風に恋う|番外編|春の祈り

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 誰もいないのに音楽が聞こえる気がした。

 風の音だろうか。チャペルの周囲に生えた木々が風に揺れて、青いステンドグラスを通して差し込む光が、ゆらゆらと揺れているからだろうか。

 自分が高校生の頃、この場所で一人こっそりサックスの練習をしたり、年に一度の吹奏楽部の定期演奏会をしたりしていたからだろうか。あのときの自分の音が、まだこの場所に残っているのかもしれない。
 そんなことを、考えてしまう。

 もし本当にここに昔の自分がいるなら、ひと目会いたい――でも、会いたくない。きっと失望される。

 最前列の座席に腰掛け、十字架とステンドグラスを見上げながら、瑛太郎はゆっくりと目を閉じた。聞こえるはずがないのに、桜の花びらが舞う音がする。外では桜が満開だ。その中をちょうど、入学式を控えた新入生達が登校してくる頃だろう。

 自分がそうやってこの千間学院高校に入学してきたのだって、ほんの八年ほど前のことなのに。

「随分、遠くに来ちゃったな」

 誰に届けたかったのか、そんな言葉が口の端からこぼれていく。

 今日から、不破瑛太郎は母校の吹奏楽部のコーチになる。
 すっかり低迷した部を、もう一度全日本コンクールに出場できるよう立て直すこと。それが自分に課せられた使命だ。

 瞼を持ち上げる。自分へと降り注ぐ青い光が、さっきより強く、ひやりと冷たくなった気がした。

 真っ直ぐ音楽室に行かず、わざわざ学校の敷地内にあるこのチャペルを覗きに来たのだ。昔を懐かしんでばかりいないで、神様に祈りでも捧げていこうか。

 胸の前で掌を合わせ、瑛太郎は深く息を吸った。

 吹奏楽部がどうか、もう一度全日本コンクールへ行けますように。
 そしてできることならその先に、不破瑛太郎の進むべき道が、ありますように。

 祈り終えた瞬間、背後の扉が開き、誰かが、チャペルに入ってきた。


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風に恋う|額賀澪|番外編

『風に恋う』(文藝春秋)の番外編です。作者が自由気ままに書いていますが、出版社を通していないので誤字脱字など未校正の部分がありますことをご了承ください。
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