猫と狸と恋する歌舞伎町|1章-3

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 午後六時前、椿がいつも通りレジの点検を始めた。しっぽ屋の斜向かいにある喫茶店・満満堂の窓から、俺はそれを確認した。通りを行き交う人々に目を凝らしても、不審な人物はいない。不自然にしっぽ屋の周辺をうろつく人物も、一箇所に留まって椿を監視している人間も見当たらない。しっぽ屋を訪れる客も、いたって普通の人間ばかりだった。

 マスターに「もうそろそろ閉店だよ」と声を掛けられ、俺は手元にあったコーヒーを飲み干した。程よい酸味と甘みのグアテマラ。マスターには「今日はジャコウネココーヒーがあるよ」と勧められたけど、ジャコウネコが食べて排泄したコーヒー豆で淹れるコーヒーを(いくら洗ってあろうとも)猫の俺が飲むわけなかろう。

 会計をして、さまざまな種類のコーヒーが香る店をあとにした。時間を確認する振りをしながら、しっぽ屋のレジに立つ椿を確認し、周囲に目を凝らす。今日はいつもの《谷中千歳》の姿ではなく、出先でサボっている若いサラリーマンの格好でいるから、椿も俺に気づくことはない。目をまじまじと見られでもしない限り、大丈夫だろう。

 人混みに流されるように歩き、人気のない路地で猫の姿に戻った。商店街の屋根を、しっぽ屋を含めた谷中銀座全体がよく見える高いところまで移動する。

 細い通りを歩く人間達を見下ろすこと、一時間。しっぽ屋の営業時間が終わり、しばらくすると椿が裏口からリュックを背負って出てきた。

 肉屋で鶏肉を買った椿は、そのまま真っ直ぐアパートのある千駄木駅方面に向かって歩く。徐々に、椿の周囲から人間の数が減っていく。その度に身構えた。数日前に感じた刺すような視線の持ち主が、今にも路地からぬっと現れるのではないかと思って。

 椿がアパートの階段を上る。二階の角部屋のドアを開け、中に入るのを向かいの民家の屋根から見届けた。部屋に明かりが灯るのも、しっかりと。

 何もなかった。この三日間、こうして椿の周囲を見回ったけれど、結局不審な人物はいなかった。もしかしたら、俺の勘違いだったのかもしれない。

 民家の屋根から塀へと飛び移り、谷中銀座にある寝床に戻ろうとしたときだった。

 通りに面した建物と建物の間から、椿のアパートを見上げる人間を、俺は見つけた。間違いなかった。二階の角部屋。椿の部屋を見ている。カーテンの隙間からこぼれる明かりを、じっと。

 男だった。しばらくすると、奴は物陰からするりと抜け出して道路を渡り、椿のアパートに近づいていく。横断歩道の信号が青になったのを見計らって、奴の元へ走った。横断歩道を渡っていた若い女性が「あっ、猫!」と近寄って来たが、愛嬌を振りまいている余裕などない。

 アパートの敷地に男が入ったのを確認して、塀を跳び越えてアパートの裏手に回る。表へ走っていくと、男は各部屋の玄関が見渡せる場所に立っていた。悠然と、堂々と。視線はやはり、椿の部屋に向いている。

「――ねえ」

 毛を逆立てるように全身に力を入れて、人の姿に変化する。いつもの、《大学生の谷中千歳》の姿に。奴は、俺を知っているはずだ。

 俺が姿を現しても、彼は驚かなかった。ゆっくりと視線を椿の部屋から俺へと移し、瞬きを一度だけする。

「あんた、この間も谷中銀座で彼女のことを見てただろ」

 椿のアパートのドアを指さして、そう聞く。

 街灯の下で見る男は、葬式にでも参列するような真っ黒なスーツを着ていた。年は多分、二十代半ばから後半というところか。よく連んでいる大学生達より大人びて見える。長身の角張った体は、異常なくらい姿勢がよくて、何だか作りものみたいだった。

 背骨を真っ直ぐに伸ばしたまま、男は俺を見る。夜闇みたいに真っ黒で、能面みたいに感情の読めない目を凝らして。

「何? あんたもしかしてストーカー? 椿は気づいてないみたいだけど、あんまりあの子に付きまとうようなら――」

 そこまで言って、思わず息を呑んだ。言葉が続かなかった。

 アパートの門が開いて、三、四十代くらいの男が二人、敷地内に入ってきた。目の前にいる若い男と違い、足取りが一歩一歩重苦しい。地面に足を突き刺すような威圧感があって、体は大柄で骨っぽい。目は、静かなのにぎらぎらとしている。

