猫と狸と恋する歌舞伎町|1章-4

---

 しばらくして、車が停まるのがわかった。俺を膝に抱えていた男が、袋を両手で抱えて車を降りる。足音の響き方が変わったから、建物の中に入ったのだろう。エレベーターに乗ったのも音で見当がついた。

 廊下を少し歩いて、男が部屋に入る。耳に神経を集中すると、部屋の中にすでに人の気配があった。俺をここに連れてきたのが四人。少なくともそれ以上の人数が今、俺を囲んでいる。

 さて、どうやって逃げようか。彼等は、俺が人から猫に化けても驚かなかった。分かりきった様子で俺を捕らえた。俺が人間以外のものに化けたところで、勝算はあるだろうか。

 考えているうちに、袋ごと床に置かれた。口を結んでいたロープが緩められて、角張った大きな掌が入り込んできて、うなじを掴まれ、袋の中から引き摺り出される。引っ掻き傷の一つでも負わせてやろうと思ったが、男はご丁寧に革手袋をしたままだった。

 息苦しい袋の中から顔を出して、大きく息を吸う。

 顔を上げて、息を呑んだ。喉の奥から、ひゃん、という悲鳴に似た甲高い音がした。

 鼻と鼻が触れ合いそうなくらい近くに、人の顔があった。切れ長の目が、真っ直ぐ俺を見ている。微かに青みがかった黒い瞳の中に、三毛猫の顔が映り込む。

 男だった。年はわからない。俺よりずっと年上なんだろうけど、四十代なのか、五十代なのか、はたまた六十代なのか。判断がつかないのは、頭髪が白いからだ。撫でつけられた真っ白な髪は、部屋の照明のせいなのか、彼の瞳と同じように青みがかって見える。毛の一本一本が銀色に光っているようだった。

 白髪の男は、何も言わず右手を伸ばしてきた。手袋も何も身につけていない細長い指が、長身の若い男に代わって俺のうなじを掴む。

「オスなのに三毛か」

 俺の体をしげしげと眺めた白髪の男は、開口一番そう言って、薄く笑った。「これは珍しい」と、自分の顎を左手でするすると撫でる。

 何故だろう。逃げる方法をずっと考えていたはずなのに、体がすくんで動けない。一言で表現するなら、やばい。この男はやばい。俺のしっぽを掴んだ長身の男にも、俺を取り囲んだぎらついた目の男達にもなかった強烈な圧がある。地の底から響いてくる凄みだ。皮膚からじわりじわりと染み入ってきて、動けなくなる。

 男は俺を床に下ろした。そこでやっと周囲を見回す余裕ができて、自分が十人近い男達に囲まれていたことに気づく。黒スーツを着た男達が、一匹の三毛猫を取り囲んでいる。一般社会で健全に働き、健全に生きている人間達ではない。明らかに違う。

 そして彼等の中心に立つ白髪の男は、もっと違う。俺が《人間ごっこ》を楽しんできた人間社会において、こんな威圧感を背負った奴を見たことがない。

「お前、人に化けられるんだろう?」

 上等そうな三つ揃いのスーツを着た白髪の男は、俺を見下ろして言った。

「化けてみろ、谷中千歳」

 静まりかえった夜の空に浮かぶ、月のような声だった。

 名前を知られていることに、俺は震え上がった。この男は、俺を捕らえたこの男達は、俺が化け猫で、さらには人間として生活していることまで知り尽くしている。

 一歩、二歩と後退ると、背後で俺を逃がすまいと男達が息を止める。白髪の男を見上げたまま、俺はふっと体の力を抜いた。降参だ。これは、抗ってはいけない。喧嘩をしてはいけない。俺に勝ち目はない。ならば戦わずに生き延びる方法を画策するべきだ。

 親とか兄弟とか、仲間とか。自分を守ってくれるものを持たない存在は、そうやって生き延びるしかないんだから。

 男達の目の前で、三毛猫から人間の谷中千歳へと姿を変える。もう誰も驚かなかった。黒尽くめの男達の中に、いかにも大学生な出で立ちの俺は、あまりにも分が悪い。もっと他の姿に変化すべきだったかもしれないけれど、この状況ではたとえアイデアがあったとしても実行できる気がしない。

「化けても目の色は変わらないんだな。顔立ちも、猫のときの名残があるぞ」

 そんな俺の心を読んだみたいに、白髪の男が鼻を鳴らして笑う。

「話には聞いていたが、これはこれは飛んだ若造が来たもんだ」

 呆れたようにそう言って、俺の顔を見る。微かに、口の端を吊り上げて。

「お前、愛宕椿という娘を知ってるだろう。千駄木駅近くのアパートで一人暮らしをしていて、谷中銀座にある『猫のしっぽ屋』という店で週五日アルバイトをしている女の子だ」

「まあ、それなりには」

 やっとのことで、そう声に出す。一体どうして、こんな男が椿を知っているのか。

 白髪の男は笑みを絶やすことなくこう続けた。

「申し遅れた。俺の名前は愛宕君彦。愛宕組という任侠団体の組長をしている」

「あ……」

 愛宕。

 冷水を、全身に浴びた気分だ。その苗字にも、愛宕組という言葉にも、任侠団体、組長という言葉にも。

「……それは、つまり」

「椿は俺の娘だ」

 可愛い可愛い一人娘だよ。念を押すようにそう言って、白髪の男は――愛宕君彦は音もなく俺に一歩歩み寄ってくる。後退りたいのに後退れない。

「要するに、『お前、よくも人の娘を傷物にしてくれたな』『組長の娘に手を出すとはいい度胸だ』ということだ」

 口元は浅く笑っているのに、鼻から上はくすりともしていない。少しでも動いたら、その眼光に息の根を止められる気がした。

「お前は椿がストーカーにでも付きまとわれていると思ったらしいが、俺が組員達に監視させていたのはお前の方だ。ただの大学生かと思いきや、やれ『正体は猫だ』『人に化ける猫だ』なんて報告が上がってきて、世界は広いなあと思ったよ」

 合点がいった。ここ数日、椿の周辺に渦巻いていた違和感の正体は、椿ではなく俺を監視していたというわけか。愛宕組の組長の娘にちょっかいを出す、どこの馬の骨ともわからない男を。俺がそれに気づいて椿の周辺を探っていることすらも、彼等には見え見えだったのだろう。

 今夜、あからさまなくらい堂々と長身の男が椿のアパートに向かったのは、俺をおびき出すためだったに違いない。

 まんまと、その誘いに乗ってしまったんだ、俺は。

「ここに連れてこられた理由をわかってもらったところで、本題に入ろう」

 そう言った愛宕君彦の目の奥に、今までにはなかった熱が籠もるのが見えた。流れ星のようにふっと現れて、切れ長の両目に灯ったのだ。

 怒りの炎が。



この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがとうございます。
10

猫と狸と恋する歌舞伎町|額賀澪|試し読み

男子大学生に化けて気ままに生きるオスの三毛猫・千歳は恋に落ちた。相手は、谷中のドーナツ屋さんで働く人間の女の子・椿。自分の正体を明かすことができずに悩む千歳……けれども、彼女の秘密の方がもっとすごかった!お互いに秘密を抱えた奇妙なカップルが、運命に翻弄されながらも、自分らし...
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。