猫と狸と恋する歌舞伎町|1章-2

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 七時を過ぎた頃、「今日はもうおしまいだよ」と抱き上げられ、店の外に出された。猫相手に、彼女は「またおいで」と手まで振ってくる。

 しっぽ屋のシャッターが閉まるのを見届けて、俺は店と店の隙間に体を滑り込ませた。窓枠や雨樋を伝ってしっぽ屋の屋根に上り、すっかり暗くなった谷中の町を、暗くなっても賑やかな谷中銀座を、しばらく見下ろしていた。

 そろそろ、帰り支度を終えた椿が裏口から出てくる頃かな。そう思って腰を上げたときだった。

 ひらりと、屋根の上に白と茶色の毛をした猫がやって来た。俺とよく似た尖った耳と、綺麗な逆三角形の鼻をしている。でも、目だけは違う。俺の金色の目とは違って、落ち着いた褐色の瞳を彼はしている。

 お互い顔も見たくないと思っているはずなのに、何故か彼は――俺の双子の弟、谷中野分は、俺を見かけると必ずこうして近づいてくる。

「いつまで人間と恋人ごっこしてるの」

 最後に野分と会ったのは、今月の頭だった。台風が東京に迫っていて、こいつの名前みたいな、野の草を吹き分けるような強い風が谷中の街に吹き荒れていた。「台風が迫っているから早仕舞いになった」という椿と一緒に、カヤバ珈琲でたまごサンドを食べていたときだ。椿はあそこの、コーヒーとココアが半分ずつブレンドされたルシアンが大好きだから。

 古民家をリノベーションして作った店内では、次第に強くなってきた風に窓ガラスがカタカタと鳴っていた。ほんのりと辛子の利いたたまごサンドを齧りながら、「風、強いな」なんて言って窓の外を見たら、道路を挟んで反対側に、野分がいた。向こうも俺に気づいていた。

 猫の癖に人間に化けて、人間と恋人ごっこをする双子の兄を(いや、きっと兄貴だなんて思ってないだろうけど)、野分はあの日の風と正反対な静かな目で見ていた。忌々しいものを見てしまったという顔で彼が去っていくまで、俺はたまごサンドを咥えてそれを眺めていた。

「無視をするな」

 回想にふけっていた俺に自分の言葉を無視されたと思ったのか、野分が俺の前に回り込んでくる。しっぽをぱたぱたと振り、毛を逆立てた弟に、俺は「無視してないよ」と首を横に振った。

「そんなに俺が嫌いなら、近寄ってくるなよ」

「好き嫌いの問題じゃない。身内が街中に恥を晒しておいて、黙っていられるか。父さんだってそう言ってる。『みっともないことをしてないで大人しくしていろ』って」

「オスの三毛猫で化け猫で、挙げ句の果てに人間に化けて人間と恋愛ごっこしてるし?」

 野分の言いたかったことをすべて奪って綺麗に言葉にしてやると、我が弟はぐっと頬に力を入れて身構えた。俺が猫パンチでもすると思ったんだろうか。

 俺が一度でも、お前にそんなことをしたことがあるか。

「化け猫も何も、谷中家に生まれた猫はみんな似たようなもんじゃないか。お前も父さんも」

 谷中家に生まれる猫は、みんな化け猫の血を引いている。《化ける力》を持たないだけで、寿命は普通の猫よりずっと長い。それ故に、谷中家は谷中、根津、千駄木――通称・谷根千で暮らす猫を統べる名家として、長く繁栄してきた。

 人間の寿命と同じくらい長生きする猫なんて、人間からしたら化け猫みたいなものだ。

 なのに、本当に《化ける力》を持って生まれた猫は、厄介者だ。

 しかも俺は、三万匹に一匹しか生まれないと言われている、《オスの三毛猫》だし。

 人間社会では黒猫を不吉の象徴と考えるらしいけれど、猫の世界ではオスの三毛猫が最も忌み嫌われる気味の悪い存在だ。黒猫なんていくらでもいる。でも、三毛猫は本来、遺伝子的にメスしか生まれない。オスの三毛猫は、化け物とか妖怪の類と一緒だ。

「あんたと一緒にするな」

 声には出さなかったけれど、野分の口が「化け物が」と動いた。はっきりと、わかった。

 しっぽ屋の裏口のドアが開く音がする。椿の「お疲れさまでしたー」という声に、俺はぴくりと肩を揺らした。俺を忌み嫌う弟や、家族の繋がりだとか、家柄とか、そんなものより大事なものが、今の俺にはあるのだ。

