風に恋う帯無し

風に恋う|第1章|05

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「わー! 一年生来た!」

 基達が音楽室に足を踏み入れた瞬間、そんな声が飛んできた。「二人も来た!」「男子来たー!」「やったー!」という、まさしく黄色い声が。

 パイプ椅子や楽器で雑然とした音楽室で、玲於奈の姿はすぐに目に入った。オーボエパートの彼女は、指揮台の近くからこちらを見ていた。その口が、にいっと半月状に吊り上がる。

 でも、基は一瞬、ここに来た目的を忘れた。

 そこにあったのは、九歳のときに見たあの音楽室だったから。くすんだクリーム色の壁も、雨漏りの跡のある天井も。

 隣では、堂林がガラス玉のような瞳を忙しなく動かしていた。この場所を隅から隅まで見たい。記憶したい。そんな必死さが伝わってくる。ああ、彼も一緒だ。彼も今、僕と同じように《千学吹奏楽部》という場所に、空気に、かつての強烈な憧れに、溺れている。

 だから、気づかなかった。

「そこの二人」

 自分の背後に、誰かが立ったことに。

「入るなら入る、入らないならちょっとどいてくれないか」

 自分よりずっと落ち着きのある声が、飛んでくる。音楽室の入り口で突っ立っていたことに気づいて、慌てて振り返った。すみません、と言いかけて、今度は本当に息が止まった。

「……ゆっ」

 やっとのことで、声が出る。

「幽霊……」

 朝、チャペルで見た幽霊がそこにいた。
 かつて、ドキュメンタリー番組の中で活躍していた高校生。強くて、格好良くて、鮮烈で、そして激烈だった千間学院高校吹奏楽部の部長。その人が、自分の目の前にいる。

「幽霊じゃない。ここのOBだ」

 腰に手をやって彼は基を見下ろす。平均身長にわずかに届かない基を、高い場所から見つめてくる。ステンドグラスからこぼれる光のように、その瞳は青みがかって見えた。

「今朝、チャペルで会ったな。君、新入生だったんだ」

 基の右胸にある「祝・御入学」と書かれたリボンと花を見て彼は言う。長い指が、花びらをたわわにつけた赤い花を突いた。

 基から視線を外し、彼は音楽室を見回す。

「今日から吹奏楽部のコーチをする、不破瑛太郎だ」

まるで、指揮棒でも振るうように。

「君達を全日本吹奏楽コンクールに出場させるために千学に戻ってきた」

 どうぞよろしく。彼が言い終えないうちに、音楽室中から今度は悲鳴が聞こえた。当たり前だ。そんなの、冷静でいろという方が無茶だ。

 弱体化した千学吹奏楽部に、黄金世代の部長が帰ってきたのだから。

 視界の隅で、玲於奈がすっと立ち上がるのが見えた。自分のオーボエを握り締めて、口を真一文字に結んで、じっと、基と不破瑛太郎を見つめるのが。

「入部希望?」

 騒がしさなど意にも介さず、不破瑛太郎は口元にほんのり笑みを浮かべて基に聞いてくる。

「はい」

 全身を震わせるようにして、基は頷いた。




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