猫と狸と恋する歌舞伎町|1章-1

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 球を追うのは得意だ。

「千歳っ!」

 ペアを組んでいた圭輔が俺を呼ぶ。その声より早く駆け出し、サイドラインの際を狙い撃つようにバウンドしたテニスボールを、ラケットで掬い上げた。勢いを殺して打ち返したボールは緩やかにネットを掠め、ぽとりと相手コートに落ちる。それを拾おうとした信太が、ネットの側にスライディングしてきて、そのまま動かなくなった。

「負けたあ……」

 やや遅れて、信太のくぐもった声が聞こえてくる。信太とペアを組んでいた和浩がコートに両足を投げ出して座り込み、天井を仰ぎ見た。

「俺に拾えないボールはない!」

 そんな二人を順番に指さし、「参ったか!」と高笑いしてやる。俺の声は雨よけの屋根に反響し、池袋の街並みへ風に乗って飛んでいった。

「そんなこと言って、テニス部には絶対に入らないよな」

 呆れ顔で笑う圭輔とハイタッチをして、ベンチに置いていたタオルで顔を拭く。堪らなく、いい気分だ。

「猟ある猫は爪を隠すんだよ」
「それ、鷹じゃなかったっけ?」
「猫でも同じ意味の諺があるの。猫の方が可愛いだろ」

 長い長い大学生の夏休みが明けて三日。九月ももうすぐ終わる。威圧感たっぷりの入道雲を見かけることもなくなって、いつの間にか体育館の屋上にあるテニスコートには秋の匂いのする風が吹くようになった。

「二人とも、俺と千歳にラーメンな」

 勝負の前にしていた約束を、圭輔が改めて信太と和浩に突きつける。「わかってるよ」と肩を竦めた二人に、「俺はつけ麺!」と両手を挙げて主張した。ラケットを握っていて汗ばんだ掌に風が気持ちいい。それに誘われるようにフェンス際へ近寄っていくと、青空の下に池袋のビル群が広がっている。サンシャインシティに東武百貨店に西武池袋、ルミネに東京芸術劇場。この街は楽しいものばかりだ。

 ここだけじゃない。新宿も渋谷も原宿も、とにかく人間の集まるところは面白い。

「なあ谷中、つけ麺って学食のじゃ駄目?」
 背後から、信太がそんなことを聞いてくる。
「嫌だ。俺、狸穴のつけ麺食いたい」
「えー、駅の反対側じゃん」
 大学は池袋駅の西口側にある。俺が挙げた店は東口側だから、確かに少し遠い。
「いいじゃん。カロリー摂取しに行くんだから、ちょっと運動しようよ」

 体育館を出て、駅の反対側にあるラーメン屋まで歩いて行った。信太と和浩の奢りでつけ麺を食べて、大学に戻って午後の授業を受けた。圭輔のバイトの時間まで学食でだらだらと喋って、五時過ぎに俺は一人大学を出た。

 池袋から山手線で六駅、日暮里駅で下車する。大きく伸びをして、体をぶるりと振るわせて、道行く人の影に紛れて並木道を進んだ。徐々に道幅が狭くなり、商業施設が集まった池袋の街並みとは違う、東京の古き良き下町の面影が色濃くなっていく。

 道の先に五本の車止めが見えてきた。その向こうから夕日が俺に向かって差す。この温かな光を気持ちがいいと思えるようになると、秋が来たという気分になる。昔からそうだ。俺がチビだった頃から、ずっと。

 車止めを越えると、谷中銀座へと下りる緩やかな階段がオレンジ色に染まっていた。周囲に高い建物がないから、視界が開けて晴れやかな気分になる。古びた街並みの向こうに沈んでいく太陽を、俺は階段に腰を下ろしてしばらく眺めていた。近くを、この界隈に住む猫達がうろうろしている。俺と同じように階段に座り込んで、道行く人や秋の空をぼんやりと眺める。夕焼けが綺麗に見えるから「夕やけだんだん」なんて名前がつけられて、最近はちょっとした観光スポットになっているが、猫にはそんなこと関係ない。暑すぎず寒すぎず。猫にとってはいい陽気だ。呑気にマイペースに、人間に「可愛い、可愛い」と愛でてもらいながら、悠々自適に暮らす。それが猫の生き方だ。

 夕暮れの谷中の町を、階段に寝そべる猫達を、一眼レフを抱えた女の子が写真に撮っていた。そのままインスタグラムにでもアップするんだろうか、一匹の猫(奴の名前はミックスだ。白い毛と灰色の毛が混じり合っているから)をしつこく撮る。ミックスはあんまり写真が好きじゃないから、ついにはプイと横を向いてどこかに走り去ってしまった。

 去り際に俺を見つけて、「嫌なもの見ちまった」と言いたげに顔を顰めたけれど、そんな対応にももう慣れたから気にならない。

 一眼レフの女の子が俺を見る。ふふっと笑って、俺の写真を一枚だけ撮った。そのままゆっくりこちらに近づいてくる。サービスしてやってもいいけど、今日はこのあと行くところがある。