「じゃあね。彼女が来たから」

 すっかり夜に染まった風に乗るようにして、俺は身を翻した。「まだ話は終わってない」「何が彼女だ。馬鹿らしい」なんて言われたけれど、どうだっていい。

 だって、猫は、自由な生き物なんだから。

 換気扇と室外機を伝って裏路地に飛び降りる。換気扇のファンが回る音に紛れるように息を吐き出し、目を閉じて、もう一度大きく息を吸う。

 地面に降り立つ頃には、俺は大学生の谷中千歳になっている。大学三年生。二十歳。池袋の立教大だったり駿河台の明大だったり、たまに渋谷の青学にも出没する。田舎から出て来て一人暮らしをしていて、最寄り駅は日暮里。実家は遠いから滅多に帰らない。好きな食べ物はつけ麺。特技は球技なら何でも。

 そういう設定で、化け猫の俺は人間としての生活を楽しんでいるのだ。

「椿っ!」

 商店街の通りに出てきた椿の名前を呼ぶ。振り返った彼女は、胸の前で手を振った。猫のミケちゃんを見るときと同じ、くしゃっと音が聞こえてきそうな笑顔で俺の名前を呼ぶ。

 千歳君、と。

「待った?」
「結構待った」

 待ってないよと嘘をついていたのは、二ヶ月ほど前まで。根津神社近くの和菓子屋でアイス最中を買っていた頃。かき氷の専門店でとろとろのヨーグルトがかかったかき氷を食べていた頃。

「暇してたから、お店来てもよかったのに」

 まさか俺が、文字通り猫を被って来店していただなんて、微塵も思ってないだろう。

「閉店前に邪魔しちゃ悪いと思ったから」
「千歳君って、そういうところ律儀だよね」

 並んで歩きながら、椿が手にしていた紙袋を開けた。猫の足跡のイラストがプリントされた袋から出てきたのは、先ほどまでショーケースの中に並んでいたドーナツだ。

「《ブチ》と《トラ》、どっちがいい?」

 チョコチップ入りの《ブチ》と、ココア生地が練り込まれた《トラ》。俺が「両方」と答えると、椿は「ワガママ!」と呆れながらも、二本のドーナツを半分に割った。別にどっちだっていいんだ。ただ、半分こをしたかっただけだ。

 小さくなったドーナツを片手に歩く俺達には、特に目的なんてなかった。別に約束をしていたわけでもないし、どこか行く当てがあるわけでもない。ドーナツを齧りながら谷中銀座をうろうろして、夕やけだんだんに腰掛けて話をする。今日あったこと、昨日あったこと、明日のこと。

 池袋と違って背の高い建物がない谷中の街は、夜空が広く感じられた。星のない冷たく暗い上空に反して、谷中銀座には煌々と明かりが灯って、人間が行き来していて、誰かの声や温度が感じられる。

「地下の街みたいだよな」

 ドーナツの最後の一欠片を口に入れて、俺はそんなことを口走っていた。すぐさま椿が「えええー?」と語尾を上げた。

「そうかなあ? そんな辛気くさい?」
「だって、下は明るいのに空は真っ暗だから。星も見えないし」
「地下の街っていうのはね、もっといろんなものが密集してて、嫌な臭いがして、空が狭くて遠いんだよ」
「なんでそんなことわかるの」
「私の地元、そんな感じだったから」

 明るい谷中の街と、星の見えない真っ暗な空。その境目を見つめながら、椿がすうっと遠い目をした。椿は、地元の話を絶対にしない。この近くで一人暮らしをしているけれど、どこで生まれてどこで育ったのか、絶対に言わない。俺も自分のことを聞かれたくないから、彼女に聞くこともしない。

「へえ、椿って、地底人だったんだ」
「そういう意味じゃなくって」

 ほんの少し険しい顔つきをした彼女だけれど、俺が笑いかけたらすぐにまたくしゃっと笑った。

「千歳君、本当に綺麗な目してるよね」

 先ほどミケちゃんにしたように、椿の指が俺の額を突いてくる。
 椿と初めて言葉を交わしたときも、彼女はそう言って俺の目を褒めた。

「そう? ありがと」

 俺の目は、人の姿に化けても色が変わらない。毛の色も匂いも《変化》によって変えられるのに、目だけは、いつも金色のままだ。黒やブラウンの瞳が多いこの国では非常に目立つ。人間の世界では金色の目はアンバーアイズなんて言われるらしいけれど、とりあえず友人には「祖母ちゃんがヨーロッパ系だから」と適当な嘘を言って誤魔化している。