 明らかに、普通の人間ではなかった。普通に働き、普通に家族を持ち、普通にこの街で生きている人々とは違う。違う世界にいるのが丸わかりの顔だ。一人に至っては額に傷がある。皮膚がひび割れてしまったような、生々しい傷が。

 妖怪にでも猛獣にでも化けて驚かせてやればいいと思っていた。どうせ、しっぽ屋に来る若いサラリーマンが椿に惚れ込んで付きまとっているんだろうって。

 どうやらこれは、事情が違うようだ。

 背後で物音がして振り返ると、男がもう一人、アパートの裏手からこちらに歩み寄ってきた。どいつもこいつも似たような黒いスーツを着ている。まるで、夜に溶ける色をあえてまとっているみたいに。

 逃げ道も完全に塞がれた。普通の大学生だったら、ここで彼等にボコボコにされるなり殺されるなりして終わりだ。

「なんか、物騒だなあ」

 あえて能天気な声を上げて、笑いながら後頭部を掻く。ははは、ははは。笑いながら右足に力を込めた。背後の男が俺に迫ってくるのが足音でわかる。その音を合図に、俺も地面を蹴った。

 目の前に立つ長身の若い男が身構える。その動きがあまりに自然で、なのに力強くて、これは正々堂々と喧嘩なんてしちゃ駄目だと思った。

 男の手が俺に触れるか触れないかのところで大きく息を吸い、変化を解いた。視線が一気に低くなり、体が軽くなる。もっと禍々しいものにでも化けてやりたいところだけれど、生憎、変化した状態から別のものに変化をすることが俺はできない。

 でも、猫の姿で充分だった。男は突然現れた猫に、一瞬動きを止めた。

 男の死角に回り込むようにして、姿勢のいい体を素早くよじ登った。右足から腰を辿って背中に、左肩を蹴って、近くの塀へと飛び移る。追い込んだと思った若造が猫に変化するとは思うまい。爪でスーツに傷をつけたかもしれないけれど、それはご愛嬌だ。

 塀から隣の家の屋根へ。逃走ルートを宙で思い描いた瞬間、しっぽに激痛が走った。正確には、しっぽの付け根に。

 振り返ったら、長身の若い男が俺のしっぽを掴んでいた。

 まるで、実は俺が猫に化けるのをわかっていました、という顔で。眉一つ、動かしていなかった。

 駄目だ。しっぽは駄目だ。痛い。痛い痛い痛い! 猫のしっぽは敏感なんだ。しっぽの先まで神経が束になって繋がってるんだ。引っ張っちゃ駄目、絶対!

 悲鳴を上げて、四肢をばたつかせて。必死に男の手から逃れようとしていたら、気づけば首根っこを掴まれていた。自分の後ろ足がぶらんと揺れる。顔を上げると、男と目が合った。

 人が猫に化けたというのに、男は全く動揺していなかった。怖いくらい冷静に、三毛猫の俺を見ていた。その目にこのまま吸い込まれるんじゃないかと思った。

「本当に、首を掴むと大人しくなるんですね」

 やや擦れた深みのある声で、そう言われる。はっと我に返って、奴の顔に向かって前足を振り下ろした。爪を立てた前足は彼に届くことなく、虚しく空振りする。手でも腕でもいいから引っ掻いてやろうと思ったら、男は真っ黒な革手袋をしていた。

 まるで、猫を相手にすることを予想していたみたいに。

 側にいた男が、布袋とロープを運んでくる。暴れる俺を男達は布袋に押し込め、袋の口を太いロープで縛り上げた。

 袋の布地は予想以上に厚くて、爪を立てても噛みついても、破れる気配すらしなかった。暴れ回る俺に、長身の若い男ではない誰かが「静かにしろ」とか「大人しくしろ」と声を荒らげる。黙れ。これが大人しくしていられるか。

 ドアが開く音がして、何やら柔らかいものの上にのせられた。それが人間の膝だと気づいた瞬間、袋の上から首の後ろを掴まれ、無理矢理伏せの体勢を取らされる。多分、この手の主は俺のしっぽを掴んだ、長身の、擦れ声の若い男だ。

 有無を言わせない力強さに、だんだんと頭が冷静になっていく。このまま自分がどうなるのかを考えた。最悪の結末を想像し、昼間に食べた学食のカレーを吐きそうになる。

 周囲に人の気配がして、話し声が聞こえてくる。近くからエンジン音が響く。どうやら車に乗せられてどこかへ連れて行かれるようだ。何も見えないし、男達も何も喋らなくなる。時間の感覚がだんだんとなくなって、一時間たったのか、はたまた十分程度なのか、判断がつかなくなっていった。

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