風に恋う帯無し

風に恋う|序章|03

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「玲於奈!」

 離れてしまった幼馴染みの背中に投げかける。オレンジ色の外灯の下で、彼女はやっとこちらを振り返った。まだ、唇を尖らせている。
 並木道の横に、大きな噴水があった。ちょっとした池くらいのサイズで、人っ子一人いないというのに白く透き通った光でライトアップされている。

「なに?」

 私は今、不機嫌だぞー! そう聞こえてきそうな声に、基は吹き出した。

「来て」

 嫌だと言われる前に、小走りで並木道から外れる。ライトアップされた噴水の前まで行って、サックスケースを下ろした。蓋を開け、ネックストラップを首から提げ、コートのボタンを外した。中は冬用の制服とはいえ、外気が入り込むと寒かった。

「なによ、どうしたの」

 思ったより近くから玲於奈の声がした。ちゃんとついてきてくれたみたいだ。本番が終わってもう一時間以上たつ。アルトサックスはすっかり冷えてしまった。触れた瞬間、まるで基を拒絶しているみたいな、痛みに似た冷たさが掌を駆け抜けた。

 リードをケースから取り出して、口に咥える。サックスはこれがないと音が出せない。リードを自分の唾液で湿らせ、マウスピース部分に装着し、玲於奈を振り返った。彼女は神妙な顔で基を見ていた。アーモンドみたいな形をした目は、笑うと可愛いし怒ると怖い。落胆と怒りと憤りと、寂しさの入り交じった玲於奈の表情と静かなたたずまいは、雪が降っているみたいだった。夜闇に降りしきる雪だ。

 緩やかにカーブする吹込管に両手を添え、マウスピースから息を吹き込む。サックスを構成するパーツは六百あるらしいから、それら一つ一つに自分の息が届くように。

「玲於奈」

 サックスを抱きしめて、基は二歳年上の幼馴染みの名前を呼ぶ。責任感が強くてときどき頑固で、でもときどき基に甘い。

「見てて」

 物心つく前から彼女は自分の側にいた。同じものに憧れて一緒に吹奏楽を始めた。玲於奈、見てて。自分がそう言えば、玲於奈は絶対に見ていてくれる。不機嫌でも、絶対に。

「それでは聴いてください。ミュージカル『レ・ミゼラブル』より、『夢やぶれて』です」

 曲名に、玲於奈が息を飲んだのがわかった。あえて、『宝島』とは違うしっとりとした曲を選んだ。らしくないとは思ったけれど、今は弾けるように元気な曲を吹く気分ではなかった。

 だって今日は、玲於奈と初めて道を違える日だ。茶園基が、吹奏楽から離れる日だ。

 悲しげなメロディは、徐々に壮大なものになっていく。でも、その中にある痛みや愁傷は消えない。むしろ高らかな音色に合わせ、悲しみを増していく。

 玲於奈がこちらをじっと見ている。アーモンドみたいな綺麗な形の目を、真っ直ぐ基に向けていた。これはこれで、何だか照れるな。そう思って、基は噴水の縁に飛び乗った。それなりにスペースがあったから、バランスを崩す心配もない。玲於奈が一瞬驚いた顔をしたけれど、基は彼女に背を向けて演奏を続けた。

 大量の水が噴水から夜空に向かって舞い上がる。揺れる水面に自分の影が映り込んでいる。欅の木に囲まれ、冷たい風の吹くこの場所で、サックスの音は噴水と共に空を突く。
 昔、今の基よりずっと上手に、魅力的に、神々しいまでの演奏をする人を――人達を見たことがあった。あまりにも眩しすぎて、どうやって見つめればいいのかわからなかった。その音色に手招きされたら、駆けていくしかなかった。そうやって基は吹奏楽の世界に飛び込んだ。

 彼等がいた千学吹奏楽部は、もう基の憧れの場所ではない。

 最後の音を出し切ると、風に乗って小さな雫が目の前を飛んでいった。噴水の水が、こんなところまで飛んできたのかと思った。
 そうではないと、わかっていた。わかっていたけれど、目元は拭わなかった。玲於奈に気づかれたら、きっと引き戻されるから。

『宝島』で包み隠したはずの未練が、ほんのちょっと顔を覗かせる。でも、見ない振りができるくらいには自分は大人だ。そうでないと、困るのだ。

「ねえ、玲於奈」

 振り返らず、基は言う。

「『夢やぶれて』って、フランス語の曲名は『私は違う人生を夢見た』っていうんだって」

 自分が今そんなことを言う意味を、玲於奈は理解してくれるだろう。
 鼻を擦る振りをして目元を手の甲で拭った。眼鏡がずり落ちた。眼鏡をかけ直して改めて眺めた噴水は、照明は、欅の木は、どれもぼんやりとしていた。

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