猫と狸と恋する歌舞伎町|1章-5

---

「お前が化け猫だろうが人間だろうが俺にとってはどうだっていい。自分の力をどう使ってどう生きようと俺が知ったことじゃない。だが、椿に手を出されたとなっちゃ話は別だ。いくら家出中と言っても、あいつはああ見えて、愛宕組の跡継ぎ候補だからな」

 ゆらりと、目の前で炎が揺らめいたように錯覚した。愛宕君彦の右手が伸びる。胸ぐらを掴まれるのかと思ったら、前髪を長い五本の指に鷲掴みにされた。無意識にこの男の視線を避けて俯いていたらしい。生え際に走った痛みに喉が窄まる。悲鳴を上げそうになる。首筋が粟立って、膝が震える。しっぽを掴まれるより、ずっとずっと怖い。この男は怖い。

「椿とは別れろ。二度と関わるな。約束するなら生きて谷根千に帰してやる」

《約束》なんて優しい言葉を使っておいて、こちらに選択肢なんてない。これは命令だ。自分の命が惜しいなら椿から離れろという、愛宕組の組長からの、命令。

 椿の顔が思い浮かぶ。くしゃっと音が聞こえてきそうな笑い方。ふんわりとした髪の毛。俺の目を綺麗だと言う女の子。

 あの子が、この男の娘。全然似てない。椿にはこんな威圧感もどす黒いエネルギーもなければ、そもそも自分の親がそんなとんでもない存在だなんて匂わせもしなかった。

 ああ、でも。

 でも、椿は絶対に家族の話をしなかった。生まれ育った町のことも、子供の頃のことも、絶対に。俺にとってそれは好都合だったのだけれど、親が任侠団体の組長だなんて、言えるわけがない。自分の正体が化け猫だと俺が言えないのと、同じように。

 だって、椿は――。

「わかったなら、『はい』とでも『にゃん』とでも言ってみろ」

 こんな物騒な人物の口から「にゃん」なんて言葉が飛び出したことに、笑いが込み上げてくる。自分でも驚いた。気がついたら、肩を揺らして笑ってしまっていたから。

 多分、俺の中の恐怖の許容量が限界を超えた。

 俺の前髪を掴む手に力が込められ、愛宕君彦が口を開きかける。静かで冷然とした声が聞こえる前に、俺は自分の唇を舐めた。カラカラに乾いていて、自分の唾液が染みた。

「自分の生まれ故郷は地下の街みたいなんだって、椿が言ってたよ。嫌な臭いがして、空が狭くて遠いって」

 そう言った彼女の横顔からは、寂しさとは違う感情が見え隠れしていた。決意とか覚悟とか。もっと熱烈な何かが。

「ここがどこなのか、あんた達がどこで暮らしてるのか知らないけど、椿はきっと、そんな場所で生きていくのが心底嫌になって飛び出したんだろうね」

 この男を怒らせたら本当に命はないとわかっているのに、どうしてこんな挑発的なことが言えるのか。ネジが外れた俺の頭では、答えが出せなかった。

「いい度胸をしてる」

 俺の前髪を解放したと思ったら、愛宕君彦は俺の胸ぐらを掴んで窓際へと連れて行った。暗幕のような分厚いカーテンを開け放ったと思ったら、窓ガラスに顔を押しつけられた。ごん、という重い音が脳内に響き、ガラスのひんやりとした素っ気ない温度が伝わってくる。

 真近に見えたネオンに、顔を顰めた。下品なくらい派手で、攻撃的なまでに激しい光が、ビルとビルの隙間を埋めるように煌めいている。その向こうに見覚えのある細長いビルがあった。夜の街には爽やかすぎるスカイブルーのネオンが光る、新宿東宝ビル。何度か、あの中にあるTOHOシネマズに圭輔と映画を観に行ったことがあった。

