風に恋う帯無し

風に恋う|第1章|11

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 二人を呼びにきた瑛太郎が連れて行ったのは、普段練習をしている第一音楽室ではなく、その隣の音楽準備室だった。

「昼休みに悪かったな」

 音楽準備室は実質吹奏楽部の顧問の部屋だ。さほど広くない部屋の中には長机が置かれ、本棚からは楽譜が雪崩れ落ちそうだった。

 瑛太郎が、部屋の隅の冷蔵庫から取り出したペットボトルの麦茶をグラスに注いで、基達の前に置く。

「君達に聞きたいことがある」

 自分の分の麦茶を手に、瑛太郎は窓ガラスに寄りかかってこちらを流し見た。麦茶に手をつけることなく、基と堂林は姿勢を正す。それを見た瑛太郎が、くすりと笑った。

「そんなに俺が怖い?」

 基は慌てて首を横に振った。

「いや、怖いんじゃなくてですね。瑛太郎先生のことはテレビで見たことがあるし、何より全日本に行ったことのあるOBがコーチだなんて、みんな緊張してるんだと思います」

「……そんな気はしてた」

 麦茶を一口飲んで、瑛太郎は苦い顔をした。近くの机から取り上げた書類らしきものに視線を落とし、堂林を見る。

「堂林慶太。春辺二中で全日本コンクールに三年連続出場。中三のときは部長もやってた」

 突然名前を呼ばれて、堂林が「はい」と頷く。瑛太郎は書類を捲って、今度は基を見た。

「茶園基。大迫一中で去年は西関東大会に出場」

「ダメ金で、全日本には行けませんでしたけど……」

 吹奏楽コンクールには、都道府県や支部によって多少の違いがあるにしろ、どこも地区大会、県大会、支部大会と多くの予選がある。上位大会に進むには、各大会で推薦団体に選ばれなければならない。金賞を受賞しても推薦団体になれない場合もある。それが《ダメ金》だ。

 去年の九月。西関東大会で堂林のいた春辺二中は金賞を受賞し全日本の推薦団体に選ばれた。

 基達は《ダメ金》で、金賞は受賞したものの全日本へは進めなかった。

 ぽっきりと、自分の中で何かが折れた瞬間だった。

「だから、『夢やぶれて』なのか?」

 瑛太郎が口にした曲名に、基はパイプ椅子を鳴らして立ち上がった。

「なんでそれを知ってるんですか!」
「大迫一中の定演の動画をネットで見てたら、関連動画に上がってたから」

 瑛太郎がわざわざ自分のスマホを出して、玲於奈がアップした動画を見せてくる。「いいです! 再生しなくていいです!」と両手をばたばたと振って、椅子の上に崩れ落ちた。

「玲於奈、消すって言ったのに……」
「一度ネットに出回ると、完全に消すのは難しいからな。気をつけた方がいい」

 うな垂れた基に、呆れ顔で笑いながら瑛太郎が言ってくる。

「それ、先生の実体験ですか?」

 元気出せよ、と基の肩を突きながら、堂林が聞く。

「先生が千学にいたときの映像、ネットでよく見かけるから」

 千学の吹奏楽部が取り上げられたドキュメンタリー番組の一部は、動画サイトを検索すれば未だに見ることができる。

「ああ、そうだな」

 何故だろう。一瞬、自分達を見る瑛太郎の顔に影が差したような気がした。受け止め方のわからない曖昧な笑みをこぼして、すぐに話題を変えた。

「君等はさ、千学の吹奏楽部をどう思う?」

 テーブルに両手をついて、こちらを見下ろす。

「千学は、全日本コンクールに行けると思うか?」

 獲物を見定める獣のような目だった。瞳の奥で、こいつ等は自分が狩るに足る存在なのかどうか、吟味している。

「駄目だと思います」

 気がついたら、そう口が動いていた。

「瑛太郎先生が来て、みんなやる気が出たみたいに見えました。でも朝練に来る人は十人ちょっとです。今が一番モチベーションが上がっているはずなのに、朝から吹こうって人があの程度しかいないって、駄目だと思います」

 堂林が、ちらりとこちらを見た。

「全日本って目標は掲げてますけど、掲げてるだけっていうか。僕は先輩達から『今日は絶対にここを吹けるようになろう』っていう気合いを、一度も感じたことがないです」

 今、自分は先輩を非難している。部長として部を運営する玲於奈を遠回しに非難している。

 でも、ただ、この人には――不破瑛太郎には、失望されたくなかった。

「俺もそう思います」

 隣で堂林が静かに頷く。

「朝練に来てる人等も集中して練習してるとは言えないし。来るだけで満足してるのが丸わかりで毎日苛々してたんで」

 何故、自分達がここに呼ばれたのかを考えた。そして、それを言葉にした。

「埼玉県大会はただでさえ激戦なのに、今の状態で勝ち上がれるわけがないです」

 今や全日本に出場する学校はどこも上手い。特に埼玉県大会は激戦だ。埼玉県大会の上にある西関東大会から全日本コンクールに推薦される高校は、すべて埼玉県代表で占められるくらい有力校がひしめき合っている。中一、中二のときに県大会敗退、中三で西関東大会敗退を経験した基は、それをよく知っている。玲於奈だって、知っているはずなのに。

「じゃあ、君等だったらどうする?」

「え?」とか「僕達ですか?」と聞き返したくなった。でも、喉の奥に力を入れて堪えた。

「多分これは、瑛太郎先生が卒業してからできてしまった悪しき風習なんだと思います。玲於奈は……部長は僕の幼馴染みなんですけど、二年前、部長が入部した当初、『たるんだ空気をしゃきっとさせたい』と言ってたのを覚えてるんで」

 でも結局、玲於奈が部長になっても変わらない。五十人以上の大きな組織を、一人がそう易々と変えられるわけがない。

「瑛太郎先生がコーチとして来てくださったのは、僕はチャンスだと思ってます。今なら、吹奏楽部の悪い部分をぶっ壊せるんじゃないかって」
「へえ」

 笑いを含んだ瑛太郎の相槌に、基ははっと顔を上げた。
 唇の端を吊り上げて笑うその顔を、基は小学生の頃テレビで見た。ああ、あの人が今自分の目の前にいるんだなと、肌で感じた。

「ありがとう」

 麦茶飲んだら? と瑛太郎が基と堂林のグラスを指さす。「はい!」と声を合わせて、二人で麦茶を飲み干した。それがおかしかったのか、瑛太郎はまた呆れたように肩を揺らした。




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