「あ、目が金色だ」

 彼女はそう言って、俺の傍らに屈み込もうとした。俺を撫でようとする手をするりと躱して、「夕やけだんだん」を駆け下りる。心の中で「ごめんね」と謝って、彼女にウインクしてやる。向こうは気づかなかっただろうけど。

 夕方の谷中銀座は賑やかだ。池袋の町とは違った賑やかさがここにはある。人間と人間が言葉を交わす息遣いがあちこちから聞こえて、土や木や葉の匂いがするようだった。池袋や新宿や渋谷のように、楽しいものや面白いものであふれているわけではない。でも――俺が谷中の生まれで、谷中という苗字を持っているから贔屓目に見てしまうのかもしれないけれど、それでもこの街はいいところだ。

《美粧院》を名乗る店が未だにあって、個人経営の古い書店や電器屋や不動産屋がある。かりんとうを焼く匂い、コロッケを揚げる匂い、イカや芋を焼く匂い。とにかく美味しいものの匂いがする。それらに気を取られていると、人間の足や自転車にぶつかりそうになる。

 食べ物の誘惑を振り切って、俺は甘い香りが漂う小さな店へと入っていった。油断していると見過ごしてしまいそうなその店には、「猫のしっぽ屋」という看板が掲げられている。可愛らしい猫のイラスト付きだ。

 店内にはショーケースがあるだけ。猫の足跡がペイントされたショーケースの中には、猫のしっぽの形をしたドーナツが並んでいる。穴の空いた丸い形ではなく、細長い棒状で、模様によって味が違う。チョコチップが練り込まれたドーナツは《ブチ》、ココア生地が混ぜられてトラ柄になっているドーナツは《トラ》というように、猫の毛色のような商品名がつけられている。

 客がいないのをいいことに、俺はショーケースに前足をついた。肉球に、ガラスの冷たさが伝わってくる。しかし、ケースの向こうで作業をする女の子は俺に気づかない。持ち帰り用の紙袋のストックでも確認しているのか、こちらに背を向けたままだ。

 俺はケースのガラスで自分の顔を確認した。ドーナツの上に浮かび上がるように、俺の顔が映り込んでいる。白、茶色、黒。三色がバランスよく混ざり合った俺の体は、自分で言うのもなんだが可愛らしいと思う。特に顔。黄金のようにキラキラと光る黄色い目とピンと尖った耳は、なかなか愛嬌がある。

 ケースの向こうで作業していた女の子がこちらを向いた。レジを開けて、お金の計算をし始める。でも、俺にはまだ気づかない。緩いウェーブパーマのかかった黒いボブカットを揺らし、千円札の束を数えてはレジに戻し、違う束を数える。

 彼女がすべての札束を数え終わるのを見計らって、俺は鳴いた。

「――にゃあ」

 絡みつくような甘えた泣き声に、彼女の――愛宕椿の動きが止まる。ハッと顔を上げて、ショーケースから身を乗り出してきた。

 俺を見て、目を丸くして、次の瞬間には花が咲いたような可愛らしい笑顔を浮かべる。顔をくしゃっとさせて、全身で笑うみたいにして。まるで、目の前で火花が散ったようだった。ぱっと周囲が明るくなった。

「なんだ、あんた来てたの」

 彼女の声に応えるようにもう一度「にゃあ」と鳴いて、ケースの横からレジの方へと回り込む。椿がいつも休憩に使っている丸っこいシルエットをした木製の椅子に飛び乗って、彼女を見上げた。

「ごめん、気づかなかったよ」

 ほんのりドーナツの香りがする細い手で俺の頭を撫で、背中を撫で、顎の下を撫でる。

「甘えてもドーナツはあげないよ」

 俺が喉をごろごろと鳴らすと、彼女は笑いながらそう言った。「猫はあんまり甘いものは食べちゃ駄目なんだよ」と。構わずごろんと横になると、椿は手の甲で腹を撫でてくれた。

「食べ物がほしいなら、隣の方がミケちゃんがほしいものがいっぱいあるんじゃないの?」

 椿が隣にある総菜屋を指さしても、俺は椅子の上に居続けた。隣はコロッケやメンチが人気の店だ。老夫婦が二人で切り盛りしている。しかし、俺は別に食べ物がほしくてここに来ているわけではない。

「ミケちゃん大人しいから、いたいならいていいけどね。私も癒されるし」

《ミケちゃん》という呼び方は、明らかにメス猫に対するものだ。オスの三毛猫なんて滅多にいないから、俺がまさかオスだなんて、きっと想像もしていない。

「今日も綺麗なお目々してるね」

 額を指の腹でぐりぐりと撫でてくる椿に、俺は機嫌良く「にゃあ」と鳴いた。容姿を褒められるのは、猫の姿でも人間の姿でも嬉しい。

 しっぽ屋の閉店時間は夜の七時。閉店ギリギリまで客はちょこちょことやって来た。椿は笑顔で応対し、俺が鳴くと頭を撫でてくれた。




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