「歌舞伎町……」

 ガラスに額を押しつけたままそう呟くと、俺の後頭部を鷲掴みにする手に、少しだけ熱が籠もった。

 空が狭い。椿の言葉の意味が、わかった気がした。ビルが建ち並び、人がひしめき合い、人工的な光と音にあふれたこの場所で見上げる空は、谷根千とは違う。

「そもそも空を見上げようなんて思う奴はいないよ、この街には」

 歌舞伎町にねぐらを構える任侠団体の組長の、その一人娘に手を出した。やっと、その事実を冷静に受け止められた気がした。目がチカチカするきらびやかな街を前に、頭の中が、胸の奥が、冷たくなっていく。

 約束を守ると誓うことで本当に生きて帰してもらえるのか。約束なんてものをこの男が端から守る気があるのか。俺を殺そうと思うのなら、この男はいとも簡単に殺すはずだ。

 化け猫は死んだらどうなるんだろう。死体はやはり、猫の姿なのだろうか。ならば処分だって簡単だ。俺の存在なんてあっという間に抹消できる。

 だって、多分、俺のことなど誰も探さないだろうから。

「一つ命乞いをするなら、俺はあんたの娘に手は出したけど、傷物にはしてない」

 震える喉の奥から、言葉を捻り出す。

「人間ごっこしてる化け猫だけど、流石に守りたい節度ってもんがあるでしょ。どんなに上手く化けたって、所詮は猫なんだから。まさか人間の女の子と本当に恋人になろうなんて思わないよ」

 どうしてだろう。本気で恋人になる気がないなら、節度なんて守らなくたっていいはずなのに。そんなに大切にしなくたっていいはずなのに。

「『お宅のお嬢さんと付き合ってはいるけど本気ではありませんでした』って言われて、はいそうですかと許す父親がいると思うか?」

「オスの三毛猫ってね、猫の世界じゃ不吉な存在なんだよ。化け物みたいなもんなの。異端なの。だから、猫じゃない誰かと一緒にいたかったんだよ。それがたまたまあんたの娘だったって話で……っていうか告白だってそもそもしてないし、三ヶ月も一緒にいるのにキスの一つすらしてないんだからなっ」

《もしも》の話なんてしたって意味ない。ないけれど、今まで散々《もしも》を考えた。もしも俺が椿と同じ人間だったら、きっとずっと一緒にいられたのだ。もしも化け猫でなかったら、谷中家の一員として谷根千の街で穏やかに暮らせただろうか。オスの三毛猫でなかったら、せめて猫社会からははみ出さずに済んだのだろうか。人生を共に歩むパートナーや家族といったものを得ることが、できたのだろうか。

 後頭部にかかっていた手が、ふっと離れた。窓ガラスから顔を上げると、椿の父親は先ほどと変わらない冷たい瞳で、俺を見下ろしていた。

「同じ穴の狸という言葉を知っているか」

 突然、そんなことを聞いてくる。

「同じ穴の……狢じゃなくて?」

 恐る恐るそう聞き返した俺に、愛宕君彦は「似たようなもんだ」と笑った。これまでの冷徹な笑い方ではなくて、ははっという、火花が弾けたような笑い方。白い歯を覗かせたその一瞬だけ、普通の人間らしい、俺と年の近い娘がいる父親らしい笑顔になった。何より、笑った顔が椿にそっくりだった。

「意味は同じだ」

 愛宕君彦はそれ以上何も言わず、俺から離れていく。部屋にいた男達に――要するに組員達に何やら指示を出して、何事もなかったかのように部屋を出て行く。

「運が悪かったらまた会おうか、化け猫」

 ドアが閉まる直前に、俺に向かってそんなことを言い放った。

*この続きは『猫と狸と恋する歌舞伎町』(額賀澪/新潮文庫nex)にてお楽しみください。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがとうございます。
12

猫と狸と恋する歌舞伎町|額賀澪|試し読み

男子大学生に化けて気ままに生きるオスの三毛猫・千歳は恋に落ちた。相手は、谷中のドーナツ屋さんで働く人間の女の子・椿。自分の正体を明かすことができずに悩む千歳……けれども、彼女の秘密の方がもっとすごかった!お互いに秘密を抱えた奇妙なカップルが、運命に翻弄されながらも、自分らし...
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。