風に恋う|番外編|栄冠は誰に輝く|04

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 意図がわからない。

 ピッチングマシンから飛んでくるボールに向かって思い切りバットを振りながら、何度も何度も思った。

 「野球、やりにいくか」と突然言い出した瑛太郎に「遠慮しておきます」とは言えなくて、わざわざ電車に乗ってバッティングセンターまで来た。

 いや、確かに、野球の話はしてたけど。そもそも俺はオーディションのときのこととか、部長である茶園のことを先生に聞きたかったはずなのに。

 そんなことを考えながら打つものだから、ボテボテのゴロばかりだった。

 隣のレーンからは、ときどき快音が聞こえる。打席から鋭く飛び出す白球が、視界の隅をちらつく。

「先生、左打ちなんですね」

 堂林は右打ちだから、左打ちの瑛太郎とこうしてバッティングセンターのレーンに並ぶと、向かい合うような形になる。

 小学校までしかやっていなかったという割に打席に立った瑛太郎のフォームは様になっていて、そこまでのブランクは感じさせなかった。「野球より吹奏楽の方を好きになった」と言っていたけれど、案外野球も上手だったんじゃないだろうか。

「右投げ左打ち」

 短くそう答えて、瑛太郎がバットを振る。これまたいい音がして、ボールは夕焼けに吸い込まれるように一直線に飛んでいって、ネットに当たって落ちていく。「ホームラン」の的まで、あと少しだった。

「ポジションは?」
「ショート」

 ああ、うん、なんか、それっぽい。

「堂林はそうだなあ……ピッチャーかな」

「ピッチャーがやりたくて野球チームに入りましたけど、結局ずっとファーストでした。ちょうど、カープの堂林がドラフトで指名された頃ですよ」

 堂林翔太と堂林慶太。一文字しか違わないから、チームメイトや監督からからかわれたりもした。悪い気はしなかった。

「そうか、君等、二〇〇一年生まれだもんな」

 マシンから先ほどと全く同じ軌道で、同じ速さで、球が飛んでくる。タイミングは摑めたと思ったのに、やはりゴロだった。

 何故か、それを小学生の不破瑛太郎に捕球され、一塁でアウトにされる光景が浮かんでしまう。

「あんまり上手じゃなかったんで、どんどんつまんなくなっちゃったんですよ」

 下手くそでも、楽しければ続けられる。好きなら続けられる。

 そう思ったけれど、どうやら自分は《上手にできないと楽しくない質》の人間だったらしい。

 でも中途半端に辞めるのは格好悪い気がして、とりあえず中学に上がるまでは野球を続けた。いつしか、自分のことをカープの堂林とかけてからかう奴もいなくなった。

「俺も似たようなもんだったかな」

 バットを振りながら、瑛太郎が突然そう言う。しみじみとした顔で、当時を懐かしむようにして。

「一緒に野球やってた友達ほど熱心になれなかったというか、このまま野球やっててもいいけど、もっと熱中できるものが他にあるのかもしれないなあって、ずっと思ってた」

「どうして吹奏楽部だったんですか」

「中学の入学式のとき、学校のエントランスで吹奏楽部が新入生を歓迎するために演奏してるのをぼけっと見てたら、そのまま拉致された」

 そのときのことを思い出したのが、瑛太郎の頰が静かに緩んだ。そのせいか、バットに当たったボールは、明後日の方向へと飛んでいってしまう。

 フェンス際で夕日に照らされる白いボールをぼんやりと眺めていたら、目の前をボールが鋭く走り抜けていった。慌ててバットを構えて、前を見据える。

「俺も」

 何故だか、言葉が口を突いて出てくる。

「中学の部活見学のときに吹奏楽部の先輩に捕まって、無理矢理音楽室に連れて行かれて、試しにトランペットを吹いてみたら結構いい音が出て。同じパートの先輩から『才能あるよ』って言われて入部したんです」

 今から思えば、見学に来た一年生に「君、才能あるね!」「吹奏楽部に入部しないともったいないよ!」と言うのは、新入部員獲得のための常套句というやつだったのだけれど。

「その先輩とやらは、いい目と耳をしてたんだな」

 瑛太郎が笑いながらバットを振った直後、鋭い打球がネットに向かって飛んでいく。

「どこまで本気で言ってたのか知りませんけど、俺、その人には感謝してますよ」

 《上手にできないと楽しくない質》の自分が、楽しく練習することのできる世界だったのだ、吹奏楽は。

 トランペットを吹く自分は周囲より少しだけ速く走ることができて、高く飛ぶことができて、練習すればするだけ上達することができた。

「吹奏楽では全日本に行きたいって思うし、実際に中学のときに行きましたけど。野球で甲子園に行く自分をイメージできるかっていったら、ぜーったい、無理ですもん」

 どうして自分は、もっと早く吹奏楽と出会うことができなかったのだろう。

 初めてコンクールのステージに立ったとき、そんな風に思った。楽しくない野球を無理に続けないで、さっさと吹奏楽に、トランペットに出会っていたら、楽しい時間はもっと長くなったはずなのに。