 何はともあれ、椿が俺の目を気に入っているなら、それでいい。俺も、大粒のアーモンドみたいな綺麗な形をした椿の目が、結構好きだ。

「今日、夕ご飯、食べに来るでしょ?」

 何が食べたい? と小首を捻る椿に、喉元がくすぐったくなった。

「じゃあ、いちふじのコロッケがいい」

 谷中銀座内にある総菜屋の名前を出すと、手料理を作るつもりだったらしい椿は鼻白んだ様子で俺を見た。

「千歳君、前々から思ってたんだけど、もしかして私の料理の腕を信用してない?」
「違うよ。バイト終わりで疲れてるかなと思って」

 椿の家に行くようになったのは、数週間前からだ。手料理をご馳走しようとしてくれる椿に、いつも「出来合いの総菜でいい」と俺は言う。

「千歳君がそう言うなら、いいけどさ」

 ふふっと笑った椿は、「じゃあ買い物して帰ろうか」と立ち上がった。膝丈のスカートのお尻を払って、「ほら、行こう」と夕やけだんだんを一段一段スキップするみたいに下りていく。夜風にスカートが揺れ、谷中銀座の煌めきが逆光になって、彼女の細い足や白い首筋や俺を流し目に見る横顔に、黒い影を作る。

 彼女に誘われるように、腰を上げたときだった。

 古き良き下町の面影が心地いい谷中の街の一角から、美味しい匂いのする商店街のどこかから、鋭く冷たい視線を感じたのは。

「千歳君?」

 椿が振り返る。商店街を行き来する人々に、商店の屋根の上や植え込みの影にいる猫達に、目を凝らした。でも、視線の主を見つけることは叶わなかった。

「……またか」

 前回似たようなことがあったのは、先週だ。やはりこうして椿と一緒にいるとき、誰かに睨め付けられているような、嫌な感じがした。

 商店街を見つめたまま動かない俺を、椿がもう一度呼ぶ。千歳君と、新雪に足を下ろすような、澄んだ声で。

 野分の言う通りこれはあくまで《人間ごっこ》の《恋人ごっこ》だとわかっているつもりなのに、ついつい深入りしてしまいそうになる。触れたら冷たくて痛いはずなのに、それでも降り積もった雪に足を踏み入れたい。そんな気持ちになる。

「何でもない。コロッケ買いに行こう」

 嫌な視線が飛んできた方向に歩いて行くのは気が進まなかった。椿の手を握って、なんてことないどこにでもいそうな人間のカップルの顔で、俺は谷中銀座を進んでいった。

 総菜屋でコロッケとメンチと、ついでに焼き鳥を二本買って、「野菜が足りない!」という椿が八百屋に寄ってレタスとトマトを買った。千駄木駅近くにある椿のアパートまで歩き、三合炊きの炊飯器でご飯だけを炊いて、二人で夕飯を食べる。テレビを見ながら零時近くまで話をして、俺は彼女の家を出る。

 椿も、「泊まっていけば」とは言わない。強引に手料理を作ることもない。だからなんとなく、彼女も谷中千歳と本気で恋人になろうとしていないような気がする。そこにどういう事情があるのか、意図があるのか、俺にはわからない。気にはなるけれど、詮索してはいけない。

 椿の手料理を食べないのも、彼女の家に泊まらないのも、俺なりの《ごっこ遊び》の線引きだった。手料理を食べてしまったら、何だかもう後戻りができなくなりそうな気がする。彼女と一夜を過ごしてしまったら、やっぱり、離れるのがしんどくなりそうな気がする。俺の気持ち的にも、彼女の気持ち的にも。

 椿に見送られてアパートを出て、谷中方面に向かって歩き出したときだった。夕やけだんだんで感じたのと全く同じ、刺すような視線を感じたのは。

 個人商店の多い谷根千の夜は早い。コンビニや二十四時間営業の店ももちろんあるし、大きな通りは車も多いけれど、それでも池袋や新宿と比べたら谷根千の夜は静かで、寂しげで、どこかもの悲しい。

 細い路地に入り、周囲に誰もいないことを念入りに確認してから、俺は夜闇に紛れて《変化》を解いた。

 耳をピンと立てて、しっぽを揺らして。寝静まった谷根千の街を、民家の屋根を伝いながら駆け抜けた。



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