風に恋う大ラフ

風に恋う β版|第1章|01

第1章|追憶と『二つの交響的断章』

 桜の花の色を眩しいと思った。

 風に枝先が揺れると、粉雪のように花びらが落ちてきた。一枚が基のつむじのあたりにのっかる。それを指先で摘み上げて、溜め息をぐっと堪えた。

 ただの花を特別なものに感じてしまうのは、きっと、ここがかつて憧れた場所だから。憧れた人が通っていた高校の門をくぐり、今日から自分も生徒の一人として、ここで三年間を過ごすから。

 花びらを手放すと風向きが変わった。強めの風に、地面に落ちた花びらが舞い上がって……その様がまるで、自分達はまだ散るつもりなんてないと抗っているようだった。

 舞い上がる花びらの群れの向こうに、古びたチャペルが見えた。

 基が今日から通うことになる私立千間学院高校はキリスト教系の学校だ。私立といってもお洒落で綺麗な建物があるわけでもなく、むしろ周辺の公立高校よりずっと古びた校舎を使っている。

 唯一キリスト教系の学校らしい施設が、正門から校舎へと伸びる並木道の途中に建つチャペルだ。鉛色の石を組み上げて作られたチャペルは小さいながらも重厚感があり、三角屋根の天辺に佇む十字架が、次から次へとやって来る生徒を見下ろしていた。

 新入生の登校時刻までまだ余裕がある。生徒の流れから外れて、基は静かにチャペルへと近づいていった。

 老朽化が進んでほとんど使われることがなくなったというチャペルは、建物を囲むように木が植えられているけれど、桜ではないようで花も咲いてない。

 昔、ここで吹奏楽部の演奏を聴いたことがあった。当時基は小学四年生で、玲於奈は五年生だった。

 あの頃と何ら変わっていない木製の扉を、基はゆっくりと引いた。扉はいとも簡単に開いた。暗い廊下を進むと、春に似合わない湿った香りが鼻をくすぐる。人の体温とか、声が混ざっていない空気だ。

 エントランスと聖堂を隔てる小さな両開きのドアをくぐると、真っ先にステンドグラスが視界に飛び込んできた。

「……変わってない」

 整然と並べられた椅子とテーブル。柱には花の彫刻が施され、ドーム型の天井からは照明が吊されているが、今は仕事をしていない。千学のスクールカラーである青色を基調としたステンドグラスには朝日が差し込み、青い光が通路に伸びている。チャペルの周囲に立つ木々が風に揺れて光を遮ったり通したりするせいか、青色の光も絨毯の上を踊るように揺れていた。

 光の揺らめきに誘い込まれるように、基は通路を進んで行った。

 かつて、千学の吹奏楽は強豪だった。全日本吹奏楽コンクールで金賞を受賞し、テレビにも取り上げられ、このチャペルで行われる定期演奏会も満員だった。十歳の基からすれば、吹奏楽部の部員達は雲の上の存在だった。芸能人のようだったし、英雄のようでもあった。自分が彼等と同じ年齢になることも同じ学校に通うことも想像できなかった。

 ただ確かなことは、十歳の基がこの場所で彼等の演奏を聴いて、吹奏楽を始めたことだ。

 堪らず溜め息をこぼしそうになったその瞬間、前方の座席からガタン、という乾いた音がした。

「……え?」

 視界の隅で影がうごめいて―誰かが、すっと立ち上がる。基は喉の奥で悲鳴を上げた。

 立ち上がったその人は高校生には見えなかった。正面のステンドグラスから差し込む光が逆光になって、目鼻立ちや表情は見えないけれど、背が高く、肩幅も広く、青みがかった影の向こうから大人っぽい落ち着いた雰囲気まで漂ってくる。

 相手は何も言わず座席から通路に出て、こちらに向かって歩いてくる。身につけている服は大学生が就職活動で着るような真っ黒なスーツだった。すれ違い様に小さく会釈をされて、やっと顔を見ることができた。

 もう一度息を吞んだ。

 その人は何も言うことなく去っていった。扉が閉まるのを背後でしっかり感じてから、勢いよく振り返る。そこにはもちろん誰もいなくて、今度こそ一人きりになった。

 たっぷり時間をかけて基は思案する。すれ違う瞬間に見えた顔を基はよく知っていた。でも、あの人がここにいるわけがない。あの人が千学にいたのは何年も前で、とっくに卒業していて、入学式の日にチャペルにいるわけがない。いるわけがないのだ。

「……幽霊?」

 いや、生き霊?

 誰もいないチャペルでやっと声にできた疑問は、誰にも届かない。当然、誰も答えてくれない。

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ありがとうございます。
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額賀 澪 NUKAGA Mio

小説家。最新刊『風に恋う』発売中。2015年松本清張賞・小学館文庫小説賞受賞。既刊『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』『タスキメシ』『さよならクリームソーダ』『拝啓、本が売れません』など。詳しくは>>>http://nukaga-mio.work/

『風に恋う』β版|額賀澪|試し読み

7/13刊行の音楽×青春小説『風に恋う』(文藝春秋)の校了前の文章(β版)です。ほとんど初稿の状態です。なので、誤字脱字など、未校正の部分がありますことをご了承ください。(『拝啓、本が売れません』(KKベストセラーズ)に先行掲載したものとほぼ同じ内容です)イラスト:hiko
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