのかを考えた。そして、それを言葉にした。

「埼玉県大会はただでさえ激戦なのに、今の状態で勝ち上がれるわけがないです」

 今や全日本に出場する学校はどこも上手い。特に埼玉県大会は激戦だ。埼玉県大会の上にある西関東大会から全日本コンクールに推薦される高校は、すべて埼玉県代表で占められるくらい有力校がひしめき合っている。中一、中二のときに県大会敗退、中三で西関東大会敗退を経験した基は、それをよく知っている。玲於奈だって、知っているはずなのに。

「じゃあ、君等だったらどうする?」

 条件反射的に「え?」とか「僕達ですか?」と聞き返したくなった。でも、喉の奥に力を入れて堪えた。

「多分これは、瑛太郎先生が卒業してからできてしまった悪しき風習なんだと思います。玲於奈は……部長は僕の幼馴染みなんですけど、二年前、部長が入部した当初、『たるんだ空気をしゃきっとさせたい』と言ってたのを覚えてるんで」

 緩いのよ、今の千学吹奏楽部って。私が部長になったら、もっとビシッとした部に変えてやるんだから。玲於奈はずっと、そう言い続けていた。でも結局、玲於奈が部長になっても変わらない。五十人以上の人が集まる大きな組織を、一人の人間がそう易々と変えられるわけがない。

「瑛太郎先生がコーチとして来てくださったのは、僕はチャンスだと思ってます。今なら、吹奏楽部の悪い部分をぶっ壊せるんじゃないかって」

「へえ」

 笑いを含んだ瑛太郎の相槌に、基ははっと顔を上げた。

 目の前に立つ瑛太郎の目の奥が淡く光ったように感じた。唇の端を吊り上げて笑うその顔を、基は小学生の頃テレビで見た。ああ、あの人が今自分の目の前にいるんだなと、肌で感じた。

「ありがとう」

 麦茶飲んだら? と基と堂林の前にあるグラスを指さして瑛太郎が言う。「はい!」と声を合わせて、二人で麦茶を飲み干した。それがおかしかったのか、瑛太郎は呆れたように肩を揺らした。


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額賀 澪 NUKAGA Mio

小説家。最新刊『風に恋う』発売中。2015年松本清張賞・小学館文庫小説賞受賞。既刊『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』『タスキメシ』『さよならクリームソーダ』『拝啓、本が売れません』など。詳しくは>>>http://nukaga-mio.work/

『風に恋う』β版|額賀澪|試し読み

7/13刊行の音楽×青春小説『風に恋う』(文藝春秋)の校了前の文章(β版)です。ほとんど初稿の状態です。なので、誤字脱字など、未校正の部分がありますことをご了承ください。(『拝啓、本が売れません』(KKベストセラーズ)に先行掲載したものとほぼ同じ内容です)イラスト:hiko
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