風に恋う|番外編|ラメント

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 久々に訪れた母校だったけれど、瑛太郎(えいたろう)が守衛所の警備員に呼び止められることはなかった。

 大学を卒業して、まだ二年もたっていない。警備員の目には、自分の姿は現役の学生にしか見えなくて、社会人らしい何かしらも、きっとまとえていないのだろう。
 四年間過ごした大学のキャンパスから懐かしさを感じるような年でもない。当然、ない。

 中庭を横切って、部室棟へと向かう。「吹奏楽部」というプレートの掲げられた戸をノックすると、聞こえてきたのは予想していたのとは違う声だった。

 戸を開けると、酷く懐かしい香りがした。
 一つの場所に、楽器が――音楽が集まっている匂いだ。

 中学校入学と同時に吹奏楽部に入部して、大学を卒業するまで、ずっと、当たり前に自分の生活の中にあったもの。大学を卒業して、如何に貴重だったかを思い知ったもの。

 コンクリートが剥き出しになった室内は薄暗く、ひんやりとしていた。冬の気配も感じられるようになったこの時期は、肌寒いくらいだ。

「OBの不破先輩ですよね?」

 楽器の山から離れた部屋の隅に、見知らぬ男子学生が一人、パイプ椅子に座っていた。先ほどの声の主だった。

「大畑は?」

 今日、ここに来るために連絡を取っていた後輩の名前を出すと、彼は「二日酔いでダウンしてます」と肩を揺らして笑った。

「なので、俺が代打で不破先輩をお待ちしてました」
「悪かったな、わざわざ時間作ってもらっちゃって」
「今日は三限が休講だったんで、大丈夫です」

 そう言うと、彼はそそくさと自分の荷物を抱えて部室を出て行く。「一時間くらいたったら戻るんで、ご自由にどうぞ」と、瑛太郎に笑いかけて。

 一人残されて、瑛太郎は改めて部室を見回した。
 自分がいた頃と何も変わっていない。懐かしさに浸かっている場合ではないと頭を振って、手にしていた楽器ケースを開けた。

 窓からの日射しに、中で眠っていたアルトサックスが淡く光る。どれくらいこいつに触れていなかっただろう。リードを咥えながら、すぐには思い出せないくらい前なのだと気づいて、息が苦しくなった。

 サックスを組み立てて、唾液で湿らせたリードをマウスピースにセットして、息を吹き込む。長く放置してしまったことを謝罪して、宥めて、やり直そうと懇願するみたいに。少しずつ金色の管が温まっていくのを指先で感じながら勝手に、こいつは許してくれるはずだと思う。

 だって、このアルトサックスと自分は、十年以上一緒にいるのだから。

 誰もいない響き渡ったアルトサックスの音に、一人、聴き入った。間違いなく自分の音で、安心する。同時に、心臓のあるあたりがじんと痛んだ。

「……どうしてかなあ」

 こんなにも、こんなにも、俺はあの頃の俺から離れてしまったのか。どうして、楽器に触れる時間も環境もなくなって、「思い切りサックスを吹ける時間」を求めて、大学の後輩にこうして部室を借りているのだろう。どうして、こんなことをしているんだろう。

 鞄をひっくり返して、自宅から持って来た楽譜を床に広げる。古いものだと、中学時代にコンクールで吹いた楽譜まであった。

 目についた曲を、メロディを、音符を、片っ端から追いかけた。どれだけ触れていなかった時間が長かろうと、楽器は息を吹き込めば応えてくれる。

 『汐風のマーチ』『二つの交響的断章』《交響詩「ローマの祭」》《吹奏楽のための「風之舞」》《交響曲「ワイン・ダーク・シー」》『オリエント急行』『宝島』『スパイラル・ダンシング』『華麗なる舞曲』。

 息つく間もなく、立て続けに九曲吹いた。自分という人間が、最高に輝いていた頃に吹いていた曲ばかりだった。そうだ、全部、高校三年の定期演奏会で吹いた曲だ。

 母校の高校には、小さなチャペルがあった。そこで、吹奏楽部は毎年三月に演奏会をした。青いステンドグラスから海の底のような静かな光が差し込む、神秘的なステージだった。

 あの頃の自分は、まさか数年後にこんな風になっているなんて想像すらしてなかった。自分の未来に疑いを持っていなかった。吹奏楽をやっている限り、自分の人生はずっと輝かしいものであり続けると、そう信じていた。

 一体どれくらいたっただろうか。音の海から瑛太郎を引き上げるように、誰かが息を吸う気配がした。

「あのう……」

 サックスのマウスピースから口を離した瞬間、背後からそんな声が飛んでくる。振り返ると、先ほどの男子学生が、先ほどと同じようにパイプ椅子に座って瑛太郎を見ていた。

「すみません、入ってきたことにも気づいてないみたいだったんで」

 手には、金色のホルンを抱えている。

「ずっと吹いてたんですね」

 そう言われて、初めて時間を確認した。ここへ来て、もう一時間半以上たっていた。椅子にも座らず、床に膝をついたまま、ずっと吹いていたということか。昔の甘くて眩しい思い出にどっぷり浸って、懐かしんで、羨みながら。

「次の曲、一緒に吹いてもいいですか?」

 ホルンの細く小さなマウスピースに息を吹き込みながら、彼が聞いてくる。

「構わないけど」

 立ち上がると、硬い床にずっと触れていた両膝が悲鳴を上げて、ふらついた。近くにあったパイプ椅子に腰を下ろし、大きく深呼吸をする。唇が熱を持って、横隔膜がひりひりと痛んだ。懐かしい痛みだった。

 大袈裟に言うなら、自分が生きていることを実感できる痛みだった。

「何がいい?」
「選曲はお任せします」

 あの定期演奏会のアンコール曲は、何だっただろうか。
 部室の天井を見上げると、すぐに曲名が降ってくる。

「《大行進曲「大日本」》と、『シング・シング・シング』、どっちがいい?」

 彼に礼を言って、「今度飯でも奢る」と約束をして部室を出ると、陽がすっかり傾いていた。肌寒い風まで、キャンパスの中庭を吹き抜けていた。もう、冬が目の前まで来ている。あっという間に年が明け、春が来る。

 ポケットからスマホを取り出して、高校時代の恩師に電話を掛けた。

「三好先生、瑛太郎です」

 返ってきた声は、昔と比べると張りがなくて、音がやせ細っていた。
 それでも先生は「おお、瑛太郎か」と笑った。炭酸の泡がぱちぱちと弾けるみたいな、期待感と高揚感がこもった声で。

 来年の四月から、母校の吹奏楽部をコーチとして指導しないか。そう打診してきたときから、この人は瑛太郎がどんな答えを出すのかわかっていたに違いない。

「千学のコーチ、俺にやらせてください」

 高校時代の自分が、人生で一番輝いていた。
 そんな不甲斐ない自分を変えられるとしたら、それはあの場所以外にない。今日、はっきりとわかった。
 久々に楽器に触れて、その音色に全身を浸して、改めて思い知った。

「全日本コンクール、もう一度行きます」

 サックスのケースの取っ手を強く握って発した言葉に、ほんの少し、高校時代の自分の後ろ姿が見えた気がした。


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風に恋う|額賀澪|番外編

『風に恋う』(文藝春秋)の番外編です。作者が自由気ままに書いていますが、出版社を通していないので誤字脱字など未校正の部分がありますことをご了承ください。
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