風に恋う β版|序章|02

 ◆

「なあ、茶園(ちゃえん)、本当に吹奏楽やめちゃうの」

 隣から、杉野が大きく肩を回しながら基(もとき)の顔を覗き込んできた。

「そうだね」

 ステージ袖の暗闇で指を順番に動かしながら、茶園基は自分の掌に向かって呟く。ステージから聞こえる華やかな音色に包まれながら、指の先端まで血を行き渡らせる。

「やめるよ」

 およそ半年前、九月に行われた西関東吹奏楽コンクールで、基達のいる大迫第一中学吹奏楽部は敗退した。目標としていた全日本吹奏楽コンクールには進めなかった。三年間で、ただの一度も。このまま、基は中学を卒業する。

「燃え尽きたっていうか、やりきったって感じがするし、高校はのんびり帰宅部かな」
「もったいないな」

 杉野の言葉に基は応えなかった。ネックストラップの位置を直すと、布と皮膚の薄いところが擦
れてぴりりとした痛みが走る。

 抱えていたアルトサックスの表面をそっと撫でる。こうしてネックストラップで自分の体と繫いでいると、本当に体の一部のように思えてくる。でも今日は、自分たちの間に薄い壁があるというか、アルトサックスが膜に包まれているようだった。

 しょうがないじゃないか。思わず声に出しそうになったとき、基達を包んでいた音楽が終わった。客席から拍手が聞こえる。

 袖に集まっていた三年生達が、足音を忍ばせて一箇所に集まる。それぞれの手には楽器がある。みんな、コンクールが終わったと同時に吹奏楽部を引退した。大迫一中では毎年三月上旬に定期演奏会を開催する。クライマックスで受験を終えたばかりの三年生が最後の演奏をするが恒例なのだ。練習期間は一週間もない。追い立てられるように最後の演奏に臨むというのは、やはり緊張する。

 二年と半年の間、毎日吹奏楽漬けだった。それと比べたら受験生だった時間は短い。勉強ばかりの日々に耐えられなくなって楽器に触れたこともあった。けれど、それまでの期間があまりに濃密だったから、逆に虚しくなった。

「半年もほとんど練習してなかったのに、一週間で元に戻せるわけないじゃんね」

 一人がそう言う。よく去年の先輩達、こんな状態でちゃんと演奏してたよね。尊敬しちゃう。いや、そもそも尊敬してるけどさ。みんながそう言い合っているうちに、ステージから声が聞こえてきた。司会を担当する二年生のものだ。

「それでは次が、いよいよ最後の曲です。この曲は、僕達をずっと引っ張ってくれていた、三年生
の先輩方と一緒に演奏します」

 言葉尻が若干震えたように聞こえた。緊張しているのではなくて、多分、ちょっと涙目になっているんだろうなと思った。

 自分の目には涙の気配がない。コンクールのときに散々流してしまったから、体が「何を今更」と思っているのかもしれない。

「それでは聴いてください。定番中の定番です。明るく三年生を送り出したいと思います。真島俊夫編曲、『宝島』です」

 曲名がコールされるのと同時に基達はステージに出て、それぞれのパートの場所へと散っていく。保護者や関係者ばかりの客席からは、割れんばかりの拍手が響いた。拍手が、基の中に巣食っていた緊張を消す。いや、拍手に背中を押されるようにして緊張が姿を変える。本番とは、いつもそういうものだ。

 顧問の筒井先生が客席に一礼して、指揮台の上に立つ。譜面台を捲り、「さあて、最後だし楽しく行こうか」と破顔した。練習のときはしょっちゅう怒るし、ねちねちと同じ場所を何度も何度も何度も吹かせる人だけれど、今日ばかりは清々しい笑顔をしていた。

 先生が指揮棒を構える。基はアルトサックスのマウスピース部分を口に含んだ。舌が木製のリード部分に触れる。

 この感覚が、結構、好きだった。楽器が自分の中に浸透していくのが。

 指揮棒が振られ、アゴゴベルの甲高くリズミカルな鐘の音が響く。会場である市民文化ホールの壁や天井に、金色の粉が舞うようだった。ドラムとかシンバルとかタンバリンとか、打楽器の音が入り乱れる。

『宝島』は吹奏楽では定番中の定番。誰もが一度は吹いたことがある曲だし、基も小学四年で吹奏楽を始めてから、幾度となく演奏してきた。演奏会のクライマックスに相応しい、音のお祭り騒ぎだった。

 緊張は高揚感になり、冷たかった指は温かくなり、胸に残っていた寂しさを覆い隠してくれる。ここまで賑やかなら、寂しいとか悲しいとか、そんな気持ちを感じずに済む。

 ソロパートが回ってきて、基は立ち上がった。十六分音符の複雑な運指に、真鍮製の黄金色をしたその体内から、端正に編み上げられた音があふれてくる。サックスの姿は、植物のようだ。神様が精密に丁寧に、愛を込めて作ってくれた。折れ曲がった円すい管も、蔦のようにそれに絡みつく音を操るためのキーやレバーも、朝顔の花のように広がるラッパも。すべてが完璧で、完成されていて、美しい。

 そんな愛する楽器との《最後》が、サックスソロがあり、吹奏楽に関わる誰からも愛される『宝島』っていうのも、素敵だ。頰をわずかに緩めながら、基は低音から高音へ一気に駆け上がる。高く高く、どこかへ続く階段を駆け上がるみたいに。その先に何があるかわからないのに、とにかく全力で、何かを振り切るようにして、走る。

 愛を振り切って、別れを告げる演奏をする。

 お前の吹奏楽人生は、そんなものでよかったのか。そんな声が、どこかから聞こえてきた気がした。いいんだよ、とは返せなかった。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがとうございます。
21

額賀 澪 NUKAGA Mio

小説家。最新刊『風に恋う』発売中。2015年松本清張賞・小学館文庫小説賞受賞。既刊『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』『タスキメシ』『さよならクリームソーダ』『拝啓、本が売れません』など。詳しくは>>>http://nukaga-mio.work/

『風に恋う』β版|額賀澪|試し読み

7/13刊行の音楽×青春小説『風に恋う』(文藝春秋)の校了前の文章(β版)です。ほとんど初稿の状態です。なので、誤字脱字など、未校正の部分がありますことをご了承ください。(『拝啓、本が売れません』(KKベストセラーズ)に先行掲載したものとほぼ同じ内容です)イラスト:hiko
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。