 そうだ。そのときから、言いたいことは言ってやろうと決めたのだ。嫌なものは嫌だと言うことにしたのだ。

 嫌だ嫌だと思いながら惰性で何かを続けたって、いいことなんて何一つないのだから。

「瑛太郎先生!」

 ピッチングマシンから飛んできた白球に、バットを振り下ろす。両の掌に伝わってきた振動で、いい当たりだと確認した。

 天へ突き上がるような心地のいい音と共に、ボールはさっきの瑛太郎の打球とそっくりの軌道を描いて飛んでいく。

 隣のレーンに視線をやると、バットを下ろした瑛太郎がこちらを見ていた。

「どうして、俺じゃなくて茶園だったんですか」

 この人の目は、混じりけのない黒い色をしている。間違いなくしている。でもときどき、瞳が青みがかって見えるときがある。ドキュメンタリー番組で一方的に彼を見ていたときから、ずっとそうだった。

「俺が『本当のことを全部はっきりと言っちゃう』のは確かにそうですけど、でも、少なくとも俺は、あいつよりもっと上手くやりますよ」

 マシンから放たれた白球が、堂林の目の前を通り抜けていく。フェンスに当たって、乾いた音を立てて転がる。

「上手くやられてもしょうがないんだよ」

 再びバットを構えた瑛太郎の目が、ピッチングマシンの方を向く。

「いや、上手くやってくれるぶんにはありがたいんだけど、俺は茶園にそれを求めてない」
「じゃあ、先生は何を求めてるっていうんですか」

 そしてそれは、俺にはないというのか。

「茶園にはオーディションのあとに話したんだけどな」

 瑛太郎がバットを振る。果実が潰れるような音がして、ボールは彼の真正面に鈍く転がった。微かに首を捻った瑛太郎は、再びバットを構えて前を見据える。

「あいつが、オーディションよりも自分の理想を大事にする奴だったから」

 バットが空を切る音が、一層鋭くなった。快音を上げて飛んでいくボールを目で追うと、夕日に遮られて見えなくなってしまった。

「ああいう奴が一人いると、苛立つ奴もいるし、生意気だって思う奴がいるのも当然だ。でも、今の千学に足りないのはそういうところだって俺は思ってるよ」

「それで、先輩達が茶園をいじめるようなことがあったら、どうするつもりだったんですか」

「俺は自分の後輩がそんなに愚かな連中だとは思ってないから」

 それに、鳴神もいるしな。信頼感たっぷりに、瑛太郎はそう付け足す。

「堂林も、オーディションのときの茶園に、実はむかついたんじゃないのか?」

 バットを振る合間に瑛太郎がこちらに投げて寄こした視線に、ヒヤリとした。

 右手が強ばって、飛んできたボールに手が出せなかった。フェンスにボールが当たる音が、堂林の背中を小突いてきた気がした。

 そうか、俺は茶園にむかついてたのか。「もっと上手く立ち回れよ」とか「先輩の前で何を口を滑らせてんだ」とか、そういう副部長としての苛立ちではない。

 もっと子供っぽくて、恥ずかしくて、冷たくて醜い――嫉妬だ。
 オーディションで勝つことにばかり目が行っていった自分を思い知らされて、《程度が低い》と言われたみたいで。

 違う。《程度が低い》と言ったのは、茶園じゃない。俺だ。俺自身が、ずっと気づかずにいた自分の程度の低さに、あいつの一言で無理矢理向き合わされたんだ。

 きっとそれは自分だけじゃなくて、あの場にいた全員が、そうだった。

「別に、みんなに茶園みたいになってほしいなんて微塵も思ってないし、堂林にそうなってほしいわけでもない。ていうか、部長と副部長が揃いも揃って茶園みたいだったら、絶対に手に負えないから勘弁してほしい」

「じゃあ、俺にどうなってほしいんですか」

 どうなってほしい。どうしてほしい。俺は、どうすればいい。

「俺は堂林に『本当のことを全部はっきりと言っちゃう奴』でいてほしいし、『上手にできないと楽しくない奴』でいてほしいけどな」

 決められた球数を吐き出したピッチングマシンが止まる。少し離れたところで誰かが打っているみたいだけれど、途端に周囲は静かになった。

 バットを肩に載せて、瑛太郎がこちらに近づいてくる。フェンス越しに、堂林を見下ろした。

「俺は、部長に茶園基を選んだけど、同じように副部長に堂林慶太を選んだつもりだよ」

 何も返せないでいる堂林に、瑛太郎は笑った「ははっ!」と笑って、「もう二十球やっていい?」といたずらっぽく笑ってみせる。

 堪らなく、六年前にドキュメンタリー番組を通して憧れた顔だった。

「終わったら、蕎麦でも食って帰るか」
「はい?」
「来る途中にあったじゃん、蕎麦屋。腹減ってきたから」

 たった今、もの凄く大事なことを言ったのに。俺にとっては、大事なものだったはずなのに。あっという間に瑛太郎はそれを忘れたような顔をして、再びバットを構えてしまった。

 その日は、本当に蕎麦を食べて帰った。特別に美味しかったわけでも、拘りを感じられたわけでも、有名な店だったわけでもない。

 でも、これといって特徴のない天ざる蕎麦を食べながら――とりあえず、俺は茶園の味方でいてやろうと思った。苛つくことも、むかつくことも、いろいろあるけれど。これからもたくさんあるだろうけど。

 隣で「このエビ天、衣が多すぎないか?」と怪訝な顔をしている千学吹奏楽部のコーチが、堂林慶太にはそれができると、信じたのだから。


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風に恋う|額賀澪|番外編

『風に恋う』(文藝春秋)の番外編です。作者が自由気ままに書いていますが、出版社を通していないので誤字脱字など未校正の部分がありますことをご了承ください。
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